自我を差し置いて

蝉の鳴き声が聞こえる。蝉の鳴き声を意識して聞いたのは久しぶりだった。幼い頃、もしくは学生時代において夏の風物詩、季語のようだったのに、いつ頃からか蝉の鳴き声を聞くことがなくなった。蝉はもう絶滅したのではないだろうかとさえ思っていた。だから今こうやって蝉の鳴き声を聞くことに、かえって違和感を覚える。なんだ、まだいるじゃないか。あの空白は一体なんだったのか。名古屋に住んでいた頃、ベランダに落ちた蝉の死骸がいつまでも風化せず残っていた。それは冬になってもそのままで、季節感も何もない。いつまでそこにいる、と思っていても撤去しないかぎりそのままそこにある。ただ、蝉の鳴き声については意識していなかった。死骸の記憶はあるのに、鳴き声については覚えがない。周りの風景に一体化していたのか、それとも本当に聞こえていなかったのか、日本の夏から蝉は絶滅したと思っていた。しかし今はそれを聞いているため、蝉は確かに存在する。一人だけ遠い昔に戻ってきたような気持ちになる。

なんでもない写真を延々と眺めている。それは自分が撮ったものではないけれど、まるで自分の視点で見ているかのように、なんでもない。既視感と言うのか、特別なところが何もない、どこにでもあるような写真を見ている。それらを眺めても、何かこれといった特徴がない。珍しい物があるどころか、何を撮ろうとしているのかもわからない。何かを撮ろうという意思を感じられない。刺激もない。徘徊者がただ目に写った景色を遠くから眺め、撮っただけなのだろう。自分だけではなく、人もこうやってなんでもない景色を見ているんだな。それは一見どこにでもあるようで、まわりまわってそこにしかないものになっている。唯一無二を収めたような写真がもうありきたりに見えてしまうのと反対に。

今日もどこかで、ということを見聞きすれば日常という感覚が曖昧になる。各々の日常があり、日常そのものに普遍性はなく、どこまでが日常でどこからが非日常なのか。代わり映えしない日々こそが幻想ではないか、日常は変化に満ちている。今もどこかで、変化がある。変化こそが日常?そんなことはないだろう、だったら非日常とは何か。振れ幅の違いか、それとも、予測範囲で分けるのか、そこを越えると非日常と呼ぶのか、珍しい変化、予測範囲外。それとも心境だろうか。状況ではなく心境が日常と非日常を分ける。落ち着いていられないから非日常、冷静に対処できれば日常、受け入れることができれば日常、信じられないから非日常。思い返せば全てが日常になる。過去の出来事は、たとえそれが滅多に無いことで、受け入れ難いことであっても、もう特別には感じない。またこれからもあるかもしれない。だったらそれは既に日常の一部に組み込まれてしまっている。やがてその日常がなくなってしまったことと気づいて再び非日常に振り分けられる。