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「仕事ができる」が基準の全てという人

僕は仕事ができない。それは別にいい。僕が仕事ができない人間だからといって、尊大な態度でゴミのように扱ってくる人はいるが、それもまあ仕方ないから、別に構わない。構わないけれど、ちょっともったいないと思う。仕事ができない人の中にも、優しい人だったり楽しい人だったり、仕事以外のことで頼もしかったり良いところがある人はいっぱいいる。僕はそうではないけれど、そういう人たちを、ただ「仕事ができない」というだけで見下し、見限ってしまい、価値が無いと判断してしまうのはやはり傲慢な態度であり、そういう態度で人との出会い、付き合いを活かしきれないのはもったいないと思う。

そりゃあ職場に限って、もっと言えば職務を遂行するに限って言えば、仕事ができるに越したことはない。仕事ができなければ、職業人として困る存在だろう。無能だ、役立たずだ、と言って切り捨て、仕事ができる人間を替えゴマに持ってくれば、それで全てが解決する。しかし、仕事上の関係であったとしても、人間同士の関わり合いはそれだけではないはずだ。それが例え上司部下、先輩後輩、顧客取引先の関係であったとしても、仕事を円滑に遂行するにあたってのコミュニケーションは欠かせない。コミュニケーションを通じて他人を活かすのも自分の能力であり、助けるのも育てるのも能力だ。地味なフォワードに絶妙なパスを通し得点に繋ぐミッドフィルダーもいれば、地味だったフォワードを得点王に育てるコーチもいる。他人を殺すのだって自分の能力の無さだと言える。もちろん適性はあり、どうしても活かしきれないことだってあるだろう。自分の競争に苛烈なあまり、できない他人にかまっている余裕がないというのも、自分の能力の無さを現している。使えないからといって切り捨ててしまうのは、それ自体が無能の証明でしかない。使えない人間は自分自身ではないだろうか。他人とはそういう意味において自身の鏡である。

特に残念なのは、プライベートな場においても「仕事ができないやつは何やってもダメ」という態度を一貫して崩さない人だ。それはまるで、運動できないだけのクラスメイトをバカにする小学生のようだ。人を判断する全ての基準が仕事の出来不出来になっており、逆に仕事ができる人に対しては人格からセンスから何から全て肯定的に評価する傾向がある。仕事ができる人でもプライベートや人格に問題がある人はいくらでもいる。もちろん何もかも素晴らしい人はいて、何もかもダメな人だっているだろうし、仕事はできないけど何かがすごい人もいる。何故、それぞれの項目ごとに評価できないのか。立場や関係性に応じた優先順位はあるだろう。しかし、仕事の出来不出来なんてどうでもいい状況においてまで「仕事ができる」という評価基準を持ち出し、他人を評価するにあたってそれを絶対視する人がいる。また、プライベートが杜撰だからという理由で仕事の評価まで落とす人もいる。それはやはり正確ではないだろうし、項目ごとに、当人に見合った評価を下さないと、せっかくいい仕事をしていたり、仕事以外の面でいいところがあるにも関わらず、偏った目線で他のことまで評価してしまうのはどう考えてももったいない。仕事ができてもクズだ、という人に対してやはり仕事は任せたほうがいい。仕事はできないけど良い人だ、という人とも仕事以外で良好な関係を築けるだろうに。