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日記

実は空を飛べます

今日は空を飛ぶ夢を見た。空を飛ぶ夢はよく見る。しょっちゅう見る。あまりにも多く見るため、自分は空を飛べるんじゃないかと勘違いしてしまう。これらの夢は、ときどきは明晰夢で、自由自在に動くことができる。あまり意識していると目が覚めてしまうから調節が必要だ。空を飛ぶと言っても、実際には浮くような感じ。体を浮き上がらせようとする意思に呼応して、そのまま空中にすーっと浮かんでいく。どこまでも上空へ浮かんでいくこともできるが、自分の意思で高さを調節したり、前へ進んだりすることができる。

浮き初めの頃はこの調節に慣れなかったが、今となってはほぼ自由自在に空中で活動することができる。ドラゴンボールの舞空術みたいなものだ。しかしあれとは違って疲れたりしない。スピードを出して飛ぶこともない。空に浮かんでいるときは重力を感じないため、非常に心地がいい。浮力を感じる。水中に浮かんでいるときと似ているが、水中と違うのは抵抗を感じないこと。水の抵抗は大きいが、そういう動きにくさはない。空気抵抗も感じない。空を飛んでいるというよりは幽体離脱のような想像に近いが、人と話したりもできる。今朝は友人に向かって「実は俺、空飛べるんだよ」と言って飛ぶところを実践して見せびらかせていた。

夢の薬物の話

もう一つ夢の話。マンションのリビングのようなとろで何人か集まり、「いいのが手に入ったぞ」と言って渡された。キラキラのラメのような分厚い紙に、カステラのような黒い台紙がついている。大きさは買い物を一つしかしなかったときのレシートぐらい。何かの植物を加工したものらしい。「これをどうするんだ」と聞けば、くれた男(外国人だったと思う)が台紙を剥がし、ラメをくるくると丸めた。ラメは分厚く台紙を剥がした部分が粘着質になっており、丸まった状態で固定される。その先端に火を付け、反対側から煙を吸い出した。ちょうどタバコのように、キラキラのラメの筒を咥え、先端に火をつけて筒の穴を通った煙を吸うのだ。男は嬉しそうに周りの人間にもラメを配っていた。僕も台紙を剥がし、丸めて彼と同じように吸ってみた。最初はただ煙を吸い込んで吐いているだけだったが、そのうち指に挟んでいるラメのように、頭の中がキラキラしてきた。それでもまだ弱い、全然弱い、と思いながら効きが回るのを待ちつつ吸い続けていた。そのうち肩のあたりから全身に浮遊感が広がってきた。周りを見るとそんな顔した人間でいっぱいだった。僕はその中から誰か一人誘おうと思っていた。今やればすごいんだろうなとか思いながら話しかけているうちに目が覚めた。

資本論と旧約聖書

読書週間が続いており、今は「知っておきたいマルクス資本論」という入門書のような本を読んでいる。今までベトナムへ行ったりキューバへ行ったり旧ユーゴのボスニア・ヘルツェゴビナへ行ったりとあれだけ共産主義に関心を持ちながら、その教典とも言えるカール・マルクスの資本論は読んだことがない。だって難しい。実は岩波グレーの資本論1巻だけ持っているが、2ページも開いていない。読む気が起こらない。こういう本は本の中で今までなかったようなあらゆる言葉を定義しており、それをどんどん使ってくるため読みだすと文章以前に「その言葉の意味は何?」が連発する。もちろん日本語だから読めるんだけど「成素形態」とか「捨象」とか「有効労働」とかん?ん?となってしまう。だから原書ではなく入門書でも読んで概要ぐらい知っておこうとなった。

以前にもこれと同じようなことをしたことがある。僕はユダヤ人の本を読んでユダヤ人の友達もいて、シナゴーグにも行ったことがありアウシュヴィッツもイスラエルも訪れたのに、ユダヤ教の教典である旧約聖書を読んだことがない。なぜなら読むのが大変でめんどくさいから。それでも概要ぐらいは知りたいと思って同じく解説書を読んだ。こういうのは理解できようができまいが原典をたどる、というのが学習をすすめる上でもっとも基本的なことであり、その基本をないがしろにすると「資本論も読んでいないのに共産主義に興味あるとか言ってるの?」とか「ユダヤ教のこと調べておきながら旧約聖書読んだことないなんて話にならない」なんていう風に言われかねない。いや、誰が言うんだって話なんだけど、心のなかでは思われるかもしれない。ようするに、原典を通るのが王道なのだ。ただ僕は専門家でもないしめんどくさいから脇道に逸れ、理解もなんとなくでとどまり学術的体系のないオタク程度の知識で終わる。だから「勉強している」なんて胸を張って言えもしない。せいぜい「ちょっと興味があって」というぐらいの自信のない控えめな態度にならざるをえない。

しかしこの、資本論の入門書でさえ読むのが大変だ。言うならば教科書みたいなもんだから、大学のレポートを書くための参考図書を、趣味で読むことを想像してもらったらいい。進まないだろう。おもしろいとかおもしろくないとか以前にエンターテインメントではない。まぎれもない勉強の本だ。しかも読む必要はまったくない。何かの役に立つとかレポートを書いて単位をもらわないと卒業できないとかそういったことは全くない。だからやはり進まない。そう言えば今朝二度寝したときは学校に行かないといけなくて遅刻する夢だった。目覚めて我に返ると現実は、学校どころか会社もとっくに辞めていた。

本を同時に読めない

もう資本論の入門書を投げ出して高野秀行の「移民の宴」に手を伸ばしてしまいそうだ。同時に読めばいいじゃないかと思うかもしれないが、僕は一作品ずつしか本を読めない。その一作品も1日から1週間の間に読み終えてしまう(上中下巻ぐらいまでなら)。長い期間をかけたり間が空いてしまうと記憶が続かないため、可能な限り短い期間で一作品をだーっと読み終えては次、読み終えては次、と進んでいく。何作品もの本を同時に読んだりすると、内容が混同したりそれぞれの話に集中できなくてなにがなんだかわからなくなってくる。さすがに資本論の入門書と「移民の宴」は混ざらないだろうと思うかもしれないが、とにかく二作同時には集中できない。だから連続ドラマでも一つの番組を全話見終わるまで他の番組は見れないし、同時に何人もの人と付き合ったり浮気したりもできない。そんなことをしたら相手を別の人の名前で呼んでしまう。一直線にしか勧めない猪武者、イノシシといえば干支にあるが、昔干支を聞かれて「お前はどういう性格だろ」なんて言われたことがあり、あまりにも無理があると思った。

普通の人、普通じゃない人

「ワセダ三畳青春記」の感想にも書いたが、なぜ自分の目の届く範囲には変わった人がいないのだろうと嘆く。普通の人しかいない。別に普通を非難するつもりはないが「普通が一番難しい」とか「普通が一番いい」とかそういう意見にはなかなか賛成出来ない。個性とか個性的とか、そいうのは普通の範疇でどうでもいいんだけど、普通なのはやはりどうしてもつまらないと感じてしまう。自分の感覚としてはやはり、外国へ行っても普通のありきたりの人ばかりで意外だったし、どこを見渡しても普通の人しかいない。これはおそらく、僕のせいだと思う。自分が普通すぎるから、まわりにも普通の人しかいない。スタンド使いは引かれ合う、じゃないけれど普通じゃない人は普通じゃない人同士で引かれ合うんだと思った。そして僕は普通だから普通の人としか引かれ合わない。

じゃあ一体普通ってなんだ、普通の人ってどういう人だ、と思うかもしれないが、僕の中で普通じゃない人というのは、枠外の人だ。普通という概念が頭の中からすっかり抜け落ちてしまっている人が普通じゃない人だと思う。普通かどうかなんて、生まれてこの方意識したこともないような人。例えば、お金のことを考えないような人とか。それは貧しすぎるとか金持ちすぎるとか経済観念がないとかいう意味ではなく、お金がほしいと思ったことがなかったり、お金がいるとかお金の計算をしたことがないとか「今までコイツどうやって生きてきたんだ」と普通なら思ってしまうような人が普通ではない。普通の社会とか、社会生活とかを意識したことがないような人。普通について悩んでいたり社会に馴染めないとか言ってる人は全然普通だ。普通じゃない人はもっとブッ飛んでいる。「そんなヤツいるか?」と思う人の周りには多分普通の人しかいない。

そんな人はどこにいるのかというと、求道者とか、芸術家とか、宗教家とか、数学者とか哲学者にはときどきそういう人がいる。普通じゃない人になりたかった。そういう人たちと関わりたかった。