ブログ没ネタ供養集

まとめてブログに書こうと思っていたが、思いの外情報が集まらなかったり気が進まなかったことによって没ネタと化してしまったテーマの供養をしたいと思います。

今まで住んだところ

半年以上長く住んだ場所の印象を思い出してみようと思った。

京都

大阪

名古屋

トロント

パース

オーストラリアで長く住んだのはパースだけだった。パース市内に2ヶ月、郊外に5ヶ月で計7ヶ月ほど。それ以外はバイロンベイ、シドニー、メルボルンなどを転々としていた。

※何を書きたかったのか忘れてしまったため

海外から日本に戻ってきて聞かれたこと

どこの国が良かったか、やっぱり日本?食べ物のこと

どうやって生活していたか

これからどうするのか

※何を書いていいのかわからなくなったため

テレビゲーム世代

僕らの世代は、テレビゲームの世代だった。子供の遊び、第一位がテレビゲームだった。もちろんそれ以外にもいろいろな遊びはあった。ミニ四駆のコースがおもちゃ屋に設置されており、そこでパーツを買って組み立て競い合わせたりしていた。コースの周囲に陣取って駄菓子なんかを口に放り込み、その姿は子供ながらバクチに通うおっさんのようでもあった。ミニ四駆が速い子供はやはりレースゲームも得意だった。ミニ四駆と提携していたマンガやアニメがあり、僕自身はダッシュ四駆郎とかアバンテ兄弟とか爆走兄弟とか直撃世代ではなかったけれど、新しい機体が登場する度に商品として店頭に並び、子供たちは購買意欲を掻き立てられていた。改造と言ってタイヤ、モーター、ベアリング、シャーシといったよくわからない金属パーツを購入して組み替えるのがミニ四駆のビジネスモデルだったんだけど、デマやガセも出回り、モーターを分解しては動かなくなったり、ミニ四駆の規格ではないモーターを取り付けてゴキブリみたいな速さの実現する猛者や(たいていバランスが悪くてコースアウトする)、基本的にはお金と時間をかけただけ機体は速くなるというシビアな世界であり、金持ちの子と貧乏の子の間にある格差を子供ながら見せつけられた。それ以外に子供の遊びとしては、プラモデルがあった。SDガンダム全盛時であり、BB戦士や元祖SDが300〜1000円以下で購入できたためよく買っていた。

とかプラモデルを組み立てては改造して想像力をかきたてたり、

子供の頃は、それらが僕らの全てだったように思う。金は手段でしかなく、女

※テレビゲームに持って行くまでに飽きたため

無題のポエム

金欲、食欲、性欲にまみれたワンパターンのリアル・ワールド日常なんてつまんねえぜ、飽きちまったぜという方々を空想の世界へいざなおうと思います。空想とはすなわでぃ、ヴァーチャル、オプティックブラストみたいなゴーグルかけて今を煌めくVRなんて略し方は許しません、そんな流行病ではなく、はるか昔からある古典的な維持するために改革せよのエドマンド・バーク主義的空想、もはや妄想、空想の原点は妄想にあり、爆走少年、妄想を頭の中にとどめず、外側に排気ガス撒き散らしてしまおうという魂胆だ。そうやって個々の妄想はリアルワールドを媒介とした銀河を駆け巡り、シェア、リツイート、いいね!自らの妄想にとどまっていたはずの空想が他人の頭の中へ侵入し、世界観を共有することになる。「僕たち、本当はみんな同じ世界に生きていて、ほら、こうやってみんな分かり合えるんだ!」洗脳ではありません。パッケージ化された他人の妄想は各自の好みによって選ぶことができます。選べる妄想、それは空想、他人の想像、俺の感想、撒き散らしては、新たに広がる、拡張された素晴らしき幻想、我々二残サレタ時ハ最早アト四〇年カ若シクハ二日ヤモ知レヌ、然レドモヒト度幻惑ノ内側二潜ムヤ否ヤ、悠久ノ時ヲ過ゴスコトニ成ロウ。これはいわゆる、あれです。わかりやすく言うと世界の終わりの話なんですが、時間とは、この1分1秒の間に無限に存在するわけです。1分を1時間のように長く感じることがあります。同様に、1時間を1分のように短く感じることがあります。時間というのは一定ではありません。認識を意図的にずらすことによって、1分は1時間にも1年にも無限にも広がります。その認識をずらすという作業がつまり、細分化です。1秒を細かく分けていきます。0.1秒を10個、0.01秒を100個、0.0000000000000と幾つにも分けていけばそれはイコールではありませんが、限りなく無限に近い数の個体ができあがり、そのわずか1秒でさえ悠久の時として頭の中で無限に広がります。いつまでたっても1秒が終わらないように、妄想は、幻想は、夢は終わることがありません。かつて良キャラだった黒ヒゲ危機一髪の「人の夢は終わらねえ!」うるせぇ!ドン!今やラスボス筆頭格、それが我々のリアル・ワールドと時間の概念を異にするもう一つの世界の強みです。さあ扉を開けましょう、呼んでみましょうサザエさん!あなたの目の前のいたるところにその入口は有ります。気づかないうちに落っこちて目を覚ましたら10年経っていた浦島太郎的経験があなたにはありませんか?その時開いていた扉はまさしく竜宮城への扉、乗せられていた亀の背中、つるつる滑る、溝に爪ひっかける、日常ノ狭間二待チ構ヘ足ルハ、糾イノ門ナリ。

※あれ、これは投稿しなかったんだっけ、ポエミーで

無題の日記

心の余裕が無い。思えば心の余裕があったことなんて今までもなかった。中高生の頃は勉強もせず、勉強できないことを棚に上げながら勉強できないことに悩んでいた。自分の頭の悪さが忌々しかった。大学に入ってからはもう勉強のことはどうしようもなくなり、その先のことが頭から離れなかった。今後どうするんだろうと思いながら、何もやりたいことがなく、何もせず今のようにだらだらと過ごしていた。会社に入ってからはとにかく忙殺されていた。自分の意志なんていうのはそこにはなかったし、かといって流される素養も持ち合わせていなかった。うまく流されることができず、抜け出したいと思いながらもその先に何も見えなかった。ずっと不安を抱えていた。何かにのめり込んだり没頭したり、不安を忘れることができなかった。違和感を感じながらも答えは見いだせず、周りも自分も肯定できないまま10年、20年と時間だけが過ぎていった。それは今も続いている。

反社会

社会的な物事、掟、感情や反応といったものまで受け入れることができなかった。理解もできなかった。自分は反社会的なんだろうなと感じた。いわゆる反社会にも秩序がありルールがあり、それはそれで一つの社会として成り立っている。他の社会、一般的な社会と相容れないだけで、その属性は似通っているように思えた。根本は同じだなと感じて、そういうところにも馴染めなかった。その根本の部分、人間を形作る根本の部分からして違和感があった。自分に合うもの、自分を受け入れてくれるもの、自分が受け入れられる物事というのは、ここには存在しないんじゃないか。少なくとも団体として、組織として、社会として集まった時にそういう疎外感から抜け出せたことはなかった。自分が感銘を受ける人は、いつも違うものを見ていた。自分に同意してくれる人は、いつも違うものを見ていた。人と関わることで、自然と自らを浮き彫りにした。誰もいないほうが孤独を感じなかった。

※さんざん同じ事書いたよなーと思いながら手が止まって

非日常は薄れていく

予測もつかない非日常的なことが、どんどん薄れていく。これは、見たことがある、本で読んだことがある、行ったことがある、やったことがある、既に知っている、似たり寄ったり、そう思うたびに日々の感動は薄れていく。つまらない。難しい本を呼んだり新しく学を修めたり、行ったことのない場所に訪れたり、定住したり、体験したり、今まで触れてこなかった未知なるもの、新しいものに触れようとする、次のステージに上がるには、もうその敷居があまりに高く、それをまたごうとする労力を考えるだけで興が削がれるようになってしまう。好奇心が強ければその段階は超えられるのだろうけれど、そこまでの意欲がない。ただ日々のつまらなさだけがのしかかる。簡単なものから得るものもまだまだあって、しかしもう驚きがない。刺激がない。つまらない。かと言って新しい場所へは辿りつけない。そうやって前にも後ろにも歩めないまま停滞している。苦労を厭わないためには好奇心か強制力が必要で、そのどちらにも飽き飽きしている。もうここには何もない。見渡せる場所から得られるものに惹かれない。踏み荒らされた大地だ。手の届くところにはもう何も無くなった。草木一本目に入らない。

※またまたポエミーで

移民のための本格派レストラン

先日「移民の宴」という本を読んでいた。移民として日本に住んでいる外国人の家庭料理を紹介する本だが、そのうち何人かは祖国の料理を出すレストランを経営していた。移民として日本へ来た人が祖国の味も食べられるようにということで始められたレストランが多く、オーナーもシェフも外国人、おまけに客まで外国人だらけ。もはや店の中は日本ではない。レストランに訪れるだけで、日本にいながら海外気分を味わえるとは、なんて手軽なんだろう。そんなお店がところどころ出てきたのでまとめたいと思った。

ノング・イン・レイ

ミャンマー・シャン州

プチ・パリ

フランス

ぶーがる

沖縄系ブラジリアンバー

スパイスマジック カルカッタ

インド

スカズカ

ロシア

http://skazka.jp/

ゴマサバ

コンゴ

グラスワイン100円!! 超激安隠れ家アフリカレストラン「GOMASABA(ゴマサバ)」

※現存するか不明のレストランが多いこと、あまり数が集まらななかったこと、行って確かめていないためコメントが書けないから

「みんな同じ」「だから何?」

※タイトルから先を書けなくて

準三大欲求は物欲、金欲、承認欲

マズローなんてまともに勉強したことはないが、インターネットを見ていても性欲、食欲が反乱していることは見て取れる。性欲を取り巻く市場はバカでかく、やれモテだのSNSだの何かにつけて性欲に結びつけてはガン細胞のように市場そのものを席巻してしまう。それはもう生物の本能に刷り込まれた逃れることのできない願望であり、結局いかに生き残るか、種を残すかだけを考えずとも実行しているのが宿命だと言えるだろう。その次に見かけるのは食欲コンテンツ、グルメから健康食から話題の店、メニュー、シェフ、コンビニのスイーツまであふれかえっており全く興味を示せなくて全然面白くない。

※結局何が言いたいのかわからなくなり話を拡げられなくなって

当たり前のことを客観的に見るのが難しい

自分にとって当たり前のことは、それが当たり前であると無意識に思い込んでいるため、客観視するに至らないことが多い。ネットや本を読んでいても「なんでこんな当たり前のことをわざわざ書いているんだ?」と思うことは多いだろう。それは自分にとって当たり前だったとしても、それが他人にとっては新大陸発見に等しいからなのかもしれない。その当たり前にも何種類かあり、一つは知識としての当たり前、もう一つは習慣としての当たり前がある。

※これを書いてどうするのかと思い

無題の文章

私は昔から言葉数が少なく、誰かと関わるということをあまりしません。それは第一に、私がそういうことをあまり望まないということがあります。必要があって関わることは大いにありますが、それ以外はなんというか、だってそうでしょう、不必要に人と関わることがあまり快くないんです。そこで交わされるやりとりというものは糊塗されたものであり、偽りを感じます。だからといって、本心からの物言いは余計に憚られます。そこまでして、誰かにお伝えするようなことがあるでしょうか。第二に、私自身が人との関わりを得意としていないことがあります。自分の思ったことや言いたいことを上手く伝えるすべを知りません。必要があって伝えるにあたってもいつも失敗ばかりしており、それを直そうとしてもうまくいかず、結局間違って伝わったままになってしまいがちです。そのため、いつごろからか、うまくいかないんだったら初めからやらないでおこうという思いに変わりました。もしかすると、私が伝えようとすることが複雑過ぎるのかもしれません。そういったことを単純に誤解なく伝えるすべは、やはり私は持ちあわせておりません。第三に、仮に関わりを望んだとして、それがうまく伝わったとして、受け入れられないということがあります。言葉の意味はわかるけれど、理解はできない。私の言ったことは大体において拒絶されるか、否定されます。それはそのまま私自身への拒絶、否定へとつながり、恐ろしくてつい口をつぐんでしまいます。

ですからおそらく、私と会話をしたことがないあなたは私についてあまり印象をお持ちでないでしょう。それは確かにすれ違ったことや挨拶を交わしたことはあります。その程度で私はあなたを知らず、あなたは私について何も意識したことさえないかもしれません。

※手紙っぽく書きたかったのかな、続きが思い浮かばなくて

オーストラリアの話

トロントにはウミネコがたくさんいて、特に夏になるとそこら中でミャーミャーうるさかった。トロントに海はありません。

パースにいると、人の声みたいに鳴く鳥がいる。これもそこら中にいる。最初はびっくりするけどあまりにも多くてもう慣れた。

先住民

オージー訛り

スーパー

銀行
スーパーアニエーション
タックスファイルナンバー
携帯sim

※オーストラリアの話は結局あまり書けなかったなあ。まとまらなくて

迷わず成仏してくれ没ネタたちよ

削除してしまっているものも多いけれど、走り書きのメモとして残っていた没ネタをここで供養することで、メモを削除したいと思います。もうこれらのネタを書くことはありません。迷わず成仏してください。