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欲求に逆らえない姿が醜くもかつ美しい

欲望に支配された人間の姿はただ醜いと感じる。理性がなく、節度を知らず、思慮の痕跡も見られない、本能という電気信号の赴くまま我欲をフルスロットルでどばどば垂れ流している姿からは獣の臭いが漂っており、汚れと恐怖を連想させる。そういう姿に惹かれる人もいるだろう。「野性的な人がタイプ」なんて言いいながら暴力を見て鳥肌立てるような人がそれにあたる。野性的な雰囲気だけが好きという人はただのご都合主義だ。純正ならば粗雑で乱暴なほど血が滾る。僕はそうではない。

「野性的」なタイプの反対はなんだろうか。「洗練された」姿になる。品質、秩序、配慮が行き届いており、ノーブルでエンリッチでエスタブリッシュメントな態度だ。気持ち悪い。彼らはsnobという言葉を辞書で引いても意味がわからないだろう。自分がそれにあたるということを客観的に理解できないだろう。そこから逃げようとする姿さえそれにあたるというところまで認識が追いつかないだろう。もしくは開き直るだろう。醜い。洗練された人間に本能がないわけではない。ただ隠しているだけだ。表に出すことに対して「下品だ」「野蛮だ」という価値観を共有しているため、本能の営みは建前の裏で行われる。ドロドロとした動物的本能を内に秘めつつも、表面を薄く白い、いかにも清潔で触り心地の良い膜で覆う。駆け引きというやつだ。その薄い膜に至上の価値を見出しているのが「洗練された」タイプであり、やっていることは野性的な人間と大して変わらない。

相反するようで中身は同じである二つのタイプを述べたところで、本題は別のところにある。「欲求に逆らえない姿」とは、本能のあるがままではなく、理性で本能をコントロールすることでもない。「欲求に逆らえない」とあるように、逆らおうとしていることが重要である。逆らおうとしているのに、負けてしまうのだ。前に快楽と依存の仕組みという項目をちらっとまとめたが、快楽は脳内の快楽物質によって支配されている。快楽物質の快楽を忘れられず、支配されてしまうことを精神依存と呼ぶ。そのちょうど、快楽堕ちする境の部分が醜くかつ美しいと感じる瞬間だ。

頭では良くないことだと理解している。しかし脳が快楽物質を欲しがっている。この命令に逆らえず、理性に反してしまう姿。それが醜くかつ美しい。受け入れてしまったり開き直ってしまえばただ醜いだけで何とも思わない。だから僕はときどき我慢してもらうようにする。他人に快楽物質を仄めかしつつも、理性に訴えかけてブレーキをかける。そして相手の判断に委ねる。一度快楽の味を知っていれば大抵は快楽堕ちするけれど、理性が勝ちそうであればそこからさらに快楽を煽る。そしてまた理性に訴える。迷う姿、欲望に翻弄されながらも思い悩む滑稽な姿、葛藤、そこにか弱き人間の真実の姿があり、美を感じる。支配したいわけではない。ただその姿に見惚れたい。打ち勝つ姿もまた美しいが、そこに快楽はない。堕ちてしまうことで、背徳感を覚えつつも快楽に身を委ねる姿こそが至高の美と言える。肯定してはいけない。否定しながら、煩悶を楽しんでください。