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待合所①

「パスポート」

入国管理官がガラス越しにつぶやく。
男はガラスの隙間からパスポートを通す。入国管理官はページをパラパラとめくり、機械に通す。

「ビザは?」

「ここで受け取ることになっている」

「名前は?」

「そこに書いてあるだろう」

入国管理官は再びパスポートのページをめくり、台に置いて紙に書き取る。そして席を立ち、ドアを開けてガラス張りの箱のような部屋から出てきた。

「こっち」

入国管理官は男へ手招きをして、入国の列を抜けていく。男もあとを付いてく。その場に並んでいた入国待ちの人たちは、残されたままになった。交替の係員が来る気配はない。

男は別室へ連れていかれた。入国管理官は別室の奥にある棚から、分厚い台帳のようなものを取り出し、ページをめくった。

「種類は?」

「ビジネス」

入国管理官はページ大きく飛ばし、指でなぞる。字が小さいのか、眉間にしわを寄せている。さきほど男の名前を書き記した紙を台帳にはさみ、交互に見比べている。

「発行はいつ?」

入国管理官は台帳を持ったまま男を見る。

「今日じゃないのか」

「今日は、ないね。リストに載っていない。発行はいつなんだ?」

「そんなことは知らない。今日ここへ来てビザを受け取ると聞いている」

入国管理官は再び台帳に目をやり、ページを指でなぞる。

「そうか、しかしリストには載っていないんだ」

入国管理官はパスポートのページをめくるときと変わらない、そのままの調子で答える。男は一瞬感情の動きのようなものを顔に現すが、すぐ元に戻る。

「別の日も見てくれないか」

入国管理官は一度男の方を向くと、再び台帳に視線を戻し、名前を記した紙を抜いてページをめくる。

「ああ、しかし、時間がかかる。それにもし、今日以降の日付だったとしたら、今日はここを通れない。まだ届いていないことになるからな」

「とにかく調べてくれ」

男は言葉をかぶせるように答えた。入国管理官はその場で台帳を閉じると、棚の前からデスクへ移動し、座ってまた台帳を開いた。

「わかったよ。見つけたら呼びに行くから、待合所で待っていてくれ。ゲートの向かい側にある」

男はドアを開け、別室を出た。

再び入国ゲートの前を通る。人は並んでいたが、さきほど男が並んでいた列には人がいなくなっていた。入国管理官の箱も空のままである。他の列に並ぶ人たちは、少しずつではあるがゲートをくぐり、前へと進んでいた。入国ゲートの向かい側に、待合所はあった。一面がガラスになっており、中でベンチに腰掛けている人たちの姿が伺える。男が待合所のドアを開けると、そこには外から見るよりも多くの人がいた。スカーフをまとった女性とその子供、帽子をかぶったビジネススーツの男性、髭をたくわえリュックを足元に置く男性、てっぺんが禿げた白髪の男性、ポロシャツを着たアジア人の男性、男は空いている席を探しながら、待合所の中を進んだ。

男は席に座ると鞄を開け、中からファイルを取り出し、そこから一枚の紙を取り出した。紙は職場になるところから送られてきたものであり、今日の日付と、時間と、空港の待ち合わせ場所が記されている。まだ時間にはなっていないが、同僚になる人間か、もしくはタクシーが既に出迎えに来ているかもしれない。

待合所は静かだった。そこにいる者たちは、言葉をかわす相手もなく、置物のようにただじっと座っていた。男は職場へ電話をかけようと思い、席を立って待合所の外に出た。入国ゲートの前は、もう誰も並んでいなかった。入国管理官の箱にはまだ人影らしきものが見える。

男は備え付けの電話を探し歩いた。空港に着いたばかりで、連絡手段を持ち合わせていない。待合所から入国ゲートの前を通り過ぎ、飛行機を降りた場所から来た道を引き返していた。その道中に、電話はなかった。

男は別室のドアを開けた。そこには入国管理官がデスクに腰掛け、さきほどと同じ台帳を指でなぞっていた。男がドアを開けた音に気づき、男の顔を見た。

「電話を借りたいんだが」

男は入国管理官に尋ねた。

「ここにはないよ」

入国管理官は手のひらを上げ、部屋を見渡しながら目線に合わせて手を動かした。

「どこかで借りることはできないか。勤め先にビザの発行日を聞こうと思う」

入国管理官は動きを止めた。そして右手を尻に当て、ポケットから電話を取り出して見せた。

「俺のがある。番号はわかるのか」

「ああ」

男は電話を受け取ると、紙を見ながら番号を入力し、呼び出しを押して耳に当てた。電話からはコール音が鳴る。

「はい、もしもし」

「もしもし、そちら呼ばれて今日から伺うことになっているんだが」

「あ、はい。係りの者がただいま空港に向かっております」

やはり迎えの人間が空港に来ているようだ。

「それで、ビザのことなんだけど」

「ビザ、ですか」

「そうだ。今入国ゲート前にいるんだが、ビザが本日付で届いていないと言われた。何日付の発行になっているか、わかるか」

電話は少し間が空き、向こうから声が返ってきた。

「はあ、私ではわかりかねます。あいにく担当の者も外出しておりまして」

「わかった。では担当が帰ってきたら連絡するように伝えてくれ」

「かしこまりました」

男は電話を切り、入国管理官へ返した。

「電話が鳴ったら呼んでくれ。もしくは、電話の相手から発行日を確認してくれ」

そう言うと男は入国管理官の返事を聞かずに別室を出た。

入国ゲートからは、上着と同じ色の帽子を被り、サングラスをかけた女が旅行鞄を引いて歩いてきた。列に並ぶ人はおらず、入国管理官の箱には人が座っている。男が待合所の方へ歩いていると、女が後ろの方をついてきていた。男は待合所のドアを開け、中へ入りさきほど座った席の方へ向かった。ドアが再び開くと、女が中に入ってきた。女は旅行鞄を引きながら男の前を通り過ぎ、空いている席に座った。

男は時計を見た。迎えの人間はもう着いているかもしれない。男が空港から出てこないとなると、迎えの人間は職場へ連絡を入れるだろう。職場へ連絡を入れると、男から電話があったことを知らされるだろう。そしてビザの件を聞くだろう。迎えの人間が、ビザの発行日を知っているかもしれない。もしくは担当者に連絡を取って、ビザの発行日を聞いてくれるかもしれない。そうすれば入国管理官へ電話が入り、ビザが受け渡され、入国することができる。男はそのようなことを考えながら、時間が過ぎるのを待っていた。

待合所にいる他の者たちは、じっと座ったままだった。スカーフをまとった女性と子供の家族、ビジネススーツの男性、髪を縛り髭をたくわえたリュックの若者、禿げた白髪の老人、ポロシャツのアジア人、男がここに来る前からいた人たちは変わっていなかった。唯一男より後から入ってきたのも、その女だけだった。女はサングラスをかけたままベンチに腰掛け、どこか落ち着かない様子だった。

男はガラス越しに、入国ゲートの方を見ていた。人が並ぶために、道しるべのような仕切りが張られている。ゲートの前には誰もいない。高い天井と、そこからの降り注ぐ記号のような光を、床が反射している。ガラスの向こう側というよりは、ガラスにはめ込まれた一枚の絵のようであった。