待合所②

待合所のドアが開いた。ドアの向こうにいたのは、この空港の制服を着た係員だった。係員が現れると、男が座る席の後ろのほうで音がした。頭のてっぺんが禿げた白髪の老人が、正面のガラスを見たまま席から立ち上がっていた。立ち上がった老人は、そのままの姿勢で待合所の出入り口へと向かい、係員が開けたドアに触れ、待合所から消えていった。

老人がいなくなり、待合所からは人が一人減った。正確にはさきほど女が入ってきたため、男がはじめに入ってきてから人数は変わっていない。しかし男が見たのは、待合所の人が確実に入れ替わる瞬間だった。老人の順番がきて、老人は待合所から出ていった。男はその、確実に訪れるであろう順番を、ただ待っていればよかった。空港に迎えに来ている同僚は、男が出てこないことにそろそろ気づいているだろう。そして職場へ連絡を入れる。あとはビザの発行日を入国管理官に知らせれば、男へビザが手渡される。その間にも入国管理官は台帳を調べている。同僚からの電話よりも先に、男の名前を見つけるかもしれない。男はそのどちらか早い方を待っていればよかった。

それから、待合所に新しく入ってくる人はいなかった。それどころか、入国ゲートに並ぶ人影も見られない。男は思った。どこか別にもう一つのゲートがあり、そちらへ流れているのだろうか。あまり大きな空港ではないから、その線は考えにくい。おそらく次の飛行機が到着していないのだろう。男は目を凝らし、ガラス越しに入国管理官が入る箱を見た。姿が見えない。入国管理官は、人が並んでいないときも常に、あの場所に待機しているものだと男は思っていた。完全に無人になった入国ゲートは、男が作りあげた平静を刺激した。

男はガラス越しではなく、じかに確認しようと思い、席を立った。鞄を持ち、待合室のドアまで歩き、ドアを開けて待合室の外に出た。立ったまま壁にもたれかかり、入国ゲートを眺めた。ガラス越しの入国ゲートは一枚絵のように見えたが、そこは奥行きのある空間だった。人の気配がなく、静寂に包まれた空間は、時間が止まっているかのように感じられる。男は、何か動き出すものを探していた。別室のドアが開き、入国管理官がビザを手に駆けよってくる姿を、電話を片手に取り次ぎにくる姿を待ち望んでいた。そうでなくとも、誰か別の係員がこちらへ来て、待合所にいる誰かを連れ出していってくれることを待った。そうすることで、男は自らの順番が繰り上がることを実感できただろう。

後ろのドアが開いた。男は予期していなかった方向からの音に驚き、そちらを見た。サングラスの女が待合所から出てきた。男の首は既に元の方向に戻っていた。サングラスの女は男の隣に立つと、話しかけた。

「ねえ、あなた。喫煙所はどこかご存知?」

男は飛行機が降り立った場所から、入国ゲート前までの道のりを頭の中に思い浮かべた。

「いや、知らない」

「そう」

女は入国ゲートに向かって歩いていった。靴音が空間に響く。女は旅行鞄を引きずっておらず、待合所に置いてきたようだ。女は入国ゲートの前まで行くと、あたりを見渡した。そこには誰もいない。女は入国管理官が入る箱の中を覗き、人がいないことを確認すると、横を通っていった。

サングラスの女は、男の視界から消えた。入国ゲート前は再び無人になった。待合所の人数は、男を含め二人減った。男は壁から背を離し、入国ゲートの方へ歩いた。先ほどとは違う靴音が空間に響いた。入国ゲートには誰もいなかった。サングラスの女も、入国管理官も。男は入国管理官がビザの確認をしている別室へと向かって歩き出した。別室の前に立ち、ドアを開けようとすると動かない。鍵がかかっている。男はドアをノックした。中からは人の気配がしなかった。別室は空になっている。

男は別室前から入国ゲートへ戻り、周りを見渡した。後ろを振り向き、待合所のガラスを見ると、こちらを見ている者は誰もいなかった。男はゲートに近づき、入国管理官が入る箱の横を通り過ぎた。その先には荷物置き場への方向を指し示す標識があった。標識に従って歩くと、後ろから呼び止められた。

「そこのあなた、今ゲートを通っただろ。パスポートを見せなさい」

振り向くと、制服を着た警備員が向こうから近付いてきた。男の元まで歩み寄ると、手を差し出した。

「なんだ、どうした」

男は鞄からパスポートを取り出し、警備員に渡した。警備員はパスポートの写真と男の顔を見比べ、ページをひととおりめくると男に返した。

「入国手続が済んでいないではないか、密入国になるぞ。今回は不問にするからゲートの向こう側へ戻りなさい」

警備員はゲートを指差した。

「いや、しかし先ほど女が通っていったんだ」

男は荷物置き場への進路方向を指差した。

「何の話だ」

「ゲートのこちら側には喫煙所があるのか、女が通っていったんだ」

「女?何を言っている」

警備員は眉をひそめて男を見た。

「だから、先ほどこのゲートを女が通っていったんだ」

男の声は早口になり、うわずっていた。

「それがどうしたんだ」

「勝手に通っていったんだよ」

「そうか、わかったからあなたは早くゲートの向こうに戻りなさい」

警備員が男に近づき、男の背中に手を当てて誘導する。男は動こうとしなかった。

「女は喫煙所を探していたんだ。こちら側に喫煙所はあるのか」

「何を言っている」

「こちら側に喫煙所はあるのか」

警備員は脱力した顔をして答えた。

「喫煙所はない。外に出れば灰皿が備え付けられている。しかしそれは、入国してからの話だ。それまではゲートの向こう側で待っていなさい」

「しかし、女が通っていったんだ」

「その女というのはなんだ、さっきから。女の話はもういい」

警備員の声からは感情が読み取れる。男の腕を掴んで誘導しようとした。

「彼女は荷物を忘れているんだ」

警備員は男を引っ張る手を止めた。

「その女は、あなたの知り合いか?」

「そうではない」

「だったらもういいから、早くゲートの向こうに戻らないと、あなたを捕捉しなければならなくなる」

警備員は男を見ながら再びゲートを指差した。

「わかった。しかし、ビザは一体いつになるんだ」

「ビザ?そんなものは知らない。早く行きなさい」

そう言うと警備員は男に背を向け、もと来た方向へと歩いていった。