日記

銀行へ行ってきた

先日、外貨小切手取立(クリーン・ビル)の手続きやってもらおうと思って新生銀行に行ったが、業務そのものを行っていなかったため別の銀行に行った。この手続は口座を持っていないとやってくれないため、そのためだけに口座を作るのもバカらしく、あらかじめ口座を持っている都銀でやってもらうことにした。京都市は都銀の支店が著しく少なく、四条烏丸に集中している。

平日の昼間12時台、整理券の番号は3人待ち程度だったが、30分ぐらい待ったような気がする。体感だから、実際は15分かもしれない。窓口ではなくブースの順番を待つため、一人ひとりが長い。周りを見渡せば年寄りばかりだ。銀行は老人が蓄えた金で回っているのだろう。順番が回って来るまで、僕は安部公房の「他人の顔」を読んでいた。トイレに行きたかったが、行っている間に番号を呼ばれると困るため我慢していた。

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番号を呼ばれ、ブースに入ると銀行員は自分より若い女性だった。席に座り、「外貨小切手の取立をお願いしたいんですけど」と言った。珍しい手続きなんじゃないかと思っていたが、相手は特に動揺する様子もなく話を進めた。通帳、ハンコ、身分証、小切手を見せる。「手続きできるか照会しますので、その間こちらの用紙にご記入ください」と言われ、用紙に記入していた。小切手の取立を依頼する用紙である。名前、住所、電話番号、口座番号を記入する。全部手書きで、最後にハンコを押す、アナログだなー。

「照会の結果、手続きは可能です。外貨の受け取りにあたり、マイナンバーが必要なのですが本日お持ちでしょうか?」

僕はマイナンバー通知カードを鞄から出す。「こちらの用紙にご記入頂いてよろしいでしょうか?」と言われ、マイナンバーを登録するにあたっての約定書みたいなものを書く。名前、住所、電話番号、支店名、口座番号、マイナンバー、ハンコ、もちろん手書き。マイナンバー通知カードはコピーを取らせてもらっていいかと聞かれ、どうぞと答える。

「お口座の方を確認いたしましたところ、お電話番号が異なっており、勤務先が大学になっているようです。この度ご記入頂きましたお電話番号等へ変更する手続きが必要になります」

そう言われてまた紙を一枚出された。名前、住所、電話番号、支店名、口座番号、勤務先(無しと書いた)、ハンコ。となりのブースではネットバンキングの使い方についておばさんが延々と愚痴っている。銀行員の声は全く聞こえない。

「ご通帳の記帳を行ったところ、一杯になりました。ネットバンキングへ切り替えると紙の通帳は不要になりますが、いかがなされますか?」

当時からネットバンキングはあったが、システムが変わっており、紙の通帳が完全になくなるということだった。この口座はあまり使う予定がないものの、ネットバンキングへ切り替えるとATMの手数料がなくなるということでお願いした。「こちらがネットバンキングへの切り替え用紙になります」名前、住所、電話番号、支店名、口座番号、ハンコ、うあああああ何回やらせんねん無駄過ぎるやろこの手続!!!!!!書いた用紙は外貨小切手取立、マイナンバー、口座情報変更、ネットバンキング、計4枚に何度も同じことを書いてハンコを捺した。無駄手間過ぎるこの手続き、全部紙だしハンコだしアナログ過ぎる。電子化とかないわけ?ネットバンキング導入しても現場はこれなのか、もう手書きはやめようよ、ハンコもやめよう、同じ情報は自動入力にしてよ、こんな現場まだあるんだな、それが都銀、四大銀行、めちゃくちゃ遅れている。金融ってそんなに遅れていてもいいの?外国の銀行と比較するまでもなく、国内でも別の業界ならもっとテクノロジーが行き届いている。これは何なの一体、技術導入のコストがかかるから?いや、新しい金融商品とかサービスに向けてどんどん技術導入してるでしょう。なぜ現場はこのままなのか。もしかして、客が老人ばかりだから?客に合わせてアナログなままなの?それにしても同じことを何度も書かないといけないのは不便でめんどくさすぎる。結局は事務処理の問題じゃないのか。内部でいまだにアナログな処理しか受け付けていないのではないか。いや、管理するにあたってはどうせデジタル化しているはずなんだけど、その入口としてアナログな記入をさせるっていうのはどう考えても無駄じゃないですかね。それをまた誰かがデジタルに入力し直すんでしょ?そこに無駄な過程を二つ挟んでいる。こういうのがなくなる日は来ないのだろうか。そんなことを僕が考えてもしかたがなく、そういうアナログで無駄の多いサービスをどんどん使わなくなっていくだけの話でした。

ついでに肝心の外貨小切手取立、手続きがいつ終わるかわからない(2週間から1ヶ月かかる)、手続きができる日のレートで両替される、手数料は3,100円プラス相手の銀行にいくら取られるか金額はわからない、手続完了の通知等はない、とのことでした。

健康診断を受けなければならない

ネットで検索すると、1万円から1万5千円ぐらいかかるらしい。健康診断高すぎるだろ。しかし自治体を通せば500円で受けられるそうだ。なんだそれ、金額が違いすぎる。ただ、僕が必要な健康診断は項目が多く、指定の書式があり、自治体がそれに対応してくれるのかどうかわからない。対応してもらえないようであれば、結局病院へ直接行って健康診断を受けなければならない。500円で済むか1万円超えるかの分かれ目である。なんなのこの制度、極端過ぎる。

京都市:青年期健康診査

人間関係は一方的にはいられない。残念ながら

人との意思疎通は非常に困難である。はっきり言ってしまうと無理だ。各々が「自分はこうです」と主張して、お互いに認識し合うしかない。「これが普通」「これが当たり前」「これが常識」は通用しない。「こうするべき」「こうしたほうがいい」「こうしろ」も通じない。どちらかの一方的にはいられないのだ。僕はこう、君はそう、の両方が存在する。

おかしなことに、そこに論理的正しさがあっても受け入れない人は多い。論理的正しさを説明しても理解してもらえない、もしくは論理的に正しければ正しいほど、感情的に拒絶する傾向がある。とても正気とは思えないが、意外なことにそちらの方が多数派を占めている。人間を都合よく誘導したければ、それが論理的に正しいか否かは問題ではない。重要なのは、相手が感情的に気持ちよくなれるかどうか、気分良くなれるかどうか、だけ。それだけで自分に都合いいように相手を誘導することができる。中身の論理的正しさは問われない。もちろん、これは頭の悪い人にしか通用しない。頭のいい人は、それが感情的にどうかなんていう表面上のノイズに惑わされることなく、中身が論理的に正しいかどうかしか見ていない。質問や指摘する場合にも表面上のノイズは無視して、肝心の中身だけを問うてくる。逆に頭の悪い人は、表面上の快不快しか目に入らず、肝心の中身まで頭が回らない。感情は、直感とはまた違う。直感はむしろ中身の本質を見抜いていることが多い。

話がそれた。意思疎通において、論理的正しさは問われないという話。だから、それが例え正しかったとしても、相手は頑なに受け入れない。そうなってくると、もう意思疎通なんてあきらめるしかない。「自分がこうです」「こう思います」、相手も同じく「自分はこうです」「こう思います」それが一致しなければそこで終了。「人それぞれ」なんていうカスみたいな結論から先に進めない。自分の主張、相手の主張を通したりすることは不可能だ。建設的な議論というのは、そこで論理的正しさを追究していく過程を言うけれど、まあ機能しない。少なくとも日本でそれが機能する現場は存在するのだろうか。見たことがない。だから、結局、会議であれ会話であれ、意思表明の場でしかない。それ以上のものには成り得ない。表明した意見を相手が気に入るか、気に入らないか、好き嫌いだけ、それだけで終わる。そこにあたかも論理的であるかのような言い訳が付く。議論もしてないし追究してもいない、中身はなく形だけの言い訳。「好き嫌いで決めた」と言うのはかっこ悪いから、体裁を繕っているだけ。人と人が関わるにあたり、どちらか一方の意見が、それが正しいからといって通ることはない。そこに歩み寄りというのは存在しない。有ると感じたら、それらは全て錯覚である。必ず両方の意思が、疎通すること無しに存在する。表面化していないか、押し殺しているかは知らない。

もし状況が、何か一つの方向に進んでいるとしたら、そこには隠された別の方向が必ず存在する。自分の意思か、相手の意思か、それがまとまって一つになっているなんてことはまずない。そう見えるなら疑ったほうがいい。そこに隠された意味を理解しておいたほうがいい。もしかすると騙されているかもしれない。誘導されているかもしれない。相手が無理して自分に合わせてくれているかもしれない。お互いの意思を誤解しているかもしれない。