恋愛のことばっかり考えてるのは色情狂

それがいいとか悪いとかいう話ではない。恋愛のことばかり考えていたり、恋愛にしか興味ないような素振りは色情狂と同じだ。AVやエロ本やオナニー、風俗の話ばかりしているおっさんと変わらない。そういう自覚はあるのかなーって思う。そういう姿って、見ていてあまり気持ちのいいものではない。コンビニのエロ本コーナーで、笑顔でエロ本立ち読みしながら勃起するデブと、カフェで中身のない恋愛話を大声であけっぴろげに話す女は等しく吐きそうなのだ。俺の吐き気に配慮してそういう行為をやめてくれという話ではない。他人の行為を咎めるような権限は付与されていない。恥を忍んでくれという話でもない。それをどう思うかも本人の自由だ。気にしないならそれでも構わない。ただ、同じだよと言いたい。中身同じだよ。市民権を得ていると思っているかもしれないが、恋愛の話をしている人と虹ロリキモータの話の中身を突き詰めれば寸分違わないから。オブラートの枚数だけ。

同じでも構わない、わかっているんだったらそれでいいと思う。だとしたら、他人の同じような行為は咎めないでほしい。自分が平気でやっていることを、人がやっているのは許せないという人が世の中にはたくさんいて、あの態度はどうかなと思う。他人の態度や行いを批難するのであれば、せめて本人はそれをやらない人間でないと、その矛盾が頭の中でどう解決されているのか理解しがたい。モザイクかければいいの?オブラートに包むってそういうことでしょ?中身一緒じゃん。

例えば、僕は出会ったことないけれど、風俗嬢に説教するオヤジは都市伝説ではなく実在すると聞いたことがある。その心理は一体どうなっているのだろう。職業としての風俗嬢は卑しいから足を洗いなさい。自分はお金を払ってそういうサービスを利用するけれど、仕事はまともだから偉いっていう話だろうか。労働信仰の一種だろうか。とにかく、その買春をするおっさんがサービスの後に売春やめなさいと説教するのは矛盾を感じるだろう。利用しているお前が言うなと。僕が言いたいのはそういうことだ。だから相手が恋愛の話をしようものなら僕はシモネタをバンバン振るし、生理の話をしようものなら避妊具やローターの話もバンバン振る。

例えば、僕は無闇やたらに改行が入るケータイ小説みたいな文が苦手だ。そういう文章を読もうとすると非常に苦痛を感じるため、よほど内容がおもしろいと分かっているとき以外は読まないことにしている。一文ずつ改行されていたりスペースを空けるためだけに<p></p>が挿入されている文章は99%読まない。むしろ読めないと言ったほうが正しい。そんな僕の日記が改行だらけでスペース空きまくりだったら「ハア?」と思うだろう。「お前はやるんかい」と。それと同じ。自分は良くて、人はダメっていう態度をとるときに、自己矛盾に陥らないのだろうか?自分が否定する存在が、自分であるということに対して、自分の存在を否定するという自己矛盾に陥らないのだろうか?そこで「私はいいの」と言える根拠はなんだろう。何故?何故?どういう神経で自分は良くて人はダメと言えるのだろう。自分の中でその矛盾を一体どう処理するの?ただ単に認識が追いついていないだけなのだろうか。

自分がやられて嫌なことを人に強いるというのは、相手に自分の気持ちをわかってほしいからだろうか。そうやって苦痛を分かち合う仲間を増やしたい願望なのだろうか。自分の陥っている矛盾に気づいていないだけなら、それでいい。早く気づいて!!気づかせてあげて!!と思う。でも余計なお世話かもしれない。人間は案外そうやって、矛盾を抱えながら生きることに慣れているもんだから。人間はもしかすると、平等であるべきではないのかもしれない。どこかでそういった上下関係、許される誰かと、許されない誰かという立場の違いが必要なのかもしれない。そういう立場の争い、権力争いといった闘争が、人類を前へ進め後ろへ引っ張り右往左往しながら今もぐずぐずしているのかもしれない。なんだろう、人を変えるのは無理があるっていう話でした。自分の行動をじっくり、頭を使って振り返る時間が僕たちには必要だ。