現代史を辿る旅行

これまでの旅行には、共通したテーマを持って行ったものがいくつかあった。今年の2月から3月にかけてはユダヤ人(セファルディ)の軌跡を辿るというテーマのもとに、スペインからモロッコを経てイスラエルを訪れた。その旅行と一部被ってしまうことになるが、現代史を辿るというテーマでまとめられる旅行があった。今僕らが生きているこの世界が、何故このようになったのか、今の直接的な土台となっている現代史にその答えを求め、訪ねていた。

僕が生まれた1980年代は、まだ東西冷戦の真っ最中だった。その時代にはアメリカに匹敵するソ連という国が存在した。ハリウッド映画と言えば反共映画だった。ソ連は今のロシア以上に恐ろしい国として描かれ、同時に我々一般庶民にとっては訪れることも困難な遠い国だった。いつの日かロシアを、ソ連の名残りを求めて訪れたいと思っている。

少年時代にベルリンの壁が崩壊し、冷戦が終わった。昭和天皇の崩御もあった。それらの時代は今と全く別物のようでありながらも、今へ確実につながり、根付いている。僕たちが過ごした時代の前には何があったのか。今とどう違い、どのように関わっているのか。それを確かめずにはいられなくなり、答えを求め、各国を旅して周った。

1953〜59年.キューバ革命

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アメリカ、フロリダ州から150kmほど南に下った島国のキューバでは、アメリカ資本から逃れるための社会主義革命が起こった。キューバ革命はもともと社会主義を目指したものではなかったが、敵の敵は味方ということでソ連に歩み寄り、革命を果たすこととなった。その後1962年には、アメリカに向けての核ミサイルがキューバに設置されるというキューバ危機があった。キューバ危機は難を脱したが、アメリカとキューバは50年間国交の断絶が続き、2015年に回復した。

ソ連が崩壊して、現在もまだ社会主義が続くキューバとは、一体どのような国なのだろうか。その実態が気になり訪れた。キューバはまさに社会主義の国そのままだった。お金を両替するだけで1時間以上並ぶ。人々は物質文明への憧れが激しく、外貨を獲得することに躍起になる。しかし街にホームレスはおらず、教育や医療の機会も平等に与えられ、暴力的な事件も他の中米地域に比べて圧倒的に少ない。今年カストロが死去して、社会主義からの離脱はこれまで以上に進んでいくことだろう。自由と引き換えに格差や貧困のリスクが待ち受けている。この国はこれからどうなるのだろうか。

1955〜75年.ベトナム戦争

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その一歩先を行ったベトナム。こちらも社会主義国だが既に市場経済を導入しており、僕が訪れたときには高層ビルの建築ラッシュで外資が連なっていた。ベトナムは戦争終結とともに社会主義国として統一された。その後もカンボジアや中国と戦争をして、20世紀はまさに戦争漬けだった国だ。若い男性が兵隊に駆り出されていたため、現在の平均年齢は30歳と若い(日本は46歳)。

ベトナム戦争は現代史の大きなターニングポイントだった。よく、アメリカの綻びが露呈されたと言われている。初めてアメリカが負けた戦争だ。戦争はアメリカ社会に大きな歪を残し、戦後もたくさんの映画が作られ、小説が書かれた。そこには僕の知る限り、戦争を賛美するようなものはなかった。そのようにアメリカを追いやったベトナム戦争とは、そしてベトナムとはどのような国なのか、ずっと行ってみたいと思っていた。

僕が訪れたのは2010年だったが、とにかく最初に印象的だったのは街中に赤旗がひらめいていたことだった。労働者のシンボルである鎌と鎚のマーク、ソ連の国旗が街中に掲げられている。並んでベトナム建国の父、ホー・チ・ミンの肖像。それは現代を生きる僕にとって異様な光景だった。一方では外資を招き入れ、経済発展に勤しむ姿を呈しながらも共産党の一党独裁を続け、かといって中国ほど締め付けが厳しいわけでもない。当時の軍事基地まで観光客向けに開放し、観光事業に利用している。一体どうなっているんだこの国は。どうしたいんだ。まだまだ過渡期を思わせる様相だった。

1968年.プラハの春

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ベトナム戦争がアメリカの綻びであれば、プラハの春は共産主義陣営の綻びと言えるだろう。プラハの春は飽くまで社会主義の改革を目指したものであったが、ソ連はそういった動きを許さず戦車で首都に乗り込み、チェコスロバキアは反体制への監視国家となった。ソ連崩壊後、チェコはスロバキアと分離して民主化し、プラハの春を率いていた劇作家のヴァーツラフ・ハベルが大統領となった。

プラハの春についてはジョセフ・クーデルカの報道写真や、存在の耐えられない軽さといった小説、映画などで見ることができる。しかしその後、ソ連崩壊までの暗黒の時代と言われたチェコスロバキアが具体的にどうだったのかは詳しく知らない。どこからたどればいいのかわからない。

2010年に訪れたプラハの印象は、一言で言えば「文化的な貧しい国」だった。文化遺産を求めて多くの観光客が押し寄せていたものの、街にきらびやかな印象はない。ヨーロッパのエレガントさはあるものの、ホーチミンシティーのような満ち溢れたエネルギーは感じない。伝統的でどこか落ち着いた佇まいは、資本主義と不釣り合いにさえ感じられた。共産主義博物館にはレーニンやマルクス像が立ち並び、なかば見世物小屋のようになっていた。

1948年〜.中東戦争

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中東戦争は東西冷戦と直接関わりなかったが、第三次中東戦争にアメリカが関わったのはエジプトなどアラブ陣営をソ連が支援していたため、共産化を恐れた結果だと言われている。しかし中東における争いは冷戦構造よりも前に始まり今も続いている。きっかけは言わずと知れた、1948年のイスラエル建国だった。現在も続くISの問題やシリアの内戦も、元を辿ればパレスチナ問題が絡んでくる。

中東諸国は第一次大戦前、オスマン帝国に支配されていた。オスマン帝国が第一次大戦に敗れたことにより、一部がフランス領へ、一部はイギリス領となった後に独立、パレスチナは引き続きイギリスの委任統治領だった。第二次大戦中にユダヤ人難民がパレスチナに押し寄せ、戦後そこにイスラエルが建国された。シリアも第二次大戦後にフランスから独立した。このあたりは非常にややこしくていまだに覚えられない。

イスラエル建国の経緯にはバルフォア宣言もあるが、そもそも国民国家という概念が世界で定着してきたことによる、異なる存在への排外主義に原因があると言われている。それに加え、ソ連におけるポグロムやドイツのユダヤ人虐殺を逃れたユダヤ教徒が大挙してイスラエルに押し寄せ、イスラエル建国に至った。またさらに、パレスチナというアラブ人の土地に勝手にイスラエルが建国されたことで、アラブ諸国にいたユダヤ教徒たちも迫害されることになり、そこから逃れるためにまたイスラエルへ押し寄せた。

イスラエルは当初、いつなくなってもおかしくないと言われていたが、逆転して強大な軍事国家となった。国家対国家だった中東戦争は国家対組織の争いに変わり、イスラエルからパレスチナを取り戻そうとするアラブ人の組織、パレスチナ解放機構が、1988年にパレスチナ国になり、2012年には国連にも承認された(非加盟)。イスラエルとパレスチナの争いは今も続いている。

このイスラエルというできたばかりの人工国家はどのような国なのか、国土争いをしているパレスチナはどんなところか、アラブ教徒とユダヤ教徒がこの土地にこだわる理由となっている聖地エルサレムはどんな場所か、何があるのか、どうなっているのか、ずっと訪れたいと思っていた。アシュケナージ(ヨーロッパから来たユダヤ人)が作ったイスラエルは、中東には似合わない西洋文明の国そのものだった。そしてエルサレムは観光地だった。日本で言うところの門前町のようなところだ。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地の周りではそれぞれの宗教のグッズが売られていた。

ライフルを抱えたイスラエル軍の兵隊は街中のどこにでもいた。この国では男女ともに徴兵制であるため半分が女性だった。彼らは入国管理官などを除けば、気さくでフレンドリーだった。道に迷っていると女性兵士が声をかけてきて教えてくれたりする。一方アラブ人はと言うと、どこの国よりも険悪な雰囲気だった。国境を超えた先にあるパレスチナではそうでもなかった。パレスチナはイスラエルに隣接するまさに目と鼻の先にもかかわらず、思いっきりアラブの街の様相を呈していた。

1992〜95年.ボスニア紛争

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ヨーロッパの火薬庫と呼ばれたバルカン半島。第二次大戦を勝ち抜いたパルチザンが、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国としてこの地域をまとめる。冷戦崩壊後、ソ連と袂を分かち独自の社会主義を歩んでいたユーゴスラビアにも陰りが見えた。まず、ユーゴスラビアの立役者だった英雄ティトーの死があった。次に経済の低迷があった。コソボで緊張状態になり、経済優位性の高かかったスロベニアが独立した。続いてクロアチアが独立しようとしたところでユーゴスラビアを維持しようとするセルビア側と内戦になった。

ユーゴスラビアは各地で民族主義の内戦が起こり、特にセルビア人、クロアチア人、ボシュニャチが住んでいたボスニア・ヘルツェゴビナは三つ巴の激戦地となった。悪名高い民族浄化も各地で行われた。紛争の後、ユーゴスラビアは解体され6つの国に分かれた。ボスニア・ヘルツェゴビナでは各地でセルビア人が住む地域とボシュニャチが住む地域に分かれた。戦後まだ20年しか経っていない。

ユーゴスラビアとはなんだったのか。今ボスニアはどのようになっているのか。現代と呼べるヨーロッパで起こった民族対立とは、民族浄化とはいったいどのようなものだったのか。そこに住む彼らは何をどう考えるのか。それらは同時に過去の戦争や、現在別の地域で起こっている争いを理解するヒントにもなるんじゃないかと思った。

ボスニアで訪れたのはサラエボとスレブレニツァとモスタルだけだが、戦闘によって瓦礫となった部分が街中の至る所にかなり残っていた。ときどき傷痍軍人も見かける。たくさんの墓地も見かける。首都の中の歩いて行ける距離にいくつも墓地があるのだ。街は今まで訪れたどのヨーロッパよりも規模が小さかった。経済も全然うまく行ってないらしいのに、それでも観光客で賑い、現地の人たちからも暗い雰囲気というのはほとんど感じなかった。ただそれは雰囲気と印象だけだった。よく話してみると政治不信が強かったり、若い人には宗教に対する不信もあった。民族浄化の現場にいた人は、いまだ地獄をさまよっているようだった。

訪れる意味

これらは主に第二次大戦後の20世紀を追いかけるような旅行だった。「過去は過去としてすっかり様変わりしてしまった」という場所は少なかった。中にはプラハのように共産主義の見る影も形もない地域もあった。かと思えば中東のように今でも続いている争いもある。我々の住む世界の今と、直接結びつく過去、そこに住む人たちを巡ってきた。そこには形は違えど、確実に過去が根付き、現代を形作っていた。現地には文書や写真、映像では感じることのできない、ムード、匂いが漂っていた。そういう言葉では表せないものを感じるために旅行をしている。

旅行にはテーマを

他にテーマ性を持った旅行は、我々のような国と違う成り立ちを持つ、歴史の浅い「移民国家」の実態を感じるべく訪れたアメリカ、カナダ、オーストラリア。充実した福祉、高い利益率、質の良い教育制度、おまけに優れたデザインなどなかば神話じみた北欧という諸国の実態をこの目で見ようとスウェーデンを訪れた。こちらはノルウェー、フィンランド、デンマークなどまだまだ見てみたい場所があるため保留中。爆発する人口とカースト制、宗教争い、いまいちよくわからない経済の実態を呈するインドなどを訪れてきた。今までのテーマに沿って、より深い部分に踏み込みつつ、これからも新しいテーマを追いかける旅行を心がけていきたいと思う。