人と分かち合わない趣味

趣味は人と分かち合ってなんぼ、というものもあれば、一人だけで楽しむものもある。その対象と扱い方は人によって様々で、僕の場合たいていの趣味は一人だけで楽しむことに費やされる。ときどきは人と分かち合うこともある。人と映画の話をしたりマンガの話をしたり音楽の話をしたり「あれ知ってる、これ知ってる」だけで終わってしまうとすごくつまらないんだけど「どこが良い、ここはどう感じる、この部分をどう思う」といった中身に踏み込んでいけば話はおもしろくなる。趣味がコミュニケーションの媒体として機能する瞬間だ。

分かち合うこと

分かち合うとは、わかり合うことではない。先日自分の親ぐらいの歳の人と、夏目漱石の話をした。その人は「三四郎」「それから」「門」の成長過程を描いた前期三部作が漱石の真骨頂だと言っていた。僕は後期三部作しか読んでいないから「へえ、そうなんですか」と話に踏み込めなかった。僕は「行人」がとても好きでという話をしたが、その人は「行人」に書いてあることはよくわからないけれど、漱石の理の部分を強く描いた作品で、あなたがそれを好きだということはわかる、と言っていた。この会話では噛み合った部分が少なく、お互いわかり合うこともなかった。しかし夏目漱石の小説というテーマを分かち合うことができた。それだけでもかなり珍しい。

たとえ意見が合わなくとも、ケンカなどしてはいけない。意見が合わないことや意見を批判されることで自分自身を否定されたような気になる人がいる。彼らは恐怖におののき、もしくは怒りに震え、分かち合うことそのものを拒むようになる。批判されるぐらいなら、趣味の話なんかしない!と。しかしこれは議論ができない人によくあることで、発言者と意見そのものを同一視してしまっている。意気投合することだけが分かち合うことの醍醐味ではない。同じ話題を共有できることそのものに意味があり、価値がある。身の回りを見渡せば、同じ話題を共有できる人がどれほどいるだろうか。表面ではなく、中身の話をできる人は数少ないだろう。だからたとえ意見が合わなくとも、そういう間柄を大切にした方がいい。それでも意見の交換を避ける人は、意見の水準を高める探究心、向上心よりも、あるがままの状態を大切にしたいという人だろう。そういう人は意見表明することなく、自分の中だけに大切にしまっている。

分かち合わないこと

だからすべての趣味を人と分かち合わなくていい。話ができる人がいなかったり、人と共有することなどどうでもよくただ一人だけで楽しむほうが好きってことは大いにある。趣味はコミュニケーションのためにあるわけではなく、ただそれを楽しむだけで十分だから。僕はお酒を飲むのが好きな方だけど、酔うために飲むから一人で飲むのが好きだ。よく「お酒を飲む場が好き」と言う人がいるが、あれとは違う。お酒の場よりも、お酒そのものを好む。僕が今まで見聞きしてきた印象では、お酒そのものよりも「酒の場」が好きでお酒好きを名乗っている人が多い。お酒を飲んで楽しくなるために飲む、とか。僕はそうじゃなくて、味わうためや酔うために飲む。お酒が趣味だとしたら、僕の場合完全に人と分かち合わない趣味になる。

旅行の話なんかをしだすと、ほとんどはどちらか一方が話し続けて終わる。噛み合うことがなかったり、意見を交わすようなこともない。昔は趣味でバックパッカーをしていた人も「旅行は一人で楽しむものだから、旅行の話は分かち合うものじゃない」と言っていた。その気持もわかる。

祭が全てではない

趣味の話が高じやがて祭に発展する高揚感は捨てがたいものがあるけれど、外へ発信する趣味、内々で楽しむ趣味、自分だけで耽る趣味、それぞれ自分の中で分かれているものだ。何でもかんでも分かち合えば楽しいかというと、そうとは限らない。分かち合う機会すら乏しいことも多く、発信がためらわれるものもある。だから、自分の趣味の話を誰かと分かち合いたいと思って相手を探していたとしても、相手が同じ気持ちかどうかはわからない。相手の思いを確かめて、尊重した方がいい。相手はもしかすると、話し相手なんか求めていないかもしれない。分かち合いたいなんて思っていないかもしれない。