「ヒドゥン・オーサーズ」感想・書評

それでは数が多いので全部紹介できないが、一部引用したりしながら紹介してみる。

「ごめんね、 校舎」 大前粟生

小説?散文?校舎に包帯をぐるぐると巻いていく話。パラパラマンガ見てるみたいだった。

包帯に摑まったその子が、顔をこっちに突き出す。修復途中の窓ガラスにあたってしまう。私たちは慌てて窓を開ける。その子がもう一度顔を突き出す。非常ベルで光った赤い顔がはっきり見える。苦笑いしてる。

「どうぶつにかがみをみせてわらう」 みみやさきちがこ

なんか頭のなかで浮かんだ言葉を片っ端から書き並べたような文章。

けど、 ドンキに行ったこと二回くらいしかない、のに、これ歌えるのってすごくない、この歌のひろまりぐあいすごくない、この歌、作詞作曲したひとすごくないですか、

「二十一世紀の作者不明」 大滝瓶太

短編小説。クローン人間の一生みたいな話。寝ている間に夢を見て、夢であることを自覚できることもあるんだったら、意識的に夢を見ることができる人がいてもおかしくない。20歳のときにできた子供と50歳のときにできた子供へ遺伝する情報に30年間分の差があるとしたら、記憶の遺伝があってもおかしくないよなーと思った。

実体を持たない集団が語る声を、実体を持つ個はその耳でもって聞くことができるのか。

実と虚のふたつの空間を隔てるものがボリスの認識にはなかったといえる。

「マジのきらめき」 斎藤見咲子

歌集。ヒドゥン・オーサーズ作品群の中で一番好きかもしれない。それは多分僕が若々しいものと都市の雰囲気を好む傾向があるからだろう。状況描写と心象の組み合わせが好きです。

明らかに異様な音を立てていた間違ったとこ開けようとして

「お昼時、 睡眠薬」 ノリ・ケンゾウ

統合失調症の人の頭の中を文章でつづったらこんな感じになるんじゃないか。いろんな意識が溶け合って混ざりだしてはっきりしない。

ねえ、私はスーパーのこと、これからマーケットと言うようにしたいんだけど。と 試しに今の夫に相談してみると、スキニシタラ、と言われた。

「聖戦譜」 伴名練

高校の文芸部の部誌『北陵』第100号発刊記念の冒頭挨拶文が延々と続く。最初はすごく笑っていたけれど話がどんどん未知なる方向へ展開していってわけわからなくなったと思ったらまとまってくる。

つまりは鳴海高校文芸部の初代部長はそもそも人類と出自を異にしているのではないか、という議論が持ち上がったのも無理からぬことです。

「つむじ圧」 杉山モナミ

歌集。とにかく女の人っぽい。持ってくる題材や目線、見る対象。

あのひとは光に乗ってしまうのではないかというほど咳していました

「引力」 相川英輔

ヒドゥン・オーサーズの中で一二を争うほど一般人が読める文体で書かれている短編小説。近所で餌をやっていた猫が死んで埋めに行く話。

少なくともここであれば穏やかに眠ってもらえそうだ。自分が死んだときもここに埋めてほしいとさえ感じた。

本当は全部読んだし好きな部分や感想もいっぱいあるんだけど長くなるしめんどくさいんでやめます。ぜんぜん違うぞって苦情は甘んじていただきます。

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自分が今まで見てきたものはいったいなんだったのだろう。『ヒドゥン・オーサーズ』にある『二十一世紀の作者不明』を書いた大滝瓶太を名乗るワカメ酒マチャ彦氏が参加しているということで、Amazonに金を払いデータを購入した。700円だったかな、こうやってお金を介し現実世界とつながっていることが不自然に思えるこの『ヒドゥン・オーサーズ』というタイトルは英語をカタカナにしたもので表紙には英文字のままHidden Arthursと記されている。Hiddenは隠すという意味のHideの過去分詞形、この形態をとることで受け身になり「隠された」と訳される。Arthursは作者たち。日本語ではアーサーという表記が一般的だが、書き手を表すライター(Writer)とオーサー(Arthur)を区別にするにあたり、オーサーはどちらかと言えば創作者、何もないところから一から創り上げた人たちを表すことが多い。それが複数にわたりArthurs、創り手の数は20名。おさめられた創作物たちは詩、短歌、俳句、短編小説と多岐にわたる。隠された創作者たちの隠された創作物が、電子媒体を通じてオープンになった。まずいよこれ、クローズしないと。ヒドゥンとは「まだ日の目を見ない人たち」なのかもしれない。どこぞで賞を取ったりされているのかもしれないが、まだ現時点では隠されている金の卵。新興市場でバルクを買い漁る投資家のようなニワトリが温め、いったい何が産まれるやら。一部は無事鶏肉としてスーパーで売られる日を待ちわびているのかもしれない。一部は羽を生やして羽ばたくかもしれない。そして一部は巣ごと地面ごと辺り一帯を溶かす液体として溢れ出すかもしれない。

さて、気を取り直して。ここにおさめられている作品群を見るにあたり、大きな障壁があった。それはすなわち、素養と呼べばいいか、下地である。文化的下地。僕にはそういったものがない。だから特に、俳句、詩に関しては月並みな言い方をすると「良さがわからない」。もっと平たく言えば、大衆にはなかなか理解できないものとなっている。理解?理解しようなどという姿勢は大切なのだろうか、果たして。

理解が必要なのは、それを自分以外の誰かに向けて言葉で解説する際に本当に必要となってくる。評論、などがそれにあたる。だからこの記事のタイトルに「書評」とつけているがこれは書評ではない。ただそれっぽく付けてみただけだ。感想、でもない。強いて言えば紹介文。物語や歌、句をどうしても頭で解釈してしまおうとする姿勢は国語教育の弊害のようにも思える。作者の意図、とか、出題者の意図、とか、物語でよく言われがちのあれ。背景を読み取ろうとする。そういう読み方は果たして正しいだろうか?ビジネス書や論文、エッセイならそれで正しく内容を把握することが必要かもしれない。物語や歌、句、もしくは絵画や映画、写真においてもその読み方が楽しければやればいい。そうしたときこの『ヒドゥン・オーサーズ』は難敵である。エンタテインメントとして消費しようと思えばマッチングが必須になる。だって何言ってんのか全然わかんないんだもん。読解という意味でのわかりやすさはゼロに等しい。わかろうと思うと素養がいる。なければまず読み込まなければいけない。例えばこのヒドゥン・オーサーズ作品群を英訳して英語圏の人に読ませるとどれだけの人が理解可能だろうか。ツイッターでも何度もツイートしてましたが、ぶっ飛んでいるんですよ。内容が。また月並みな言い方をさせてもられば、前衛芸術を見ているときの気分になります。現代アート美術館に行ってへんてこな物体を眺めたときの「なんじゃこりゃ」。しかし同時に湧き起こる、こぽこぽとした蒸気。気体名は?化学式は?特性は?説明してと言われても解明できない何か。

この人たちからは一体世界がどのように見えているのだろう。頭の中はどうなっているのだろう。垣間見てみよう。