人をバカにするのは差別行為

バカにされて怒る人のことがずっと理解できなかった。なんで

「バカにするなっ!」

というふうに怒るのだろうか。僕自身、誰かに対して

「バカにしないでください!」

というような怒り方はあまりしなかったような気がする。「バカにするな」とはあまり言わないか。同じような意味で

「そんな言い方ないでしょ?」

っていう返しがある。これもあまり使った覚えがない。

言い返せばいい

覚えていないだけかもしれないが、バカにされて怒ることがなかったため、バカにされて怒る人の心理が理解できなかった。だって、

反論すればいいじゃん。

ずっとそう思っていた。「バカにするなっ!」って怒るのではなく、

「その主張については、まず第一にこの部分にこういう矛盾があるため通りません。第二に、」

といった具合に反論すればいい。自分はそうしてきたつもりだったから、なぜ反論しないで「バカにするなっ!」とか「そんな言い方ないでしょ?」と怒るのか理解できなかった。

そもそもバカにしているつもりは毛頭なかった。ただ自分の感想を言うだけで、「バカにしている」と思われることが多かった。同様に僕自身が「バカにされている」と感じることもあまりなかった。だから「バカにするな」とか「そんな言い方ひどい」とは言わなかったのかもしれない。

ときどきは完全にバカにしていることもあるし、バカにされることもある。バカにされたときはどうしていただろう。やっぱり質問とか反論していたかなあ。「それってどういう意味なんですか?」とか。思いっきりバカなふりをして誤魔化したり流すこともよくあった。

バカにするということ

それでは、バカにするとはどういう行為なのか。頭が悪いことを見下しけなす行為である。

「こんなこともわからないなんて、バカだな」

「バカだからわかんないんだ、バカだから」

と言うのがバカにする行為であっているだろう。自分も人に対してそんなこと言ってるのだろうか。あまり言ってない気がするんだけど、そうとらえられることが多い。

「あーごめん、君にはわかんないか」

「君に頼んだ俺がバカだったんだ。俺の責任だ」

とか、僕は言わないけれどこれもバカにしていると思われる。

それに対して、言われた側はなぜ質問したり反論しないのかというと、知識や能力が無いからだ。何をどう質問していいのかわからない、気づかない、反論しようにもできない。言い返さないのではなく、言い返せない。しかしバカにされていることだけはわかる。そうなると言い返す言葉が「バカにするなっ!」とか「そんな言い方ないでしょ?」しかない。「そうじゃなくて、こっちが正しいんじゃないですか?」と言えるような同じ議論のテーブルに立てない。

バカにするのは差別行為

知識は蓄えることができ、知能は鍛えることができる。その差を「努力不足」と言ってしまうのは簡単だが、遺伝であったり努力では補えない部分も大きい。そのような差をあげつらい、見下しけなす行為とはいわゆる差別行為である。

中国人だからという理由で笑うのが差別であるように、頭が悪いからという理由で笑うのも差別にあたる。その人の知能は、運動能力などと同様に生まれつきの個性である。人種や民族、性別、国籍、容貌や身体的特徴と同じだ。本人次第では変わらない領域、生まれ持った特性である。それを取り上げて蔑む行為は差別行為にほかならない。

「バカにするな!」言った人の内にあった感情は、被差別意識だったのだ。彼らが「バカにされている」と感じるときに心の中にあるのは、差別されているときに感じるものだ。

頭の良し悪し

頭の良し悪しは、優劣というよりも違いでしかない。それも一つの基準で一概に判断できるものでもない。分野であったり素養で変わってくる。野球の才能のようなものだ。「野球がうまい」と一言で言っても、その中身はピッチング、バッティング、守備、走塁など多岐にわたる。だから頭がいいと思っていた人も、別の側面から見たときバカに見えることがある。同じ「頭がいい」という言葉の内で判断基準が移動している。

何かを伝えたければ、相手にわかるように伝えなければならない。それには技術が必要であり、また一定の段階を越えると技術があっても不可能だ。「難しいことをわかりやすく説明できる人が頭がいい」という意見もあるが、それは理解できる一定の範囲までの話で、本当に難しいことは難しくしか伝えられない。「サルでもわかる〜本」とかはサルでもわかる範囲のことしか書かれていない。池上彰の説明は重要な部分が抜けていることが多い。その部分は複雑で、説明したところで理解されないから省かれている。わからない人にとってわからない部分は、永遠にわからないままである。

例えば僕は数学とか物理が苦手で、ノーベル物理学賞を取った研究のことをいくらわかりやすく説明されても、その前提の素養が無いから理解できない。そしてその前提の素養に関しては高校数学、物理の段階でギブアップしている。つまり中学レベル以上のことは永遠にわからないんだ。そのことをバカにされたって、はあ確かにそうですね、バカですみませんとしか言いようがない。多少素養がなくたって、飲み込みがよく即座にそのレベルを理解するまで達する人もいる。彼に比べれば僕は到底バカだし、バカだと思われてもしょうがないと思う。無能感しかない。

「そんなことも理解できないの?」

と言われたら「難しくて理解できないっすよー」と言ってしまうだろう。だって自分の知能が及ぶ範囲外のことだから。そして相手からは、呆れられ、話のできない人間という判断をされる。そこで自分が被差別意識を持つかというと、どうだろう。場違いだなとは思う。

いずれにせよ自分の持ちえる水準は自分と同じ範囲にいる人だけに通じる。知っていて当然のこと、わかって当然のこと、ちょっと頭を働かせば即座に理解できること、それらは一歩範囲の外に出ると通じない。その範囲とはもしかすると、自分の中だけかもしれない。人がどの範囲にいるのかは、相手について詳しく知らないと判明しない。

異なる段階の共存

やっかいなのは、人はみな同じ世界で暮らしているということだ。ある方面について1しか理解できない人、3理解できる人、4理解できる人、5理解できる人、100理解している人、1兆の理解がある人、みな同じ世界で生きている。ここで全員に通じるのは1だけである。3までだったら5人、100になると2人にしか通じない。100を越えるともはや1人だけしか理解できない。

人は皆異なる。そういう僕らがみんな共存していかなくてはいけない。そこには自然と理解の違いが存在し、3の人が1の人を差別したりする構造も生まれるのかもしれない。しかし同時に別の分野においては3の人が1かもしれないし、1の人は3かもしれない。100の人も80かもしれない。1兆の人は相変わらず1兆かもしれない。誰かを排除するという考えは、別の分野において自らを排除する考えにつながる。

だからバカにするのはやめたほうがいい。本当に伝えたければ、相手のわかる範囲を把握し、その範囲内でわかりやすく伝えるしかない。それ以上のことは段階に応じて棲み分けるしかない。啓蒙活動は結構だが、理解されないからといって蔑んでも良い結果には行き着かない。

それが例え全体を良くするための活動であっても、100の内容であれば1から99の人にはどう頑張っても伝わらない。1の人には1の人にわかる1/100の部分だけをわかりやすく伝えるか、もしくは好意的に見えるよう偽ったり隠したりする必要がある。100の議論は100同士でしかできないが、ときには周りにいる1から99の人を味方につけないといけない。

どの段階にいる人に、どの範囲の話を伝えるのか、よく見極めないといけない。1の人に100の話をすれば、それだけで「バカにしている」と勘違いされることもある。