みんなどうでもいいことを大切にしている

他人のことなんて気にしなくていい、とは言うものの、他人と関わっていれば観点や常識の差異に戸惑う。それぞれ当たり前と思うものが違い、大事なものが違う。問題なのは違うことではなく、違うということが認識できていないこと。聞かされないとわからないのに、わからないことをさも当たり前に大切かのように人は言う。だって本人にとっては当たり前で大切だから、言うまでもないと思っている。そして、人の当たり前や大事なものを目のあたりにするたび面食らう。「そんなどうでもいいことが大事だったの?知らなかった」って。でもやっぱり僕にとってはどうでもいいし、めんどくさいから理由までは聞かない。理解しようとは思わない。

それはやはり自分にも当てはまる。自分にとって当たり前だと思っていることや、重要だと考えることは人には通じない。原理や理屈を説明したって同じことで、返って嫌悪感を持たれることのほうが多い。優先順位は感情に根ざしている。理屈の前に感情がある。興奮や安心感、不快、おびやかされるものといった感情の元になる脳内分泌物。さらにその前には感情を呼び起こす因子がある。これらの流れをを 因子⇒感情⇒理屈⇒行動⇒結果 と図解したところで同じことで、それらは個人の行動原理でしかない。人が変わればパターンは変わる。ある程度似通うことがあったとしても、解析してグラフに表せば決して重なることはないだろう。

だから結局、大切なこととは、自分にとって大切なことであり、当たり前のことも自分にとって当たり前のことにすぎない。自分にとってはどうでもいいことが、他人にとってすごく重要であることは、あり得るどころかほぼ全てがそうであると言っていい。では、傾向についてはどう説明するのか。「みんなそれぞれ違う」と言ったって、多くの人が重要視することと、一部の人が大切にすること、自分だけが固く守り続けていることなど大きく分かれる。話題性とか、社会性とか、多くの人が関心をもつことともたないことの差はどこにあるのだろう。

一つは所属。自分がどこに所属しているのか。グループ内には掟があったり、共有知が存在する。所属によって当たり前とされることに偏りが生じ、グループを離れれば大きく行き違う。グループを出たことがなければ、それが世界の真実だと疑うこともない。地球を遠く離れたら、別の物理法則が成り立っているかもしれない。

もう一つは経験。人間は経験に大きく縛られている。「経験に学ぶ」ということ。それは繁栄のみを目的とする生物が、生存確率を上げるために生み出した進化のプログラムなんだろう。「賢者は歴史に学ぶ、愚者は経験に学ぶ」と言うように、経験は実はあまりあてにならないが、本能は自身の経験則を重視してしまいがちだ。経験とは極めて個人的な前例であり、汎用性は低い。別の経験を経た人間には全く当てはまらないことが多い。

最後に構造。知能や運動能力といった、持って生まれたもの。遺伝的な違い。同じ経験を経て同じ結果が出るかどうかはこの構造で決まる。

例えば安倍首相や蓮舫議員について、至上の命題かのように大騒ぎしている人をたくさん見かけるが、本当にどうでもいいと思う。一般教養の範囲で把握はしているつもりだが、基本的には全く興味ない。話題にすら挙げようと思えない。小池知事も同じで、彼女に関しては自分が東京に住んでいないからというのもあるが、安倍首相や蓮舫議員の話題はゴシップ以外の何物でもないだろう。必要だったら然るべき処置が行われるだろうし、それは世論でどうこう左右すべきものじゃない。これらの要素は僕にとって所属や経験、構造上どうでもいい。大切な人にとっては所属や経験、構造上関心が高い。

人と人が関わるということは、行動原理のどこかのフェーズで結びつきが生じる。因子、感情、理屈、行動、結果、いずれかの過程において人と人の利害が一致し、関わりが生じることになる。ただ同じ結果を望んでいたとしても、行動様式が違ったりその背景にある理論、そして動機となる感情、感情を引き起こした原因はそれぞれ異なる。行動だけを見て「やっていることが違う」と判断しても、同じ結果に結びつくかもしれない。また、同じ理屈の元に動いていても、別の行動をとって違う結果を招くことは多々ある。同じ行動を取っていても、背景の感情やその先に望むものが全然違うことなんて日常的にあるだろう。完全に一致することはまず無いと考えていい。

そういった前提を認識していると、互いの食い違いの修正もしやすい。お互いがお互いの違いを認識していなければ全く噛み合わず、一方だけが相手を把握していれば容易に操ることができる。双方が違うという前提に立ち、認識のすり合わせをすることで初めて対等な共同作業を行うことができる。それをやらず無条件に相手の理解を求めるのは赤子のやることで、理解している相手からは大いに騙されやすい。