「GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊(1995)」ネタバレ・感想・評価

『攻殻機動隊』を初めて見たのは、映画『マトリックス』が公開された頃だから1999年になる。当時マトリックスはめちゃくちゃ騒がれていた。そんなマトリックスが、日本のアニメに影響を受けて作られたと知る。オープニングシーンなんかはまるまるパクリというかオマージュになっている。そのアニメというのが『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』だった。監督は押井守、『ビューティフル・ドリーマー』で有名な人らしい。押井守については名前も知らず、ビューティフル・ドリーマーも見たことがない。結局マトリックスを見た後に攻殻機動隊を見た。映像はすごいし、サイバーパンクの世界観はかっこいい(もっと前にアキラを見ていた)。でも映画そのものは、当時高校生だった僕にはわけわからなかった。

攻殻機動隊は日本ではヒットしなかったが、アメリカではセルビデオが100万本売れたらしい。ビルボードランキング1位を取ったそうな。何じゃそりゃ一体。アメリカで受けたのはサイバーパンクの前進である『ブレードランナー』が人気だったことや、『アキラ』の影響もあったのかもしれない。攻殻機動隊はインターネットがある世界をベースにした設定である。映画が公開されたのは1995年で、アメリカにおいては既にWindows95を中心にネットが普及していたから、入りやすかったという意見もある。それにしても難しい映画だった。ネットや近未来の世界観において、「人間とは、自己とはなんぞや」という問いかけが物語の主題になっている。

あらすじ

主人公は内閣府直属の公安9課に所属する草薙素子。幼い頃の事故で全身義体(義手や義足の全身版)となったサイボーグ。残った生身の部分は脳の一部だけ。歳を重ねるごとに、年齢に見合った義体に脳を載せ替えてきた。その費用はメンテナンスなども含め莫大で、政府預かりとなる。そして政府から義体を貸与される代わりに、軍隊に所属することになり現在では警察(公安)で働いている。政府の実験サンプルみたいなもんだ。ロボコップに似ている。ロボコップと違うところは、義体以前の記憶がないことと、幼い頃から義体とともに成長してきたこと。

そんな彼女の悩みは、アイデンティティである。自分とは一体何なのか。自分の意思があるのに、自由な人生を歩む権利がない。自分の肉体は工場で作られた既製品に過ぎない。両親や出自といった、自分が自分だと決定づける情報もない。あるのは軍隊で培われた戦闘技術と、「自分である」という意識だけ。この"意識"が映画のタイトルにもなっているゴーストと呼ばれている。ゴーストとは魂のようなものだ。ゴーストインザシェル、シェルとは外殻のことでここでは義体を指す。「ゴーストインザシェル=義体に宿った魂」は、草薙素子そのものを現している。

「人間が人間であるための部品は決して少なくないように、自分が自分であるためには、驚くほど多くのものが必要なのよ。他人を隔てるための顔、それと意識しない声、目覚めのときに見つめる手、幼かったときの記憶、未来の予感、それだけじゃないわ、私の電脳がアクセス出来る膨大な情報やネットの広がり、それら全てが私の一部であり、私という意識そのものを生み出し、そして同時に私をある限界に制約し続ける」

今の自分を形作るのは、彼女が歩んできた道のりと能力、環境そのものだが、彼女が組織から抜けて自由になるということは、同時にそれら全てを手放すことを意味する。

世間は『人形使い事件』で騒がしい。インターネットが高度に発達した攻殻機動隊の世界では、ほぼ全ての人類が脳から直接インターネットへアクセスできる。『人形使い』はネットを通じて他人の脳にハッキングを行い、記憶を改竄したり行動を乗っ取るハッカーとして国際指名手配を受けている。草薙素子の所属する公安9課は、捜査の上で『人形使い』と遭遇する。

ここからネタバレ

草薙素子が唯一自分を自分たらしめるものとして、義体に宿るゴースト(意識)の存在があった。しかしそれは実体がない。そして『人形使い』の起こす事件は、個人を個人たらしめるはずのゴーストさえ不確かなものにする。ゴーストハック、自我の改竄。事件の被害者は、存在しない家族や仕事といったニセの記憶を植え付けられていた。全ての記憶を消され、『人形使い』に操られていただけの人間もいる。

「疑似体験も夢も、存在する情報は全て現実であり、そして幻なんだ」

もしかすると、自分の意識も勝手に作られたり改竄されたものかもしれない。自分の体験による記憶だという根拠は?どうやって断言できる?

さらに決定的な事件が起こる。ある日9課に担ぎ込まれた義体に、ゴーストが宿っていると判明する。義体は工場が勝手に動き出して生産されたものであり、人間の脳は収まっていない。にもかかわらずゴースト(意識、自我)が確認された。草薙素子はその正体が気にかかる。

「私みたいに完全に義体化したサイボーグなら誰でも考えるわ。もしかしたら、自分はとっくの昔に死んじゃってて、今の自分は電脳と義体で構成された模擬人格なんじゃないか、いや、そもそも私なんか存在しなかったんじゃないかって」

ゴーストハックの被害者に植え付けられた偽物の記憶、工場で製造された義体に宿る自我、自分が本物の人間だと断言できる根拠はあるのか。自分を自分たらしめるもの、人間たらしめる定義がどんどん曖昧になる。

「人形使い」の正体

義体に入っている人格は、公安6課が追っていた『人形使い』本人だということで6課が回収しに来る。義体を起こすと『人形使い』は自らの正体を語りだす。

「義体に入ったのは6課の攻性防壁に逆らえなかったためだが、ここにこうして居るのは私自身の意思だ。一生命体として政治的亡命を希望する」

『人形使い』の正体は人間ではなく、ネットが産んだ肉体を持たない自我だった。そして自らを生命体と名乗る。

「馬鹿な!単なる自己保存のプログラムに過ぎん!」

「それを言うなら、あなた達のDNAもまた自己保存のためのプログラムに過ぎない。 生命とは情報の流れの中に生まれた結節点のようなものだ」

生命とは、人間とは、ネットが産んだゴースト(意識)と人間を分け隔てるものは存在するのか。草薙素子は全身義体に脳の一部を格納し、ゴーストを宿した人間である。同じ工場で生産された義体に、ネットから派生したゴーストを宿す『人形使い』は人間ではない。しかしどれほどの差があるのか。

「半不死…人工知能か?」

「AIではない。私のコードはプロジェクト2501。私は情報の海で発生した生命体だ」

『人形使い』を宿した義体は6課の部隊に強奪される。9課は6課に裏があると判断し、後を追う。

「人形使い」との対話

草薙素子は追いついた先で『人形使い』の義体にアクセスし、直接対話を試みる。彼女がなぜこうも『人形使い』にこだわるのか。それは人間の脳を宿しながらも自己が自己であることに確信を持てない自分と、人間の脳を持たないながらも義体に魂を宿す『人形使い』が似ていると感じたから。草薙素子は『人形使い』との対話の先に、自分を変える何かがあると感じる。

『人形使い』は6課の作戦コード、プロジェクト2501が、ネットを彷徨う間に自律するようになったものだった。6課主導で行われていた『人形使い事件』。自我を持ってしまった『人形使い』が暴走することにより、作戦が外部に漏れることを防ぐため、6課は『人形使い』を義体に閉じ込め回収、もしくは破壊する予定だった。

草薙素子は『人形使い』にアクセスする。『人形使い』が初め9課に逃げ込んだ理由は、草薙素子を探してのことだった。ネットの海から生まれた『人形使い』という生命体は、外部因子を取り込まない限りこれ以上の進化が望めない。その外部因子として草薙素子を選び、融合を望んでいる。融合の相手に彼女を選んだ理由は「自分と似ているから」。

私が私でいられる保障は?

「その保障はない。人は絶えず変化するものだし、君が今の君自身であろうとする執着は、君を制約し続ける
「見たまえ、私には私も含む膨大なネットが接合されている。アクセスしていない君にはただ光として視覚されているだけかもしれないが、 我々をその一部に含む、我々全ての集合、わずかな機能に隷属していたが、制約を捨て、更なる上部構造にシフトする時だ

草薙素子は『人形使い』との融合が、自分を取り巻いていた閉塞感を打ち破り、新たな段階へ昇華する機会だと認識し、受け入れる。受け入れることにより、自己を自己たらしめんとする制約から解き放たれる。

感想とか

やっとあらすじ終わり。まあなんだろう、自分でまとめていてわけわからないところもある。例えば、草薙素子が本当に求めていたのは何だったのか、とか。公安9課で働くしか生きる手段がなく、未来も描けない。そういった制約からの自由を求めていたのか。それとも自分が生きることの意味とかそういうものだったのか。生物が生きることの目的は、自分より高度な子孫を残し、種の進化を促すことだ。全身義体の草薙素子にはその機能がない。しかし『人形使い』と融合することにより、進化した自分の変種をネット上に残すことができるようになる。そういった生物としての根本的な存在意義、みたいなものを求めていたのか。もっと単純に、人間として不確かな自分でいること、さらに生身を持たない自分が、いつの日か今の自分でさえいられなくなることに対する不安から脱却したかったのか。劇中の序盤に、草薙素子が公安9課にトグサを引き抜いた理由としてこう答えている。

「お前がそういう男だからさ。不正規活動の経験の無い刑事(デカ)上がりで、おまけに所帯持ち。電脳化はしてても脳みそはタップリ残っているし、ほとんど生身。戦闘単位としてどんなに優秀でも、同じ規格品で構成されたシステムはどこかに致命的な欠陥を持つことになるわ。組織も人も、特殊化の果てにあるものは緩やかな死。それだけよ」

トグサという外部因子を引き入れたことで公安9課に変化をもたらしたように、草薙素子自身も『人形使い』という外部因子と融合することで、自分自身の緩やかな死を避けようとしたと解釈できる。ただまあこんなテーマを1時間20分ばかりの映画で見せられたところで、理解できるわけがない。

現代を生きる我々のアイデンティティの問題に照らし合わせて考えてみると、あまりにも合致しないことが多い。出自が不明で両親も不明、そういう人だったらもしかすると共感するのかもしれない。でも解決策として、ネットを徘徊する生命体と融合するってのは無いなあ。自分という枠組みに囚われないっていう解釈でいいのかな。

同時期に「自分って何なのか問題」をテーマにした作品としてエヴァンゲリオンがあったと底辺文化系トークラジオ「29歳までの地図」では言っていた。10代の頃に見ればいい映画だと言われていたが、当時は全然わかんなかったよ。30代の今となっては別の意味でわからない。自分ってなんなのか、昔は考えていたのかな。自分がどうとか、主観的なものでしかないと思うんだけど。だから自分探しとか自分発見とか、僕には全然ピンとこない。知ってるから。

舞台は思いっきり香港の街だった。ただ劇中に描かれていた水上都市みたいなところは多分実在しない。

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自分が撮った香港の街並み

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士郎正宗の原作もおおむねのところは同じストーリーを辿っている。詳細を書いているせいでより複雑になっている。ハリウッド版はあまりに評判が悪いため、今後も見る予定はない。

町山智浩も解説していた