魂のこもった作品、削った命に心を打たれる

日本語には真剣という言葉がある。本気とか真面目という意味だが、もう一つ「斬れる刀」という意味もある。真剣勝負とは、斬れる刀で行う勝負のことを言い、勝てば生き残るが、負ければ死ぬことを意味する。つまり真剣という言葉は元々から生き死にを意味する言葉だった。

現代社会を生きる上で、生き死にがかかった現場、すなわち真剣勝負を挑む機会はどれほどあるだろうか。戦争に出向く兵士はそうだろうし、戦場のジャーナリストもそうと言える。プーチン政権を批判して暗殺されたジャーナリストなんかもまさに、真剣勝負を挑んでいた。

局地探検家もそうかもしれない。暗殺されたキング牧師やガンジーといった運動家、ホーチミンやチェ・ゲバラのような革命家もそうだろう。死ぬか生きるか、やり遂げるかもしくは殺されるか。そういう死線をかいくぐることでしか、人間は成長できなかったり、偉業を成し遂げられなかったり、人の心を動かせなかったりするんじゃないだろうか。

真剣、とまではいかなくとも、それに追随する行為がある。それは命を削る行為だ。真剣勝負が生きるか死ぬか1:1の割合だとしたら、命を削る行為は3:1ぐらいかもしれない。現場や習熟度によっても変わる。真剣と比べ、命を削る行為は第一線で活躍するほとんどの人が取り組んでいる。プロスポーツ選手もそうだし、救助活動を行う人、サラリーマンから芸術家まで、ありとあらゆる分野の職業人が、自らの行為に削った命を吹き込んでいる。

彼らは命をかけているだろうけど、実際の死亡率から言うとさすがに1:1ではないから、真剣ではなく命を削っていると言っていい。代償として多くの時間や人間関係、四肢を失ったり精神が崩壊することもある。ただそれを乗り越えた先に偉業があり、我々は良くも悪くも心を打たれる。

命を削るひとたち

NHKの「昭和の選択」という番組を見ていた。そこでは書家の井上有一という人が書いた「悲劇の傑作」と言われる作品を取り扱っていた。この人は戦時中、教員として学童疎開に付き添っていた。そして東京へ戻ったときに大空襲に遭い、仮死状態にまで陥ったが奇跡的に生還する。しかし、一緒に東京へ戻っていた生徒8人を死なせてしまった。

戦後彼は、教員を続けながら書家として大成するが、「瓦礫」という作品がどうしても書けずに何年も悩む。空襲や失った子どもたち、そこにいた自分の決断に上手く向き合えない。そして教職を引退後、33年越しに再び東京大空襲と向き合う。筆を振るうとき、彼の意識はまさに空襲の現場、死地に戻った。

ピカソの「ゲルニカ」に匹敵すると評される書がある。書家・井上有一の「噫横川国民学校」。当時、国民学校の教師だった井上は、昭和20年3月の米軍による東京大空襲で教え子を亡くした。なぜ罪のない子どもたちは死ななければならなかったのか?井上は戦後、空襲の惨状の記憶を胸に秘めながら生き、そして33年後、悲劇の傑作を完成させる。

NHKドキュメンタリー - 昭和の選択「東京大空襲が生んだ悲劇の傑作“噫横川国民学校”」

『噫横川国民学校』 / 井上有一 YU-ICHI

チェコの作家フランツ・カフカは、昼間保険局員として働き、夜の時間を執筆に当てていた。朝まで執筆を続けることも多く、病弱でありながら無理な生活を続け、晩年は結核で亡くなっている。カフカが世界的に評価されるようになったのは、死後数年経ってからだった。命を削ってまで彼を執筆に駆り立てたのは、名声でも金銭でも、読者からの評価でさえなかった。

ぼくが頭の中にもっている恐るべき世界。だが引き裂くことなく、どのように自分を開放し、それを開放したものか。むろんそれをぼくのなかに留めておくとか埋めておくとかするくらいなら、引き裂いた方が千倍もましだ。

庵野秀明監督は『エヴァQ』を撮り終えた後に何もできなくなり、自殺することばかり考えていたそうだ。そのリハビリで作ったのがシン・ゴジラだと言われている。

エヴァンゲリオン 公式サイト│最新ニュース

庵野監督の自殺未遂は彼の周りで「死ぬ死ぬ詐欺」みたいに言われているが、それだけの負担を抱え、命を削って創作に取り組んでいることは事実だろう。庵野監督はインタビューなどでよく「自分は天才じゃないから、納得いく作品を作ろうと思うとそれだけ大きな負担がかかる」みたいなことを言っている。

今ここに挙げた人たちはそれぞれ目的や対象は異なるが、彼らの作品に削られた命が宿っているように思えてならない。僕はそういう物を求めるし、ときには消費するだけでなく、何かを頂いている気になる。

命を削るということ

第一線で活躍する人だけでなく、我々一般人においても、多少の命を削って何かに取り組んだことは少なからずあるだろう。彼らと僕らの違いは命(体力)の総量であったり、対象へ取り組む姿勢だったりする。続けられることが才能、なんてよく言うが、大幅に命を削ってまで対象に向き合う彼らの姿勢は、僕にはちょっと理解できない。つらすぎる。

僕自身は命を削ってできあがった成果物を消費しながら、その命を削る姿勢に憧れる反面、どうしても息苦しく感じてしまう。結果的に心身に異常をきたしても、本人が前向きに取り組めているならいいと思うが、そうなれない物事に対して命を削ろうなどとはとても思えない。内側から湧き起こってくるものがないのであれば、なるべく楽をしたいと考えてしまう。

命を削る代償として、自身の生活に支障をきすだけでなく、ときには誰かを傷つけたり非人道的であったり、社会悪であったり、行為そのものが命を奪うことだってある。それが多くの人を救うこともあれば、その反面、何かを犠牲にしている。犠牲を伴わずに偉業を成し遂げるのは不可能だと理解しつつも、どこか不健全に感じてしまう。小市民として慎ましく生きるなら、この領域に深入りしようなどと考えない方がいい。器が小さければあっさり取り込まれ、あちら側へ行ってしまう。

逆にカイジで利根川が言っていたように、自分の命は粗末に扱ってこそ、輝く一瞬があるという見方もできる。安定、平和、退屈な人生よりも、生きる実感に餓えているなら、命を捧げてもいいと思える対象を見つけて取り組んでください。その先に待っているのはもしかすると、失うものなど気にならないほどの、至福のひとときかもしれない。