変わった人が好きという話

ごく稀に「どういう人が好きなんですか?」と聞かれることがあって、そのときはいつも「変わってる人」と答える。恋愛うんぬんの話だけでなく、基本的に変わっている人が好きだ。格闘家では朝日昇が好きだったし、ミュージシャンでは向井秀徳が好きだった。二人に共通するのは"奇声"である(「奇声を発する人が好き」というわけではない)。

変わっている人が好きな理由は単純で、驚くから。発見と驚きを求めている。僕にとっての人生の楽しみとは、発見と驚きに限られている。優しさとか癒やしとか幸せとか、トイレの紙ぐらい重要かもしれないが、前向きに求めようとは思わない。だって、そんなものがあっても全然楽しくないし、人生に彩りを添えてはくれない。

たとえば、エンタテインメントに求めるのは常に新しい発見と驚きではないだろうか。本を読むにあたり、そこに知っていることばかり書かれていたらつまらないだろう。映画を見て、それがどこかで見たことある内容だったら別に見なくてもよかったと思ってしまう。そんなものにわざわざ時間を費やしたりするようなことは、僕はあまりない。既に読んだことのある本を再読するのだって、忘れていたことを思い出したり、新たな発見をするために読む。

こういう性質は、飽き性に由来している。

人に対しても同じ。定番とか安定性とか、安心感なんてのは二の次になる。金銭とか評価とか幸福もいらない。役立つこととかクソつまらない。求めるのは常に新しい発見と驚き。だってそれがないとつまんないでしょう。新しい発見と驚きのない人生を過ごすなら、寝ていたほうがマシだ。噛めば噛むほど味が出るスルメという表現もあるが、スルメだってずっと同じ味だと飽きる。いつまでも噛んではいられない。人もわかってしまうとつまらなくなったりする。

さて、何をもって「変」とか「変わっている」とするかだが、基準は言わずもがな自分自身になる。世間ではなく、僕から見て変、僕から見て変わっている人。見たことないような新しい何かに触れると驚き、心躍る。知っていることや聞いたことあるようなことには興味をそそられない。

この傾向は歳を重ねるごとに年々強まっている。ありきたりの考えや発想や嗜好や経験なんて今までさんざん見聞きしてきたから、そういうものからは何の刺激もなく驚きも発見もなくなってきた。あったとしても些細なものだ。見た目から話す言葉から語られる経験から、今まで見聞きしたことないような世界が繰り広げられる方がどう考えたっておもしろい。

ただまあ、人間誰でも何かしら変な部分はあるもんだ。それが何でもかんでもおもしろいというわけではない。見聞きしたことがないことであっても、好き嫌いがある。全く興味ない分野に対してのめり込んでいる人がいたら、興味ないからどうでもいいと思ってしまう。たとえばなんだろう、スポーツとかほとんど興味ないから野球とかサッカーのこと全然知らないし、試合を見たり熱く語られてもそれが新発見、驚きとはならない。聞いたことないようなマイナースポーツであっても同じ。でもボクシングとかなら興味持つ。そこは単純に好き嫌いだ。

典型的な変わってる人憧れであり、同時にエセ変わってる人が超絶苦手だったりします。