「充たされざる者」感想・書評

カズオ・イシグロの「充たされざる者」を読み終えた。やっと読み終えた。1000ページ近くある本で、中盤あたりを読んでいるときは正直なところ苦痛でしょうがなかった。一体何の話をしているのだろう、いつになったら話が進むのだろう、そんな疑問を抱えたまま物語はあちこちへふらふらと漂っていた。先に読んでいた人はこの小説の感想を「悪夢のようだった」と語った。その気持ちはわかる。少なくとも単純な小手先のエンタメではない。その長さも相まって、多くの人が途中で投げだしたことだろう。しかし、中盤を越えたあたりからなんとなく本全体の様相が掴め「そうか、これはカフカの城だ」と思うと妙におもしろく感じてきて途端に読むペースが上がった。最初から中盤までの半分ほどの時間で、中盤から最後までは読み終えることができた。

掴みどころのない物語

この本のつらいところはページ数やふらふらとした物語の進行だけにとどまらず、そもそも何について語られているのか把握できない点にある。理路整然としたわかりやすい説明などは皆無だから、読者はただ描写される情景から物語の全体像を組み立てなければならない。とにかく、この本の主人公はライダーというピアニストだ。とある街の催し、「木曜の夕べ」というリサイタルのようなものに招かれ、スピーチのあとピアノを演奏することになっている。ライダーは世界的に有名なピアニストらしく、街中の人が尊敬し、今回の催しを期待している。ライダーが滞在中のスケジュールはびっしりで、あちこちの予定へ引っ張り回されるらしい。

しかし、まずその具体的なスケジュールが語られることはない。街での取材や訪問の予定などをとりまとめる人が出てくるが、秘書のような役割をすることはなく、ライダーはその場その場で出会う人たちの雑用に駆り立てられる。例えばホテルのポーターからは、旧市街のカフェを訪れるついでに、自分の娘が何に悩んでいるのか聞いてきてほしいと言われる。スケジュールびっしりなのに断れないように頼まれ、仕方なくカフェでそのゾフィーという娘に声をかける。

ここでゾフィーとは初対面なのかと思いきや、急に知り合いだったことになっている。そして息子のボリスを紹介される。息子とも初対面のようなやりとりを行うが、話が進んでいくとどうやらライダーとゾフィーは夫妻のようで?ボリスのはその間の子供のようだ?んん?わけわからん。だとしたらゾフィーの親であるポーターのグスタフがライダーと初対面だったのは明らかに変だし、この街に初めて来た風のライダーの妻と子供がここにいるなんてどう考えてもおかしい。このようにして初っ端からこの「充たされざる者」という話に翻弄されることになる。

その後も待ち受けているのは街で出会うありとあらゆる人たちから頼まれる雑用と、それらに付き合った上での行動が一向に良い兆しを見せず、それどころかことごとく裏目に出て最悪なことが続くライダーの徒労感と、同時に読者にとっては物語が一向に把握できず、前にも進まない徒労感とが重なる。まさにカフカの「城」だ。

後半に差し掛かかり、この話の主題となる「木曜の夕べ」の日付がせまってきたところでようやく一本の筋道が見え始める。焦点の当たる人物はライダーから離れ、指揮者のブロツキーとなる。ミス・コリンズと離婚して長い間飲んだくれていたブロツキーだったが、今回の「木曜の夕べ」をきっかけに指揮者として再起を図る。あらゆる枝葉を絡めながらも物語は「木曜の夕べ」に沿って進行してゆき、ついに当日を迎えることとなる。

他の作品は忘れよう

これまでのカズオ・イシグロ小説が、最初から最後まであらかじめシナリオを完成させていたのとは違い、この小説は書きながら構成を進めていったそうだ。それもかなり強引な形で、実験的に進めていったことが読み取れる。おそらく前後の整合性や辻褄などを一切放棄する形で書き進めていったに違いない。矛盾しようものなら無理矢理過去回想を始めて、忘れていたことにするシーンが何度も登場する。そのように、この小説では全ての段階において後付の設定だけで構成されている。こんな小説の書き方アリか!と思わせられる。

だから当然ながらこの先がどうなるのか予想も何も全くつかない。もうなんか、変な小説なのだ。いやーなんだろう、意味とか教訓とか隠喩とか、それどころか話の筋道さえ気にせず、ゴールのない森の中をただただ進んでいくように読むのがこの小説の正しい読み方だと気づいて、途中からかなり楽になった。この一見苦痛だらけの読書体験が、なかなか珍しく楽しい。カズオ・イシグロの書く宴のあわただしい雰囲気はいつもながら楽しい。その宴である「木曜の夕べ」って結局何なんだ?という想像を膨らませながらなかなか直面できない歯がゆさも楽しかった。

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