自分の絶望の本質は何か

絶望っていう言い方は変かもしれないが、他に言い表しようがないからとりあえずそうしておく。

自分が抱えている絶望の本質的な部分って何なんだろうと思っていた。つらいとか苦しいとか悩んでいるっていうわけではないんだけど、自分がずっと昔から抱えているもの、子供の時から一貫して何も変わっていない、治っていないこと。それは多分、乗れないとか上がらないことだと思う。乗れない。物事に乗り気になれない。やりたいことがないとかモチベーションが上がらないとかやる気がないとか、そういうこと。一時的に解消されることはあっても本当に短くてすぐ冷める。乗れない状態が基本的にはずっと続いている。よく「やりたいことがなければ、やりたくないことを避けて残ったことに手を出せばいい」みたいな言葉がある。でもやりたくないことを削っていけば何も残らなかった。何もしたくない。ずっと、ただ毎日死ぬのを待っている。若いときはもっと波があったから、死について考えるのも積極的だった。でも今となっては死に対してさえもはや消極的で、死にたいとすら思わない。年を取ってあらゆる感覚が鈍くなったのだろう。

今とは違う、若い頃に付随していたのは不安や恐怖心だと思う。社会に対する不安、未来に対する不安、人間に対する恐怖、そういうものが、年をとるとともにだんだんどうでもよくなった。不安という形での動機づけ、もしくはブレーキとしても働かなくなってきた。不安が解消され、前進できるようになったわけではない。ブレーキが壊れ、まっしぐらに死んでしまうわけでもない。同じ場所に立ったままでいる。今までは恐怖心や不安が唯一の行動の元になる感情だった。それが薄らいで身動きとらなくなった。何もしたくない、何もできない、どうでもいい、それはただ単に、怠惰と呼ばれるものだと思っていた。

高校生の頃に僕のことをシゾイドっぽいと言った人がいて、一応全部当てはまる。今再びWikipediaの診断基準を見てみたら、今回のそれっぽいのがあった。

1.家族を含めて、親密な関係をもちたいとは思わない。あるいはそれを楽しく感じない
2.一貫して孤立した行動を好む
3.他人と性体験をもつことに対する興味が、もしあったとしても少ししかない
4.喜びを感じられるような活動が、もしあったとしても、少ししかない
5.第一度親族以外には、親しい友人、信頼できる友人がいない
6.賞賛にも批判に対しても無関心にみえる
7.情緒的な冷たさ、超然とした態度あるいは平板な感情

でもpixivの用語集のほうがおもしろかったのでそっちを貼っておく。

スキゾイドパーソナリティ障害 (きゅうきょくのぼっち)とは【ピクシブ百科事典】

さあ、そんなものが果たして絶望などと呼べるのか。消極的な絶望もあったもんだ。

要するに終身刑のような気分だ。人間いつか死ぬのは誰もが同じ。違うのは塀の中にいるのか外にいるのか。僕の意識は塀の中にいる。本当に終身刑ではないから、この例えが正しいのかどうか不明だが、そういう気分を想像してもらうとわかりやすいかもしれない。死ぬまで塀の中で暮らしている気分。前向きに生きるような希望はなにもなく、やれることは限られている。四方は塀に囲まれている。そのなかで、ただ死ぬの待つだけの空虚な生活。興味も願望も、意識も義務も責任も何もない、感覚さえあるのだろうか。ただいつか、近い将来訪れるその日をじっと待つだけ。

年を取ったことで死に対する恐怖心は薄れたが、死そのものはより身近なものとなった。あーこのまま死ぬんだなーと思う。何事もなく、何事があってもただこのままそのうち死ぬだけなんだなーという意識が、目の前の現実として身近に感じる。すぐそこに迫っているかのように。生活上のことは全てささいなこととして、どうでもよく感じる。何があろうと、どうせ死ぬだけ、何もやりたくない、どうでもいい、そういう気持ちを高めるだけで全部投げ出してしまう。自分みたいな人間がそのうちホームレスになって、冬を越せずに死ぬ、ただそれだけ。

そういう自分の状態を「生きたくも死にたくもない」と表現した人がいた。自分は生きたくないのだろうか。それとも生きる能力がないのだろうか。もしくはどちらも同じだろうか。自問自答をずっと繰り返している。