「誤解」について思ったこと

誤解によるストレスに煩わされるだけの人生だった。言ったことは伝わらないし、正確に認識されない。どっから出てきたのか不明の意見と混ぜ合わせて拡大解釈される。「そうじゃない」と重ねて説明しようとするが、もう相手の頭の中にできあがってしまった新しい物語は独り歩きしている。こうなったらもうお終いだ。何を言っても通じない。耳を貸さない。そうやって誤った解釈は伝搬の過程で幾度もの改変を生じ、オリジナルとは似ても似つかない代物になる。誤解とは、逃れることの不可能な伝言ゲームの醍醐味なのだろう。よく「一次情報に頼れ」と言われるのはこの伝言ゲームを起こさないためだ。

誰しもがそういった誤解にさらされているだろう。「わかった」「理解した」「そうじゃない」、言葉の伝わらなさ、内容の伝わらなさは自分にとってずっと苦悩の種だったように思う。これまで発してきた言葉はすべて誤解を解くためだけの釈明、弁明ようであり、発しなかった言葉は誤解を招く見立てがついていたため口から出なかった言葉だった。

僕自身はなんとか誤解を避けようと、正確に話すことに努めていた。自分の意見や考えから1ミリもずれがないように、誤解の余地を削り取るように言葉を付け加え、長ったらしい計算式とその答えを提示しようと努力していた。しかし、あまり意味はなかった。なぜならその式は読まれなかったから。「その意見については既にここで潰している」は通じなかった。もう相手の頭の中では別の物語が進行中だったから。「絶対こうに違いない!」「そうじゃないって最初に言ってる」「でもそう読み取れる」などと言った不毛な会話を何度繰り返してきただろうか。伝達というのは根本的に機能しないんだなーと思いながらも、いかに正確性を上げるかばかり考えていた。

で、今回読んだ本が「ゲンロン0 観光客の哲学」。この本で書かれている「観光客の哲学ってなんだ?」という主題には今回触れない。この本には「誤配」という言葉が出てきた。郵便物を誤った住所に届けてしまう誤配だ。届けるはずの住所に荷物が届かず、別の住所に届くはずのない荷物が届く。そういう誤配によって、本来起こり得なかったことが起こるとかそういう話。例えばTwitterのように、本来届けるつもりのない相手に偶然読まれることによって、拡散されるはずのなかったメッセージが何万人にも読まれ様々な解釈を生んだりすること。SNSはそういう誤配が起こりやすい装置となっている。

意見、言葉、表現はいかに強烈なメッセージがあろうとも、拡がれば拡がるほどオリジナルの手を離れる。そこには千種万様の視点があり、見方があり、解釈がある。思いもよらない方向からボールを投げつけられたり、感謝されたり同意されたりするかもしれない。しかし、そこから「オリジナルが何を言いたかったか」なんて主張することはもう不可能で、真意を伝えることにこだわり続けるのは無意味だとさえ言える。だったらどうすればいいのか。誤解されることを恐れるのであれば、何も言わないでいるしかない。では、なぜ誤解されることを恐れるのだろう?一つはいわれのない非難を浴びるから。もう一つは、コミュニケーション不全であること、他者への伝達がうまくいかない世界で生きることへの不安が生じるから。

でも誤解というのは必然なんだと思った。僕はずっと正解を求めて生きてきたけれど、誤解もまた正解の一つなのだろう。少なくとも相手にとってはそうだ。ときには被害をまぬがれるためや、関係を維持するため釈明に精を出さないといけないこともある。ただ、もし誤解そのものが正解の一つで、必然であるとしたら。我々の生はこれまでもこれからも、誤解の上で成り立っているんじゃないか。だったら誤解は受け入れてしかるべきなのではないか。誤解を避けようとか、誤解を正そうなんて思わなくてもいいんじゃないか。自分の言葉を誰がどう捉え、どう感じ、どう応えるかなんてコントロールできるわけがない。他人から見える自分は見る人によって違い、ましてや自分が思う自分ではない。はじめから誤解されているんだ。

何も発しない平穏な暮らしだって悪くない。でも多分それは暇でしょうがないだろう。分かり合える者同士、誤解の少ない閉じた空間で過ごすのも快適かもしれない。でもそれだけではやはりどこかで飽きが生じる。誤解こそが一つの正解であることを受け入れ、もっと誤解して誤解されて、手広く言葉を発していったほうが退屈しないですむと思う。どのように評価されようと、それは彼らの評価であって自分の評価ではない。人は互いに誤解し合う生き物で、誤解もそう悪くはない。