考える時間、鴨川でホタルを見た

日記です。

考える時間

Netflixのおすすめを聞くといつも新しい作品を教えてくれる人がいる。その人は膨大な作品を見ており、とても一人の人間が消化できるボリュームではない。「一体いつ見てるんですか?」と何度も聞いた。いつも「風呂の中」と返ってくる。その人は映画や海外ドラマ以外にも本を読んだりスペイン語を習っていたり、ジムに通っていたりお茶やお花も習っている。なんじゃそのパフォーマンス。さらに日々忙しく働いておられる。回転数がとてつもない。

「そんなにいろいろやっていたら、考える時間なくないですか?」

僕はそう訊ねた。僕の場合、見ては考え、読んでは考え、終わっては頭を悩ませ、なかなか次の作品に進めない。だからたくさん見ている人がどうやって消化しているのか気になる。

「考えてますよ」

そりゃそうだ。考えなければそんな次々こなせない。人にも勧められない。感想を言い合ったりできない。僕が一人で頭を悩ませている時間を、この人は数秒で切り抜けているんじゃないか。この決定的な差は、処理能力、スペックの差。同じ時間を生きているようで、時間の過ぎていくスピードが違う。僕なんかはさぞ遅いペースで生きているように見えるだろう。

鴨川でホタルを見た

新幹線で3時間ぶっ通ししゃべり続けたあと、一人になった。夜の駅は暗くしっとりしており、静かだった。そのままバスで帰ろうとバス停へ向かった。バス停には帰宅者の行列ができている。その最後尾に並ぶ気にはなれず、地下鉄の駅を探した。重いリュックを背負い、道を間違えながら夜の地下街を歩き回った。人はまばらで、レストランは閉まり、カフェの中に人はいたが、皆黙々と手元の画面を見たり、本に目を落としていた。

地下鉄の改札を通り、ホームに降りた。バスほど並んでいなかったが、帰宅途中の人と外国人の観光客が入り混じっていた。電車の席は空いており、リュックを足元に置いて腰掛けた。耳には録り貯めたラジオの音が流れている。イヤフォンを通して、iPhoneを通して外界とのつながりを遮断している。電車は途中までしか行かない。到着駅からの長い距離は、徒歩だ。

駅を出ると更に静まりかえっていた。夜も遅い。少々蒸し暑い。きっと雨が降ったのだろう。帰宅へ向けた足は、一歩一歩沈み込んだ。重い荷物と、疲れのせいだ。足の裏がひらべったく感じる。コンビニだった場所には明かりがついており、通り過ぎざまに中を見ようとしたら、スクリーンがかかっていた。まだ何も入っていない。ステーキレストランの前を通りかかると、いつもと同じく食事をしながら歓談する人が見渡せた。やけに明るい。僕はそのまま暗い道を歩き続けた。

橋にさしかかる。下には川が流れている。街灯はさらに減り、黒い水の流れが光を反射して、ときどききらめく。僕は橋から下へ降り、川に沿って歩いた。いつもの帰路だ。ジョギングする人や、自転車で通り過ぎる人を避けようと後ろを振り返ったが、誰も来なかった。あたりを見渡しても誰もいない。車さえ走っていない。

目線の先に、ちらつきを見た。水辺に生い茂る、黒い草の中で瞬くような小さな光。気のせいだと思ったらもう一度光った。近づくとその光は曲線を描きながら、川の中へと消えていった。