hagexの死から思うこと

ブロガーhagexが殺された。オフイベントのようなところで刺されたようだ。正直なところブログは全然読んだことがなく、名前を知っている程度でどんな人だったか、今回の事件がどんな経緯だったのかは詳しく知らない。検索すればたくさん出てくると思うので、興味がある方は調べてみてください。

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プレゼン上手い人が信用できない

休みだ。疲れた。体力がないの三拍子。地震なんかもあったが一週間ぶりにぼーっとしている。そんなわけで、サボっていた日記を書こうと思う。何書こうか。最近やっていたことは、プレゼンの講習に通っていた。プレゼンうまくなりたいとかではなく、必要があって通わさせられた。そこで改めて気づいたのは、僕はプレゼン上手い人が苦手だということ。

プレゼンとか、言うなれば雰囲気芸人である。以前に池上彰の解説について触れたことがあった。彼は難しいことを噛み砕いて、誰にでもわかりやすく解説することで有名だ。しかし僕は彼の話している内容を聞いて、そこにある「抜け」がどうしても気になる。

  • 池上彰が嫌いなわけじゃありません
  • プレゼン技術は見世物
  • 上辺を見るか、中身を見るか
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やっとこの領域に…ワイヤレスイヤフォンを買った

東京に来ています。雨です。これを書いている今は昼の2時だけど、空が暗くて夕方のようだ。ここ数日は人と会い、外食を繰り返してきた。今日がようやく休みで、もう少し健康的なものを食べよう。もってきた服を洗濯しないといけない。

さて、最近までずっとiPodで音楽やPodcastを聞いていた。僕が使っていたのはiPod nano、2008年に買ったもので10年ものだ。最初は付属のイヤフォンで聞いていたが、2015年からカナダで買ったURBANEARSのヘッドフォンで聞いていた。PLATTANという商品。色のバリエーションが豊富であり、値段の割に音質の評価もよく、どこへ行くにも愛用していた。

これのイヤーパッドがボロボロになり、イヤーパッド単体で買い換えようと思ったら、自分の持っている色の在庫がなくなっていた。この際だから別のものに買い換えようと思った。来年からは買い物もろくにできない環境に移動する予定だから。

  • ワイヤレスを比較検討
  • 購入、STADION
  • Spotify、Podcast、ラジオクラウド
  • モバイルバッテリが必須
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悪く言ってしまいがち

自責の念に駆られている。物事を悪く言うのは善くない。人のことも悪く言ってはいけない。聞いているほうは不快であり、言っている人の印象も悪い。言及したり批判することが大切なときもあるが、否定的な意見を言うだけでは誰も得しない。改善案を提示したりポジティヴな側面に注目したり、おもしろおかしい話をしたほうが建設的だ。つい昨日も言ってしまったばかりで、ずっと悔やんでいる。取り繕いたいと考えていたが、そういう行動も含め全てが見苦しいだけ。粛々と心の中で悔やんでいる。いや、今これ書いているんだけど。これは弁解とかではなく反省と改善を目論んでのこと。

  • 自己否定を言い訳にしない
  • 感情的にならない
  • 余計なお世話
  • 幼稚な発想を捨てる
  • 外国人あるある
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恥ずかしさについて

日本文化は恥の文化だと言う。世間体が最重要視されるようになったのはいつからだろう。しかし外国においても「メンツ」が大事だというのは同じで、「恥」の基準が違うだけなんじゃないかと思う。アメリカは「プライド」の文化で、韓国は「恨」だっけ。そんなに大きな違いを見いだせない。

僕自身は恥とかメンツとかをあまり大事にしてこなかった。これは僕だけでなく、僕の生まれ育った家、特に父親がそうだった。人の目線を気にしない。顔色を気にしない。世間体を気にしない。恥ずかしいことを平気でやる。食事のマナーなんか最悪だ。僕自身もそういうところを受け継いでいる。前に勤めていた職場ではたびたび「社会人としてあるまじき」とか「社会人として失格」みたいなことを言われた。社会人ごっこやりたくないなーと思いながらも、その場のルールに則らないと退場になることは理解できたから、なんとか取り繕っていた。冷静に考えてマワシがかっこ悪いと思っても、デニムで土俵には上がれない。その後マワシを取って退場した。

恥ずかしいと言われることはたくさんある。例えば僕は車の免許がなくなった。車に乗れないこともよく恥ずかしいと言われた。東京圏の人は車いらないと言う人も多いけれど、それ以外の地域では大抵車に乗れて当たり前のようなところがある。そういうのにあまり関心が持てない。歩けばいいやとか、自転車でいいやと思ってしまう。

僕ぐらいの年齢だと車だけでなく家や家具だったり所帯を構えたりすることで世間体を取り繕うことも多い。賃貸が恥だと思う感性もあるようだ。僕自身は実家で論外だが、テント暮らしで構わない。物はなるべく持ちたくない。家具なんてもってのほか。移動が大変だから箱男でいい。結婚とか子供とかは本当に遠い世界の出来事で、想像したことがない。

それ以前に、30越えて無職で実家ぐらしとか、金が無いとか、そういう今の現状を恥だと思う人は多いだろう。世間的に見ればクズだし、かっこ悪い。さすがに僕もかっこいいとは思っていないから、無職で実家ぐらしで金ないことを誇ったりはしない。訊かれたら答える。するとまあ、引かれたりフォローされたりする。先日もビジネスに興味がないという話をしていて「なんでですか?」と訊かれたから「ビジネスしんどいじゃないですか」と答えた。「まあ、そりゃそうなんですけど…」と呆れられた。彼らはそれをやるのが当たり前だと考えている。当たり前にやるのが人間だと。

こういう人間観はどこから来てるのかなーと思ったら、アーレントの『人間の条件』みたいなあーいう感じなんだろう。「人として一人前」みたいな古き良き人間の定義。それで言うと僕は「労働する動物」でさえない。消費活動があまり好きじゃないから。では一体なんと呼べるだろう。「自生する草」あたり?水と太陽光のような、わずかな天の恵みでなんとか生をつないで、枯れたら消えるだけ。

それを恥だとは思わない。フリーライダー。自立すべきと思っていた時期もあったが、自立っていうのは究極的にはありえない。会社員だって会社に飼われているようなもんだ。自営業者だって顧客との関係ありきで成り立っている。彼らの場合は等価交換、もしくは付加価値を提供しているかもしれないが、人は結局のところ自分だけで成り立っていない。付加価値を提供して社会参加したいか、したくないかだけの違い。そういうのはやりたい人だけが好きにやればいい。

僕の場合は一方的に享受することが多く、誰にも何も与えていないから社会的に見るとお荷物でしかない。近代国家を形成する市民たり得てない。義務を全うしていない。「それで何が悪いの?」と開き直ったりはしないが、「恥ずかしくないの?」と訊かれたら「気にしない」と答えてしまうだろう。社会参加に興味が持てない。一方的に享受できなかったら野垂れ死ぬだけで、今生きている状況に対してそれ以上のことを求めない。自堕落、と言われてしまえばそうです。

恥ずかしいと思うことはなんだろう。さすがに全裸で走り回ったりするのは恥ずかしい。あの感覚は何かと言うと、変な目で見られるからだ。銭湯だったら恥ずかしくない。誰もいなければ、誰も変な目で見なければ恥ずかしさはない。人の目を気にしないとは言え、さすがに大勢からジロジロ怪訝な目で見られたり、具体的な害を被ったりすれば気になる。日常でそういうことはあまりない。不特定多数の人が、特定の個人に対して真っ当な人間かどうかを気にする機会も少ない。多少変な目で見られることは慣れているから、気づかないか、もしくはなんとも思わない。

結局恥ずかしいと思うかどうかについては、世間一般の視線に敏感かどうかと、自分が「こうあるべき」みたいな基準が明確かどうかの二つに絞れる。そして僕にはその二つが欠けているというだけの話でした。世間が自分をどう見るかに興味を持てなくて、自分自身への厳しさもない。そういう連中が平気でホームレスをやるのだ。ちまたにも溢れかえっており、別に恥ずかしくはない。

花火、 #アトロク 、ヒトコトに来たやつ

日記です。寝酒体質をなんとかせにゃ。依存性のあるものをスッパリやめようとしたところでただ禁断症状に陥って苦しむだけ。他に何もできなくなる。コーヒーも依存性あるか。なんもてにつけらんねえや。何か作業に依存できればもっと捗るんだろうけど、どうにもこうにも。部屋片付け依存とか。

  • 不穏な花火
  • アトロクの話
    • 膨大で偏った情報番組
    • 宇多丸氏
    • アナウンサー人気投票
    • ラジオ弱者
  • ヒトコトにきたやつ
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2018年5月のふりかえり

5月、僕にとって一つの場が終わってしまった。それは非常に楽しい空間であり、そこで関わった人たち、それぞれ思い起こされる。そこからいなくなってしまったことが哀しい。でもそれは最初から決まっていたことで、嘆いてもしょうがない。ずっとそこに居たいとは思えないし、惜しいとも思わない。この離脱は必然である。だとしても、この無常観に嘘はない。

だろうか?そこまで言葉で現すほどのことを実感しているだろうか。実際はもっと単純で、これまでと何も変わらない。ただ場所が変わるだけ、環境が変わるだけ、生活が変わるだけ、脳みそはこれまでどおり。ゴミを溜めて捨てるだけの日々。今年がもう平成30年であることに気づいた5月だった。平成の終わり、最後らしい。そんなことはどうでもいい。事務手続きでもしかして平成29年って書き間違ってたんじゃないかという心配のほうが大きい。

5月の更新は12回、うち2回は写真回なので実質先月と変わらない。3月の半分だ。5月は何してたんだっけ。

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「誤解」について思ったこと

誤解によるストレスに煩わされるだけの人生だった。言ったことは伝わらないし、正確に認識されない。どっから出てきたのか不明の意見と混ぜ合わせて拡大解釈される。「そうじゃない」と重ねて説明しようとするが、もう相手の頭の中にできあがってしまった新しい物語は独り歩きしている。こうなったらもうお終いだ。何を言っても通じない。耳を貸さない。そうやって誤った解釈は伝搬の過程で幾度もの改変を生じ、オリジナルとは似ても似つかない代物になる。誤解とは、逃れることの不可能な伝言ゲームの醍醐味なのだろう。よく「一次情報に頼れ」と言われるのはこの伝言ゲームを起こさないためだ。

誰しもがそういった誤解にさらされているだろう。「わかった」「理解した」「そうじゃない」、言葉の伝わらなさ、内容の伝わらなさは自分にとってずっと苦悩の種だったように思う。これまで発してきた言葉はすべて誤解を解くためだけの釈明、弁明ようであり、発しなかった言葉は誤解を招く見立てがついていたため口から出なかった言葉だった。

僕自身はなんとか誤解を避けようと、正確に話すことに努めていた。自分の意見や考えから1ミリもずれがないように、誤解の余地を削り取るように言葉を付け加え、長ったらしい計算式とその答えを提示しようと努力していた。しかし、あまり意味はなかった。なぜならその式は読まれなかったから。「その意見については既にここで潰している」は通じなかった。もう相手の頭の中では別の物語が進行中だったから。「絶対こうに違いない!」「そうじゃないって最初に言ってる」「でもそう読み取れる」などと言った不毛な会話を何度繰り返してきただろうか。伝達というのは根本的に機能しないんだなーと思いながらも、いかに正確性を上げるかばかり考えていた。

で、今回読んだ本が「ゲンロン0 観光客の哲学」。この本で書かれている「観光客の哲学ってなんだ?」という主題には今回触れない。この本には「誤配」という言葉が出てきた。郵便物を誤った住所に届けてしまう誤配だ。届けるはずの住所に荷物が届かず、別の住所に届くはずのない荷物が届く。そういう誤配によって、本来起こり得なかったことが起こるとかそういう話。例えばTwitterのように、本来届けるつもりのない相手に偶然読まれることによって、拡散されるはずのなかったメッセージが何万人にも読まれ様々な解釈を生んだりすること。SNSはそういう誤配が起こりやすい装置となっている。

意見、言葉、表現はいかに強烈なメッセージがあろうとも、拡がれば拡がるほどオリジナルの手を離れる。そこには千種万様の視点があり、見方があり、解釈がある。思いもよらない方向からボールを投げつけられたり、感謝されたり同意されたりするかもしれない。しかし、そこから「オリジナルが何を言いたかったか」なんて主張することはもう不可能で、真意を伝えることにこだわり続けるのは無意味だとさえ言える。だったらどうすればいいのか。誤解されることを恐れるのであれば、何も言わないでいるしかない。では、なぜ誤解されることを恐れるのだろう?一つはいわれのない非難を浴びるから。もう一つは、コミュニケーション不全であること、他者への伝達がうまくいかない世界で生きることへの不安が生じるから。

でも誤解というのは必然なんだと思った。僕はずっと正解を求めて生きてきたけれど、誤解もまた正解の一つなのだろう。少なくとも相手にとってはそうだ。ときには被害をまぬがれるためや、関係を維持するため釈明に精を出さないといけないこともある。ただ、もし誤解そのものが正解の一つで、必然であるとしたら。我々の生はこれまでもこれからも、誤解の上で成り立っているんじゃないか。だったら誤解は受け入れてしかるべきなのではないか。誤解を避けようとか、誤解を正そうなんて思わなくてもいいんじゃないか。自分の言葉を誰がどう捉え、どう感じ、どう応えるかなんてコントロールできるわけがない。他人から見える自分は見る人によって違い、ましてや自分が思う自分ではない。はじめから誤解されているんだ。

何も発しない平穏な暮らしだって悪くない。でも多分それは暇でしょうがないだろう。分かり合える者同士、誤解の少ない閉じた空間で過ごすのも快適かもしれない。でもそれだけではやはりどこかで飽きが生じる。誤解こそが一つの正解であることを受け入れ、もっと誤解して誤解されて、手広く言葉を発していったほうが退屈しないですむと思う。どのように評価されようと、それは彼らの評価であって自分の評価ではない。人は互いに誤解し合う生き物で、誤解もそう悪くはない。

facebook使っている人がこんなに多いなんて

facebookのアカウントを作って今月で8年だそうだ。僕がアカウントを作ったのは、facebookが招待制じゃなくなって誰でも利用できるようになったタイミングだった。まだ日本語には対応していなかったが、当時既に5億人の利用者がいて日本でも話題になっていた。その後「若き天才の野望」などが売れ、映画「ソーシャルネットワーク」も公開され一般的な知名度は上がったが、実名制であるfacebookは日本に根づかないだろうなどと言われていた。

その後日本でも爆発的に利用者が増え、そしていつしか話題にも挙がらなくなっていた。何か事件があったり、マーク・ザッカーバーグ絡みのニュースが出たときだけ話題になる程度で、facebookの利用がフォーカスされるようなニュースは目にしなくなった。周りの人もほとんど使っていない。アカウントを持っている人は非アクティブユーザーになるか、もしくはアカウントを削除していった。だから「facebookは廃れた」と実感していた。

最盛期に比べると、確かに廃れたのだろう。でも現実は僕が思っていたほど廃れていたわけじゃなかった。つい最近facebookがアクティブな環境にいて、こんなにもたくさんの人がfacebookを日常的にインフラとして活用していることに驚いた。いるところにはいるもんだ。写真とコメントが投稿され、タイムラインはどんどん流れていき、次々に返信がついてlikeもfavも押される。今が最盛期と言わんばかりに。

どういう人が使っているのだろう。基本実名であるため、Twitterのようなやりたい放題はほとんど見られない。やはり社会人が多い。特にフリーランサーなんかはfacebookページと共にけっこう活用している印象がある。自分の観測範囲に学生がいないため学生のことはわからないが、おそらく若者はfacebook離れしている気がする。

どんな目的で利用されているのだろう。facebookの最大の利点は、アクティブ非アクティブにかかわらず登録者が多いことだ。毎日14億人が使うSNSは他で類を見ない。そうなると不特定多数に広く情報を届けたり、広い範囲の中から実名で具体的に人を集めたりすることに有効だ。告知やグループがそれにあたる。趣味よりも仕事や実用に使われている印象が強い。

僕自身はというと、facebookはずっと写真置き場だった。あとは外国に行った際、チェックイン機能をおもしろがって使っていた。近況報告のようなこともときどきしていた。外国で知り合った人は基本的にfacebookでしか見かけない。僕にとってのfacebookは、年賀状のような扱いになっている。しかし僕の知らなかったところでは、今でもfacebook上で日常的に人とコミュニケーションを取ったり情報交換していた。

facebookメッセンジャーはずっと使っていた。facebookメッセンジャーをメインに使っていた理由は、やはりこれも外国人絡みだった。西洋圏の人はメッセンジャーアプリにwhatsappを使う、韓国人はカカオトークを使う、日本人はLINEを使う、この三者間で唯一共通して持っていたアカウントがfacebookであり、以降facebookメッセンジャーを常用するようになった。

僕はLINEをほとんど使わないため、LINEの使い方は母親のほうが詳しいぐらいだ。LINEも今となっては若者のツールではなくなったように言われている。完全に脱却したわけではないみたいだが、InstagramのDMや、まさか日本で使っている人はいないだろうと思っていたSnapchatと併用している事例がおもしろかった。

(2、3年前北米の若い人は誰も彼もSnapchatを日常的に利用していた印象。そんなSnapchatは去年上場して以来、株価がだだ下がりしている。)

酔った勢いの日記

忙しい状態があまり好きじゃなくて、理由は生きている実感がしないからだった。生きている実感とは僕にとって、自覚的であることだと思う。自覚的であるとは、意識的であるということだろう。忙しいと流されてしまう。自分の意志ではない流れに。自分の意志ってなんだっけ、状態はどうなっている、そういうことに自覚的でありたい。把握していたい。ハンドリングしたい。だからそれが見えなくなっていると、わけがわからなくなる。今自分が何をやっているのか、何を考えているのか、コントローラーが手元から離れてしまって、流れに任せて考え動いてしまっている。プレーヤーはどこかへ行ってしまった。

自分の行動記録を追ってみても、それはまるで他人のようであり、その奥で何を思い、何を考えているのか掴めない。おそらく何もないんだろう。流れに任せてただ揺らめいているだけだから、意志が働いていない。自分の意志はもっと別のところにあって、行動記録には載らない。行動を離れたところで置いてきぼりにされている。ずっと放ったらかしてきた。それが忙しいという状態だろう。煩わされている。生活することと、自我を保つこと、その二つを一本化するのは難しい。どちらかに煩わされると、どちらかを蔑ろにしてしまう。

そういうことを考えなくてもいい人や、一本化できる人もいるだろうが、僕の場合はそうではなく、生活と自我の二つを切り替えて同時並行に進めていく器用さが必要になる。忙しいというのは時間の占める割合の問題であり、1日のうち数時間でも生活に煩わされない自覚的な時間を持ちたい。今二つはバラバラになっている。数時間は何がしたいとか何をしなければいけないといった生活から外れて、再びハンドリングする側に割こう。自分の意志は、自我はどこにあるのか。思い出すように追いかけては探す。

生きていると、悔いのない時期が来る。もう別にいつ死んでもいいやって思うとき、それがいつからだったか忘れたが、ずっと続いていた。もし何かやり残したことがあったり、課題が見つかると、それを終えるまでひとまずの間はまた、生活ではなく意志が続く。自分にとってそれは何だっただろう。多分、自分だけの思想を築くとか、そいうことを若い頃に考えていた。過去というほど過去ではないが、3年前の日記にはこんなことを書いていた。

そんなことより僕は、本質を最も大事にしていた。筋を通すことに重きを置いていた。正しいか、間違っているか、そのどちらかだった。理にかなっていれば取り入れ、そうでなければ無視したかった。それ以外の無駄なこと全てに関わりたくなかった。楽しむため、人間関係を円滑にするため、お金のためとか仕事のためとか、そういった別の目的のためにつく嘘は詐欺であり、詐欺行為によって本質を掻き乱すのは下劣なことだと思っていた。

「本質」は一時期において口癖のようになっていた。essence、本質ってなんだろうか。この頃はまだ自我を保っていたのだろう。もう酔って何も考えられなくなった。こういうのがいけない。素面の状態で全部受けとめないと。クソ、全部どうでもいいな。生きつないでいくのに必要なのは生活なのだろう。でもそれとは真逆の何かを人は求めるもんなんじゃないか。

読書初心者むけの、異世界へいざなってくれる本3冊

異世界転生の話ではありません。今回は、我々を平凡な日常から、異世界へいざなってくれる本を挙げてみようと思う。この「いざなってくれる」という部分を大事にしており、今回挙げる3冊はどれもこの世界と異世界が地続きになっている本だ。スターウォーズやロード・オブ・ザ・リングのように、今我々が暮らす世界からかけ離れた異世界はいくらでもある。肝心なのは、この世界からいつの間にか、どこからともなく気がつけばそこは異世界と化している点であり、二つの世界が地続きであるからこそ身近に感じ、自分の先にある出来事として認識でき、感情移入しやすくなっている。今回選んだ本は全くそういう意図で書かれた本ではないんだけど、それぞれの違った異世界へ我々をいざなってくれる。

  • 嘘つきアーニャの真っ赤な真実
  • ワセダ三畳青春記
  • ねじまき鳥クロニクル
  • 他にあったら教えてください
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ヒトコトへの回答⑬

超久々。このブログではGoogleフォームからご意見などを頂いております。スマートフォンでページを一番下までスクロールしてもらえば出てくるアレです。それをときどき拾って回答してたりします。前回が昨年末で、それ以降も何通か届いていたんだけど、非公開が多くて個別に対応していた。今回は一つ、非公開に対して転載しない形で回答してみる。

  • 49通目:雄大その後
  • 50通目:自意識過剰のやつ
  • ひとことどうぞ
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