出雲大社、玉造温泉、島根観光

偶発的に、島根県へ旅行することになった。行き先は僕以外の人たちが決め、ただただついていった形。もともと温泉旅行をするという話に始まり、出雲大社へ行きたいという人がいて、玉造温泉のある島根になった。メンバーは前の職場のお客さんたち。自分はスタッフだったんだけど、まさか一緒に旅行することになるとは。1年前は想像もしなかった。

コースとしては出雲大社→玉造温泉(停泊)→足立美術館→松江城といった感じ。おそらく島根観光としては定番だろう。なんと言えばいいか、終始ピースフルな旅行でした。

出雲大社については、学生の頃「逆説の日本史」で読んだ怨霊を鎮める神社説を知っている程度だったが、どっかの神主さんが否定していた。

https://www.izumo-murasakino.jp/yomimono-004.html

  • 初日、出雲大社・稲佐の浜
  • 2日目、足立美術館・松江
  • 3日目、玉造温泉街
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人を知ること、その先に

人をよく知ることの先には何が待っているだろうか。相互理解だろうか。良好な関係性だろうか。もしくは争いだったり、弱点ともなれば奪い合いだろうか。それとも共闘によるシナジー効果だろうか(前の職場に口癖のようにシナジー効果と言う人がいた)。

ここから先は僕の事例。僕が人のことだったり、何か物事を知ろうとするとき、その先に求めるのは世の中を見据える新たな視野だった。学問を身につければ、世の中の一部を専門的な視点から深く掘り下げることができる。どこまでも深く、際限ない。横を見渡しても広い。分野に限りはない。隣りにいる人は、また自分とは違った視点から世の中を見つめている。海の向こうでは全く違う視点で世界が語られている。そのような別の視点を知りたい。あらゆる視点を。それらを統合して、まんべんなくこの世の中を眺めてみたい。一体どういう仕組みでこの世の中は成り立っているのだろうか。

人のことを知りたいときは、その人がどういう視点を持っているのか知りたい。あわよくばそれを自分の中に噛み砕いて理解したい。そうやって新たな視点を身につけたい。他人に備わっている視点は、感覚的にはわからない。その仕組みを知る必要がある。その視点はどういった経路をたどり、どのようにして構成されているのか。ありとあらゆるパターンの解析が必要になってくる。それらを全て知って初めてインプットすることができる。こういうとき、この人だったらこう考える。一つの人格が自分の中に出来上がる。それらは知識であり、学問である。

人に興味がわかないときは、その多くが既にそのパターンを知っているとき。でなければ自分に必要のないパターンだったりするとき。物事をこんなふうに捉えられたらおもしろいなーと思ったときに、人に興味がわき、その人のことを知りたいと思う。彼は彼女は、何をどう考え、どう感じ、どういった答えをだすのかが知りたい。

よくしゃべる俺

先日飲みに行ったとき、7時間ぶっ続けで喋っていた。相手の人はさぞ疲れただろう。ごめんなさい。そして僕はよく喋る人間、話好きだと思われている。無理もない。ただ実際のところはどうだろうか。

  • 話好き?
  • 聞き上手?
  • 話し上手?
  • 人気者ってなんだ
  • もしかしてすごいのかも?
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2018年に買ったもの(新時代の定番)

あと3ヶ月あるけどもう買い物はしないんで、まとめます。思えば2018年は準備やらなんやらでいろいろ物を買ってしまった。去年なんかは全然買わなかったのに。

今年の買い物は、ちょっとした入れ替えだった。季節の衣替えに近い、時代の衣替え。それ以外は単に必要なものだったり、欲しいものを買っただけ。それでは順番に見ていこう。

  • 前に買ったもの
    • iPhone SE(simフリー)
    • ワイヤレスイヤフォン
    • Chromecast
    • トラベラーズノート
    • ヘッドライト
    • ランニング足袋
  • 最近買ったもの
    • Bluetoothスピーカー
    • モバイルバッテリー
    • 電源タップ
    • キーボードカバー
    • 虫除け(イカリジン)
    • キズパワーパッド
  • 時代の変化に伴う衣替え
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オフモードに入っている

数日前からそんな気がする。人に対してあまりにも無感情に接している。人付き合いもすこぶる悪い。元からそうだったんじゃないかと言えば、そうとも言えるんだけど、ここ1年ほどはもっと人に対して温かみを持って接していたような気もして。今現在はそういうのが感じられない。気が利かない。心が動かない。無意識に予防線を張っているのだろうか。人に対して冷たい。

意欲も減退気味だ。気力がない。何もしていない。これからだというのに、ある種燃え尽きたのだろう。休憩時間だ。復帰できればいいなー。どうやれば感情が戻るんだろう。感動が薄い。思えば涙もろくなってきた。

感情と涙腺について、僕は一定の見解を持っていた。涙もろかったり、感情表現豊かな人は感情が浅い。感情の安売り、バーゲンセール、何にでも感動するし、涙を流してはすっかり忘れている。逆に、めったに泣かない人だったり感情表現の乏しい人は感情が深い。出し惜しみをしている分しつこい。しかし今はもう、感情表現豊かでそのどれもが深く、大売り出ししておきながら全部覚えている人も中にはいるということを知っている。涙を流さず感情を表に出さないだけで、懐が深いのかと思ったら本当になんにもなく空っぽだったという人もいた。表層と深層に、必ずしも反比例の関係はなかった。今思うと当たり前だ。

自分は今その状態なのだろう。感情が振れない。一人ならそれでいいが、人と関わるにあたってそれではいかんなーと思う。対峙しているときは気が回らない。あとあとになって今日はひどかったなーと思う。思うだけで、対策が湧かない。なんたって感情が振れないんだから、具体的に動けない。いかんなーと思うだけ。対峙している相手に対しては、なんの反応も得られないで気の毒に思う。本当に気の毒なのは俺か。けれど相手は何も知らないんだから、やはり気の毒だ。

演じればいいんだが、オフモードであるから真人間らしさを演じる気力がない。真人間とは社会的に真っ当な人間というよりも、喜怒哀楽といった感情のある人間という意味。引き出しがない状態では装えない。ぬけがら、放心状態、こういうときは何をすればいいのだろう?たまりにたまっている映画も見る気になれず、ラジオを付けては消してしまう。ダラっと本やマンガを読んだ。頭や感情は使えない。

臨時収入があったため、Amazonでやけくそのように買い物をした。いるものからいらないものまで。このやけくそ買いがどこかで感情に寄与しないかと思ったが、あまり関係なかった。届いたものを見て、喜びもそれほどなし。淡々と荷物に詰めている。少しでも臨時収入があるとすぐにいらないものを買ってしまうのは悪い癖だ。Kindle本を買おうと思っていたのに、何を買えばいいのかわからない。

最近知った人で、何からも誰からでも肯定的な面だけを引き出す人がいた。つい否定的な部分ばかり目に映ってしまう自分としては、彼女のそういう態度がうらやましい。きっと育ちがいいんだろうと思ったら「私の親土建屋ですよ」と返ってきた。土建屋にだって人生に前向きな人はいるだろう。何も、自分の人生に前向きになりたいとかそういう話ではない。そういうのは疲れるからいい。ただ、人に対して、誰かに対してはなるべく前向きでありたいと思う。自分に対しては後ろ向きなのに、他人にだけは前向きなんてそんな芸当は可能だろうか。いや、それでも自分は努力してなんとかやろうとしてきた気がする。今はそれができない。否定すらできない。

街灯、口笛、体力、熊鈴、ガチ冒険

街灯

電柱のかぶっている笠がアメフトのヘルメット、もしくは剣道のお面のように見えた。アミアミのやつ。棒で突き上げ、そこにいることを主張しているかのようだった。我先に、我先に、合戦の旗印のごとく、煌々と輝く姿を夜には見られる。

口笛

歌を歌っていたり、口笛を吹いていたら機嫌が良いと思われる風潮が気に食わない。機嫌が悪い時にも音楽はあり、詩はあり、口笛は吹く。楽器も演奏する。何も気分が良いときだけのツールではない。お前のその単純思考は一体どこの世界から来るんだと問いたい。いちいち説明すんのがめんどくせえ。例えば口笛でモーツァルトのレクイエムを吹いていても、シューベルトの魔王を吹いていても気分が良いと思うのか?中学の音楽の時間に習った魔王。とぅるるるるっとぅっとぅー。気分が悪い時も音楽とともにあるっちゅうねん。

現代の子供の体力

現代の子供は体力がないと聞く。我々の頃よりないんだと。準備体操でケガをしたり、ラジオ体操でケガをしたり、屈伸でケガをしたり、前屈でケガをしたり、我々、もとい私もかなり体力がない方を自負しているが、さすがにそんな簡単に怪我したりしない。人体の退化という意味では、他に顎の形や歯の本数などがよく言われている。小学生の体力の退化もその類なのか。酒を飲まない若者とかそういうのことなのか。はたまたそれは一部のひ弱な存在なのか。だってオリンピックの記録とか更新されてるんじゃないの。それはもしかすると技術の進歩であって、フィジカルの進歩ではないのか。それでは果たして、知力はいかがなものだろう。もはや現代人の水準が理解できない老人は世にあふれている。変化を理解しようとしない。違いを理解しようとしない。年をとればそういう変化や違いを楽しめなくなっている。どう頑張ってもついていけない。そうなのか、どうなのか、さて。

熊鈴

熊が出るそうだ。熊鈴を携帯しろと言われているが、こんなものに果たして意味があるのか。りんりん鳴らしたぐらいで熊がビビるのか、むしろ餌があるぞーって余計に寄せ付けるだけなんじゃないか。熊鈴効果を疑問視していたが、ごちゃごちゃうるさいんでしかたなく携帯していた。

呼び寄せてるじゃん。

ただ一般的には、熊は警戒心が強いため人工物の音に寄ってこないだそうな。腹が減っていたり子供がいたり人工物の音に慣れていたり音に気づいていなければ意味がないという主張っぽい。この熊鈴というのは日本以外でも一般的なのだろうか。英語で検索してみたらあった。

youtubeで検索すれば熊鈴動画を見ることができる。効果としてはまあなんというか、結局運次第みたいなところだろうな。

ガチ冒険

地球の歩き方ガチ冒険を久々に読んでいる。普通のガイドブックとなってしまって全然買わなくなった地球の歩き方だが、本書はなかなかエモーショナルな旅行者あるあるをかき集めた思い出ギッシリ本でおもしろかった。一部抜粋してみよう。

「お前絶対日本で残念な方面の奴だろう、現実逃避してここにいるんだろう。しばくぞ」と心の中で思うこともあるような人であったとしても、日本人宿では先に泊まっている人のほうが偉いのだ。 位置No.322

インドへの往復航空券と、ハワイへの往復航空券の値段は、大きく変わらない。「どちらかをプレゼントしよう」と言われたら、私はきっとインドを選んでしまうだろう。 位置No.455

スマートフォン、タブレットの登場によって、こういったバックパッカー文化は完全に滅びた。バックパック旅行という形態そのものは今でもある。世界中のどこでも見かけ、ゲストハウスだって現存するし、重宝している。しかし今や空港で現地simを購入し、booking.com、もしくはAirBnBで宿をとり、スカイスキャナーでLCCに乗り、Uberで車を拾いGoogleMapで移動。あれもこれもスマートフォン、もしくはタブレット。バックパッカーという旅行形態は完全に様変わりした。

2000年代、僕が旅行していた頃はまだ名残りはあった。iPhoneが出てからもしばらくはsimフリーが存在せず、外国ではWi-Fi利用のみ。フリーのWi-Fiスポットを探し回っていた。booking.comは既に利用していたが、まだゲストハウスなんかは全然登録されていなかったように思う。そんなよりもっと前の、懐かしきバックパッカー文化を思い起こさせるガチ冒険は、たった108円です。

2018年8月のふりかえり

やっとふりかえりでーす。8月は8回更新。7月より1回増えたが、ひきつづき忙しくて全然更新しなかった。少ないから全部あげていこう。

書くことがなくてブログテーマに頼っていたりした。それ以外はかろうじて思いついたことなど。そして夏が終わってしまった。今年の夏は東北で過ごしたため、涼しいまま終わってしまった。全然夏らしくない。実際のところ、東北に来る前に過ごしていた6月の京都のほうがこっちの7・8月よりも暑かった。こちらではときどき長袖を着たりしていた。その前はずっとタンクトップ、半ズボンで過ごしていたというのに。

東北にいたからといって、観光とかは全然していない。平日に飲酒しない生活を送っていたから週末に飲みすぎることが多々あったぐらいで、基本引きこもっていた。これまでの夏は普段何していたか。おととしはポケモンゴーか。去年はバイト漬けだったように思う。

ちょうど映画見まくっていたようだ。夏といえば映画、というわけでもないが、夏映画も映画も全然見ないまま今年の夏は終わった。

先月同様、本は一冊も読んでいない。映画はラ・ラ・ランドをもう一回見たぐらい。ドラマやNetflixはバキ死刑囚編だったりベトナム戦争のドキュメンタリーだったりシュタゲゼロを見ていたり。ラジオも全然聞けていない。かろうじて二九地図追っかけているぐらい。Twitterさえ全然利用していなかった。忙しいってこういうことなのか。久々に実感した。普段ネットにいない人や、ネットから遠ざかった人は一体何をしていたんだろうと気になっていたが、こういうことだったんだ。

忙しい忙しいと連呼したが、ろくに何もしてねえ。主に雑用。よろしくないなあこういう不毛な時間の過ごし方。9月は何しようとか考えておかないとまた同様の時間を過ごして終わってしまう。半ばには一度地元に帰り、買い物をしなければならない。これは1日で終わる。次、月末に温泉に行く予定。他、Kindle本を買いたい。その前に読みたい本もたくさんあった。大阪にも一度行こう。本屋に寄りたい。夏服も欲しい。セミフォーマルなパンツを。あとはなんだ、もちろん映画とか見たい。出町座で何か見ようと思ったが、今のところ候補はウィンドリバーぐらいか。10月にはまた地元を離れることになると思うんで、それまでてきとうにダラダラ過ごすか。もしくは人と会うか、それぐらい。

今のうちに買っておきたい株

先のことはわからない。ファンダメンタルズでは買えない。でも買うなら今だろという銘柄を挙げていきたいと思う。知り合いの投資家はそういう買い方をしないと言っていた。リスクを取って買うのは負ける人間の買い方だと。そんな買い方をするぐらいなら、確実な方に回すと言っていた。そうやって巨万の富を築いた彼の意見は正しい。

しかしながら、素人である我々は少しぐらいそうやって遊んでもいいのではないかと思う。ある種のギャンプルに近い。ギャンブルのように早々に手放すつもりはないが、具体的な根拠なしに買うのはギャンブルだろう。それでもここで挙げるのは、多少堅いんじゃないかと思う。値上がりするかどうかは微妙だが、少なくとも10年、いや5年はなんとかなるんじゃないか。当たれば大きい。外れてもたかが知れている。しかし具体的な根拠はやはりない。そんな銘柄を挙げる。

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昭和のダメ男

うちの父方の祖父が、典型的な昭和のダメ男だった。父の家庭は祖母の生計で成り立っていた。祖父は酒と麻雀、競馬、ギャンブル狂いだった。賭け事はかなり強い。将棋も強い。仕事はしていたのかわからない。かなり年がいってからは個人タクシーをやっていた。その前は何をしていたのだろう。

祖父はプロ野球の選手を目指していたそうだ。祖父いわく、身長が足りなくて入団できなかった。父も叔父もその話を疑っていたが、一度球場に連れて行ってもらったとき、後輩だというプロ野球選手に会わせてもらう機会があって、初めて祖父を尊敬したそうな。祖父は若い頃、野球一筋で生きてきた。そして夢破れ、落ちぶれた。理由は知らないが徴兵もされなかった。戦後の動乱の中を祖母に養われ、昭和のダメ男として生きた。

こういった話は珍しくない。特に昭和初期のドラマや小説では日常風景としてダメ男の話が出てくる。時代が時代だから、彼らは揃いも揃って既婚者だ。妻が夫を養っている。妻が稼いだお金を酒や博打に使うヒモのような暮らし。他にもそういった例を聞いたことがあったなーと思ったら、ライオンの生態だった。メスが中心に狩りをするとか。他にもあった。東南アジアの家庭だ。夫は昼間からブラブラしており、妻が家計を支える。もしかするとそのような家庭風景は、特別歪んだ関係性ではなく、原始的な日常風景の一つの形なのかもしれない。

現代日本にもそういった家庭は存在するだろうが、あまり受け入れられない。現代であれば、そもそも婚姻が自由だ。離婚だってできる。お互いが望まない限り、そういう夫婦関係は成り立たない。そして望んでそういう関係を続けるのは稀だろう。祖母だって現代に生まれていれば離婚していたはずだ。

僕の父だって、現代に生まれていれば結婚などしていないと言っていた。自由気ままに好き勝手生きていたと。父は祖父のような放蕩生活を送っていたわけではないが、返還前の沖縄にいたり、地上げ屋をしていたり、古物商をしていたりとなかなか怪しい。ギャンブル好きと勝負強さは祖父から引き継いでいる。

さて、僕自身はというと、酒は弱い、ギャンブルも弱い、運動神経も悪い、あまり父方の素養を受け継いでいないかのように思う。しかし、仕事も収入も安定しないという点では同じだ。働きたくない。欲もない。お金もいらない。こういう因子は競争に向いていない。もう残さなくていい。幸いなことに、現代では生涯未婚率も5人に一人を叩き出しており、結婚を除外する生き方も一般的になってきた。

話はそれたが、この話題で何を言いたかったかというと、現代において昭和のダメ男みたいな生態は、かなり蔑んで見られるだろう。当時もそうだったかもしれないが、それでも当時はわりと普通にいたんじゃないか。つまり昭和のダメ男みたいな人は当たり前に存在するってことです。珍しくない。

自己評価を重視しがち

「人からこう言われてるよ」みたいなことをよく聞く。僕の場合だと「気味悪がられている」パターンが多い。ここ2ヶ月の間で5、6人から「ヤバイ人だと思ってました」「めっちゃ怖い人だと思ってました」と自供された。自分がなんで怖がられるのか理解できなくて、おもしろがっていろいろ聞いた。誰とも目を合わせないとか、口を開かないとか、目つきが悪いのが原因だとか。眉間にシワを寄せる癖がある。これは意識しないと直らん。でも意識して直す程のことでもないなーと思い、ずっとそのままだった。

果たして人は、人からの評価を気にするのだろうか。全く気にしないと言えば嘘になる。「人からこう言われてるよ」という話はおもしろい。別の人の視点で自分がどう見えているのかという話は新鮮に聞こえる。しかし、その程度だ。おもしろがる程度。それを深刻に考えたり参考にしたりはしない。他人の意見はあくまで他人の意見であり、あまり意識しない。人からどう見られているかなんて、基本的にはどうでもいい。好かれていようが嫌われていようが、怖がられていようが気味悪がられていようが、自分には関係ないと思ってしまう。

それでは何を重視するかというと、自己評価になる。他人の評価よりも、自分がどう思うか。自分で納得できるか。自分で自分をジャッジする。それ以外はあまり、なんとも思えない。他者評価が重要な場合はたくさんある。仕事だったり、他者との関係性で成り立っている事柄は、自己評価よりも他者評価が重要になる。あくまで関係性の上では、という話だけど。つまり、他者との関係性をどれほど重視するのかが、他者評価を重視する基準となる。

他者からの評価が上がれば、他者との関係性を改善できる。一方、他者からの評価を気にせず、自己評価を気にすることに何か意味があるのか。自己評価とは何も良い評価ばかりではない。悪い評価も自己評価にあたる。だから、自己評価にこだわることで必ずしも自信が持てるわけではない。むしろ自己評価を徹底することで自信を失うことのほうが多いだろう。

自己評価を行うことの意味は、自分で自分に問いかけることではないだろうか。それで何が起こるか。自己問答を繰り返すことにより、自分の価値観や考え方、嗜好性がクリアになる。判断基準、軸が明らかになる。自分の軸がはっきりしてくると、他の意見に惑わされにくくなる。自己問答を繰り返す過程で、自分を知ることになる。そうなってくると、他者の意見はあくまで他者の意見でしかなくなる。そして「自分には関係ない」と思えてくる。

他者の意見に惑わされやすい人は、自己評価が足りないんじゃないだろうか。他者との関係性なんて、そんなに重要なのだろうか。だとしても、それはそれで切り分ければいいのではないかと思う。おそらく誰もが持っていると思う、他者と対峙するとき用の自己。そのままの自己、RAWなやつは、なかなか他者にぶつけられない。だから自分で処理すればいい。他者と対峙するにあたっては、他者と対峙するとき用の自分を磨き、ぶつければいいんじゃないだろうか。それはある意味、自分ではない。そんなものは、褒められたりけなされたところで何も響かない。

ただ現実として、そういう作られた作品のおもしろさは限定的であり、エンタテインメント性に特化している。自分が本当に見たい他者は、やはり受け入れがたいRAWなものだったりする。

自分から話しかける

自分から話しかけることが多い。話したことがない人に対して、一度自分から話しかけると、打ち解けるというほどではないにしても、それまでよそよそしかった人もまた向こうから話しかけてきたり、気軽に会話が進むようになる。相手と仲良くなりたいとか、何か特別に話がしたいとかいうわけでもなく、ただなんとなく「声かけたほうがいいんだろうな」と思ったら話しかける。話しかけないほうが不自然だと思って。たまに興味を持っているとか仲良くなりたいとか誤解されることもある。全然そんなことはない。興味を持つのはその後、話の中身に入ってから。

意外とやらない人が多いように感じるのは、多くの人が話しかける相手を選んでいるからだろう。僕自身はほとんど話しかけられない。選ばれない。でもおそらく、僕だって無意識に相手を選んでいる。いわゆるコミュニケーション強者は本当に誰に対しても話しかけている。いつでも、毎回。僕はそれができない。気分で話しかけたり、全然応じなかったり、そのときどきで落差が激しい。僕が基本的に話しかけられず、話しかける側なのはこういう態度にムラがあるからだろう。本当によく色んな人から「話しかけづらい」と言われる。そりゃあそうか。

ということはやはり、僕にだって話しかけやすい相手がいるということになる。人から話しかけられやすい人は、話しかけやすい雰囲気を出しているのだろう。僕自身も話しかけやすい人に対して声をかけているのだろうか。けっこうまばらに声をかけている気がする。自分が話しかけない対象といえば、話しかけなくてもいい相手になる。つまり、なかば義務感のようなもので話しかけているのか。声をかけたいわけじゃない。何を言うでもない。ずっと黙っていたっていい。けれど何も言わないのは不自然だなと思ったときに、相手が誰彼構わず声をかけている。

たまに、話しかけられるのを待ってる人がいるという話を聞く。その心理は全く理解できない。待つぐらいだったら自分から話しかければいいのに、なぜ、何を待つのだろう。待つぐらいだったら特に話す必要もないのではないか。待つ人生だったのだろうか。

観光地について

先日タクシーで移動していて、ドライバーから「このあたりは観光地なんですよ。お酒や和菓子だけでなくいろんな名産があって、見るところがあって、かつてはもっとたくさん観光客がきていたんですよ」と言われた。はあ、そうなのか、なるほどそういう見解もあるのかと思った。言われるまで気づかなかった。ここは実は観光地らしい。観光地とは、自ら紹介して誘致するものだったのだ。そしてこういう場所を観光地と呼ぶのだと。

僕はタクシードライバーではないから、他府県から来た人へ自分の故郷をそのように紹介することはない。しかし、紹介せずとも向こうが知っていた。言うまでもなく、地元は観光地だった。それが当たり前過ぎて「京都は観光地だ」などと言ったことはなかった。何が名産で、とか、どこに何があって、などと紹介することもない。むしろ来る人のほうが我々より知っていることのほうが多い。それらは観光客向けに紹介宣伝されているからか、多くの地元の人は知らなかったり、または当たり前だったり、もはや忌避していたりする。

京都人は観光客を風景の一部として見ている。そして観光地観光地と呼ばれるから、京都は観光地なんだなあと認識してきた。自ら喧伝せずとも地元は観光地であり、酒や和菓子で有名だった。だからこのあたりを観光地だと説くタクシードライバーに「出身はどちらで?」と聞かれて京都とは言えなかった。相手を嫌な気にさせるのではないかと思って。もう京都人ウザイ空気満載になってきたから話を逸らそう。

例えば、京都で意外と知られていないのは、優良企業がたくさんあることだったり、ラーメン激戦区だったりすることだ。任天堂以外にも京都の企業はある。しかし、そんなことを東京の人に言えば「へえ」と思われるだろう。優良企業がいっぱいあるって言われても、いやそりゃ確かにあるかもしれないけれど、東京とは比較にならないから…って。ラーメン激戦区の本場がどこか知らないが、福岡の人に「京都はラーメン激戦区なんです」なんて言ったところで「えっ…?」と思われるだろう。「はあ、そうなんですか」と返ってくればいいほうだ。だから京都の特徴として優良企業を挙げたり、ラーメンを挙げたりするのはなかなか無理がある。京都は所詮、観光地でしかないんだと。

ブログのタイトルにまで地元名を入れておいて、郷土愛満載なのかと思いきや、地元について触れることはあまり多くない。

#私のふるさと

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眠い

常に眠い。先日は例外的に2時台に寝たけれど、ここ一ヶ月は眠すぎて基本的に11時頃には就寝している。普段あんなにも寝れなくて困っていたのが嘘のようだ。理由としてはまず、朝早いというのがある。5時台に目覚め、6時台から活動。それ以前はだいたい10時頃まで寝ていた。睡眠時間はそれほど変化していないのかもしれない。ただし、会社員の頃やオーストラリアで農業に従事していた頃も朝は早かった。その頃も夜そんな簡単には寝付けなかった。だから、朝早いということだけが理由ではない。

次に、食事。ここ一ヶ月は一日三食用意され、規則的に食事をとっている。規則正しく健康的な生活を送っているということだろうか。それにしても眠い。午前中も午後もずっと眠い。食事はちょっと多すぎるぐらいで、一ヶ月で2kg太った。日々元気に活動している人たちはあまり睡眠を必要としていないのか、それともただ自分が眠すぎるだけなのか。この眠さはちょっと異常に感じる。夜2時に寝ようが11時に寝ようが等しく眠かった。

第三に、現在は週末しか酒を飲んでいない。これまでほぼ毎日飲酒生活を送っていた身としては、週に2回しか酒を飲まない生活というのがイレギュラーにあたる。その週末も、夜遅くまで飲んでいるわけではない。ここ数年朝まで飲むことはさすがになくなっていたとしても、2時3時まで飲むことはザラにあった。しかし現在は、10時には飲み終えて11時には寝ている。短すぎる。飲酒が減っているからといって日常生活が眠くなるなんてことはあるのか。関係ないだろうな。

夜は酒を飲まないと寝れなくて毎晩寝酒をしていたというのに、今のこの状態はいったいどういうことなのか。夜だけならまだしも、朝から一日中ずっと眠い。夜早く寝る生活を送っていると、一日の活動時間が著しく短くなった気がする。寝る時間が長いだけでなく、眠たい時間が長いことで、ただ眠いだけの時間をずっと過ごしているように感じる。本も読めなければ、映画も見れない。ラジオも聞いている間に寝てしまう。肉体の活動が終息を迎えようとしているのだろうか。

生活日誌

日常生活に制約があって、なんでもかんでも自由に書けないのが現実だ。不満というか、生活がだるいのは今に始まったことではなく、日記を書こうとすると毎日同じことしか書けないのが実際で、そろそろ爪切らんといかんなーと思う。今隣人のドアを閉める音がうるさすぎて、伝えても直らないから脳になんか異常があるんだなーと思ってあきらめている。こういうのは頭の良し悪しでもなく、彼を見ていると不憫でもあるから、軽く彼のことでも書こうか。

こういう人は今までにも何度か見てきた。声がでかく、「声でけーよ」と言ってもやはり直らない。直す必要があると思っているとか思っていないとかではなく、こいつの頭の中では「うるせえ」という言葉そのものが意味としてうまく接続していないと見える。言語のコマンドそのものが機能していない。なかなか生きるの大変だろうなー。それも自覚あるのかどうかわからない。もしかしたら本人は幸せかもしれない。

本人曰く、自分はストーカー気質だと言っていた。人からまともに相手されなくてそうなっているのかもしれない。一芸に秀でた人で、学力も高くいろいろな場で重宝される人のようだが、共同体では避けられがちだ。周りが彼をうまくフォローできなかったり扱えなかったりするからだろう。一言で言えばめんどくさい。話が長く一方的で、周りの反応を伺うという発想がない。生活において彼はノイズになりがちなので、周りの人はなるべく関わりたくないと思う。そのくせ本人は寂しいとか人恋しいとか言ってるからなかなか悲惨だ。

寂しいとか人恋しいってなんやねん。モテたいとかも言ってる。いわゆるチヤホヤされたい人なのだろう。そういう気持ちは全然理解できなくて、さらにはそういう感情と行動が矛盾していることも理解できない。筋道を立てて物事を考えられないのだろうか。不思議な事しかない。よく言う愛情の欠乏みたいなやつだろうか。事例としては確かにそういう人が多かったように思える。そうなってくると尚更負の連鎖だなあ。だって行動は明らかに他者の愛情を遠ざける方向に働いているから。

#思い出の家族旅行

日記を書こうにもテーマが全く思いつかず、久々にお題を利用してみようと思った。思い出の家族旅行。僕は自分の家族を持っていないから、幼少期の話になる。うちの母親は旅行が好きで、子供の頃はよく旅行に連れて行ってもらった。もっとも今となってはどこに行ったか全然覚えていない。

自分の記憶に残っているのは、小学校に入る前に行ったディズニーランド。このときに人生で初めて飛行機に乗った。その後こんなに何度も乗ることになるとは思っていなかった。当時からスターウォーズが好きで、スターツアーズに魅せられたのを覚えている。何年後かに同じ場所へ行ってみるとかなり陳腐な仕掛けだったが、幼少期の僕にはリアルなSF体験に感じられた。他に、スペースマウンテンがジェットコースターだと知らずに乗って、落ちそうになって泣いたことも覚えている。数年後は平気だった。マイケル・ジャクソンの3Dメガネをかける映画も怖かったが、数年後はやはり陳腐に見えた。ということは、僕は少なくともディズニーランドに2回行ってるのか。自分の記憶では幼少期に1回、大学生になってからシーに1回だと思っていたが、どうやら間にもう1回行っていたみたいだ。スプラッシュ・マウンテンの最前列に乗った記憶もある。ビッグサンダー・マウンテンにも何度か乗った。それらは2回目の記憶だ。1回目、すなわち小学校に入る前に行ったとき、スプラッシュ・マウンテンは建設中で、ビッグサンダー・マウンテンはいかにも怖そうで乗らなかった。

その他、家族旅行で覚えているのは断片的には海に行ったり、湖に行ったり、遊園地などいくつもあったが、沖縄に行ったのは長期で今までと全然違う場所だったこともあり、よく覚えている。初めて沖縄へ行ったのは小2ぐらいの頃だった。その後、やはり大学生の頃か高校生の頃にもう一度訪れている。初めて行ったとき、25年ぐらい前になるが、当時の沖縄はそこまでメジャーじゃなかった。沖縄と言ってもあまりピンとこない人が多かった。もっとも小2の同級生にはわからないだろうが。沖縄では本島と石垣島と竹富島を訪れた。離島はまさしくトロピカルアイランドで、植物、海の魚、森の動物など日本っぽくなかった。水牛の牛車に乗ったり、潜水艦に乗ったり、水辺で泳いでいると熱帯魚が群がってきたり、そういう体験をした。家の前に壁があり、屋根にシーサーがある風景は日本のそれとは思えなかった。当時から沖縄はリゾート地だったが、その後観光客が増え、開発が進み、僕らが行った頃の風景はもはや壊れているそうな。2回目に沖縄を訪れたときは秋だったか冬だったかで、海には行かなかった。本島の首里城やら、国際通りやらをぐるぐると回っていた。

#思い出の家族旅行

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