更新に間が空いてしまったけれど、最近の細々としたこと。
- コーヒーミルを買った
- レギュラーの銀行を変える
- 日村ファックの由来
- 完全ワイヤレスを買った
- スタンダードブックストア閉店
よく、「ネットがあれば無限に時間潰せる」と言う。確かにそのとおりだ。ネット上には無料で楽しめる優良コンテンツがあふれている。
しかし、その無限に時間を潰せるコンテンツの例として挙げられるのが、YouTubeだったりWikipediaだったりする。Youtubeは玉石混交どころか違法コンテンツも含めたゴミだらけで、優良コンテンツを見つけるのに一苦労する。見つけたと思えば消えたりする。Wikipediaは確かにハマれば読みふけってしまうけれど、おもしろい項目を見つけるのが大変であり、なおかつ一過性のものだ。継続的に楽しむのは難しい。
もっとあるぞ、わかりやすい優良コンテンツが。そういうわけで、僕が巡回している無料の優良コンテンツ、遵法性も高いと思われるものをまとめてみます。
つらいことが立て続けに重なって、なかなか打ちのめされている。何なんだろう一体。混乱してしまい、ものを考えることができない。非常に困っている。
薄々知っていたし、大したことではないんだけど、気分良くはない。その程度。
10年ぐらい前に誰かから誕生日プレゼントでもらった気がする。それが誰だったか忘れたけれど、PARKERのボールペンが壊れた。ひねっても芯が出ず、出すと収納できない。替芯までたくさん用意していたのに、なんでこのタイミングで壊れたんだろう。落としたことなんて今までに何度もあったはずなのに。ある意味替えがきかない。
中古のカメラだから、10年落ちになる。今まで何度も海外で使っていたのに、なぜかこのタイミングで壊れた。そのとき撮影係をやっていたため、途中から人のカメラを借りることになった。こっちに来てから数ヶ月の間にも、何度も充電していたが壊れるようなことはなかった。しかし、今はもうランプがつかない。充電器単体で売っているが2万円以上する。
先月末に送ってもらった荷物が届かない。もう一ヶ月になる。中にはバレンタインのチョコレートや、手紙、日本で購入したワイヤレスイヤフォンなどが入っている。今まで着かなかったことはないと聞いていたし、2週間で到着すると聞いていた。これまでに送ってもらったときはだいたいそんな感じだった。しかし、もはや一ヶ月経つ。あきらめるしかなさそうだ。
友人とは夏に旅行する約束をしていたが、それどころではなくなった。母親が倒れたらしい。予断を許さない状況だそうだ。回復を祈っている。
正確には身内ではないが、大変なことになった。誰の身にも起こりうる身近なことであり、深刻に受け止めている。自分も帰国することにした。
最後の2つに関しては、周辺の人たちが自分とは比較にならないぐらい落ち込んでおり、なんとか励ましたいと思っている。それにしても、なぜこんなに重なるかな。
「しょぼい起業」提唱者のえらいてんちょう(えらてん:@eraitencho )さん著、「しょぼい起業で生きていく」を読んだ。まず、おもしろかった。phaさんの「ニートの歩き方」、伊藤洋志さんの「ナリワイをつくる」や大原扁理さんの「年収90万円で東京ハッピーライフ」「20代で隠居」、鶴見済さんの「0円で生きる」の派生型、延長上と言える。この手のジャンルは何ていうのだろう?Bライフ系とでも言えばいいのか。特徴としては競争社会に疲れた人たちが、世間の主流である資本主義に完全に寄り添う形ではなく、少し距離をおいて、経済的な成功以外の喜びを第一に楽しく生きていく道を探そう、みたいなそういう本にあたる。
僕はこの手の夢が広がる本が好きで「自分にもできるんじゃないか!?」なんて期待を胸にいだき、ついつい買って読んでしまう。「ニートの歩き方」は疲れ切った現代に向けた、新しい価値観の提示を主としていた。そして特にネットを主戦場とされているだけあって、ネットを介した流通や他者との関わりのヒントを示している。「ナリワイをつくる」は逆に、ネットではなく地域コミュニティを介した人との関わりと、具体的な手作業に根ざした仕事を通した、競争・効率主義的ではない生活様式を提唱していた。大原扁理さんの著書はまだ読めていない。鶴見済さんの「0円で生きる」は東京においてお金をかけずやりくりするための具体的なマニュアル本だったように思う。
「しょぼい起業で生きていく」が提示する生き方は、これまでともまた少し違う。「しょぼい起業」と言いながらも軌道に乗った著者は、全国チェーン展開のようなことまでしている。これまでの「飽くまで貧しく楽しく暮らす」系からは一歩抜き出た感じもある。「しょぼい起業」とは簡単に言えば自営業だ。それもお店を開くというわかりやすい自営業。
暇が高じてソシャゲに手を出してしまった。その名もロマサガリユニバース。略称はなぜかRS。
ロマサガ1,2,3のキャラクターをひたすら戦わせるゲーム。サガフロンティアのキャラクターやアンリミテッドサガのキャラクター、オリジナルキャラクターもいる。往年のロマサガミュージックも再現しており、おっさんホイホイです。ストーリーモードもあるが、一週間ほどで終わってしまった。話自体は終わっていないため、今後まだまだアップデートされるのだろう。
自分としてはあまりこんなことを書きたくない。さんざん「恋愛興味ない」とかほざいておいてノロケかよ!みたいになるのは心苦しい。だからなるべく事務的に、淡々と記録を残しておきたい。これは彼女一人と、自分に向けて書いている。公開していることに意味はない。
自分の遠距離は途方もない遠距離で、1万キロ以上離れている。故に、この4ヶ月は一度も会っていない。今後もなかなか会えない。次に会えるのは夏頃だろう。付き合い始めたのは4ヶ月前で、実際に彼氏彼女として直接接したのは2日間のみ。それってもはや付き合っていると言えるのか?彼女と言えるのかというほどだ。知り合ってからは1年以上が経過している。付き合う前は友達だった。そういった経緯は以前にも書いたので、興味ある人がいれば参照してもらいたい。
さて、この4ヶ月がどんな感じかというと、自分でも拍子抜けするぐらいに順調だ。それが返って不安になるぐらい、何の問題もない。一度ももめたことがない。お互いに不満を抱いたことがない。むしろ日に日に関係は良くなっていっている。強いて言えば会えないことだけがきつい。これって自分にとってはかなり例外的なことだ。もともと人と関係を築くのは得意じゃない。恋愛関係となれば尚更だ。ましてや遠距離で、離れてから一度も会っていない。
どうやってそんな順調に関係を続け、なおかつ育んでいけているのか。そしてこれからも今の調子で続けていけるように、自戒の意味を込めて書き残しておく。誰かの参考にはあまりならないと思う。
1つ目は「HUB: HiFi Wireless Earbuds」これの特徴は、
自分が欲しい機能である長時間再生、防水、イヤフォンつけたまま会話する機能が全部ついている!見た目もそこそこ良い。まさに理想!
でもこれ、クラウドファンディングの商品なんだよな。見つけたのはInstagram上の広告から…。商品の発送はすでに行っており、マスプロダクトとして商品化が進んでいるという噂だけど、 まだ商品のレビューが一切ない。
冒険してみてもいいよって方はこちら!日本への発送も対象だよ!
もう一つは、「ARIA Waterproof Earbuds」これの特徴は、
バッテリー容量はそこそこで、サウンドパススルーもないが、完全防水!防塵もついている。
はい、こちらもクラウドファインディングです。こちらに関してはFacebookの広告上にも「去年の6月から待ってるが一向に届く気配がなく、キャンセルしようとしたら受け付けてもらえない」といった苦情が書き込まれている。商品の発送はしてるんでしょうか…。最近レビューが出始めているので、手に入れている人はいるみたいだが。
xFyro ARIA- The World's Most Advanced Wireless Waterproof Earbuds
人々の理想を形にするような商品を開発しているクラウドファインディング市場。この二つの商品を取り扱っているのはサンフランシスコを拠点とするIndiegogoというクラウドファインディング。アメリカではKickstarterと双璧をなすが、Kickstarterに比べ審査が緩いのが特徴らしく、プロジェクトの成功率も低いそうだ。よりリスキーと言えよう。
「こんな商品あるよ!」と人に紹介したら「冒険する意味がわからない」と言われた。意味が分かる人は買って感想を聞かせてください。もしくはもっといい商品があるって人はレビューしてください。
Explore Crowdfunding Campaigns & Unique Products | Indiegogo
もともと恋愛どうこうは苦手だった。興味がなかったとも言える。テラスハウスを見るようになったきっかけは以前に書いたが、恋愛のことがメインではなかった。
恋愛模様を探るために見ていたわけではないテラスハウスだったが、該当の人物が出ていってからも惰性で見続けていると、やはりテラスハウス的恋愛への違和感が膨れ上がった。テラスハウス的恋愛とは、同じ家に様々な住民が入れ代わり立ち代わり暮らし、その中で恋愛相手を取っ替え引っ替えするというものだ。番組の趣旨そのものは恋愛模様をお届けすることなんだろうけど、実際はそれ以外にも人間関係や職業や生活における様々な喜び、葛藤などを描くことで、端的に言えば人生を映し出すことで番組に深みを出そうとしていた。だから他人の恋愛に興味津々ではない僕にも、この番組に見どころはあった。
しかし、やはりその恋愛模様についてはどうしても違和感が残る。こういうのって、どうなの?という気持ち。こういうの、とは、つまり入れ代わり立ち代わりしていく住民たちが、恋愛対象を取っ替え引っ替えしていくことだ。僕自身はそういう恋愛を節操がないと思う。あまり健全とは思えない。かといって自分が全くそういうことをしないのかと言えば、あながちそうとも言い切れないから、なんとも言えない嫌な気分になる。
番組を見たことがない人でも、番組の趣旨でどういう様相を呈しているか想像がつくだろう。テラスハウスには男3人女3人がひとつ屋根の下で暮らす。住民を仮に男性ABC、女性ABCとしよう。男性Aと女性Aがお互い惹かれ合うか否かという検証を経て、男性Aは女性Aを否と判断し、次の検証対象を女性Bとする。女性Aは居づらくなって出ていき、また別の女性Aと入れ替わる。男性Aは女性Bにアプローチをするが、女性Bは男性Cが気になっており、男性Aの好意を退ける。わかりにくいな。
男性A ⇄ 女性A ☓ →女性A交換
男性A → 女性B ☓
男性C ← 女性B ?
住民の入れ替わりこそあるものの、身近な人間同士で恋愛対象の吟味し、取っ替え引っ替えすることが短期的に繰り返されている。僕が違和感を持つのは、その恋愛対象を取っ替え引っ替えするという部分だ。他人に対する好意や愛情は、そんなに軽々しく芽生えたり失ったりするものなのだろうか?その軽々しさ、薄っぺらさが僕にはわからない。それってつまり、究極は「誰でもいい」という事になりはしないだろうか。その前提として「条件さえ合えば」ということにはなるが、相手そのものはそんなに重要ではないのだろうか?相手という個人、人間は。
お見合いサイトやマッチングアプリとの違いは、きっかけを作る手段でしかない。婚活や結婚に関して、僕はどういうものか理解していないためなんとも言えないからお見合いサイトはともかく、マッチングアプリは多分彼氏彼女を作るために用いられるのだろう。単に性交渉の相手を探すだけならわかりやすい。その点について僕は疑問を持っていない。しかし、恋愛には関心がないため、短期的に繰り返し恋愛対象を検証するという行為がよくわからない。それはマッチングアプリ上でもテラスハウスでも言える。
マッチングアプリやテラスハウスがきっかけだとしても、相手を選ぶにあたっては諸条件だけでなく、相手の人間性や人格を大事にするというのは当然だろう。問題はその次。失敗したらまた別の人に行く。「あれ、大事にしていた相手の人間性や人格はどこいった?」となる。それが短い期間で繰り返されればされるほど対象個人に対する重みや意味合いはどんどん薄れていき「そんなに誰でもいいのか?」と思ってしまう。
一人一人の人間は、人格はそんなに重要でないのだろうか?取っ替え引っ替えするということは、対象の人格、人間性を蔑ろにする行為に当たらないだろうか?そんなことを言っていたら生涯一人しか出会わない運命の相手としか恋愛できない。そう思うかもしれない。僕自身は恋愛したいなどとは思わないからそれでいいと思う。人間一人一人を、その人格を大切にしたい。本当は。もしくは全員を切らずに蔑ろにせずに大切にするというのでもいいと思う。
トゥルーワイヤレスを調べていても、いろんな機種がありすぎて選べない。何を基準に選べばいいのか、使ってみないと判断しづらい。それでも一応自分なりに、選ぶ基準を考えてみた。
先日ラジオから聞こえてきた女性の声が「私たちの世代は渋谷でCANDY GIRL踊ってたんだよ」と言っていた。そんな言葉だった気がする。気のせいかもしれない。CANDY GIRLとは小室哲哉作曲、hitomiという女性歌手が歌い、作詞もしていた曲だ。発表されたのは1995年。
この曲は当時大ヒットを飛ばしたというほどではないが(オリコン15位)、時代のアイコンのような曲だった。僕自身は特別好きだった曲というわけではなく、特に思い入れがある曲でもない。1995年当時、僕はまだ小学生だった頃に、この曲が街で流れていたことを覚えている。hitomiが歌っている姿をテレビで見たことも覚えている。プロデューサーの小室哲哉は当時、一世を風靡していた。trfや安室奈美恵など、小室哲哉プロデュースのグループやシンガーは小室ファミリーと呼ばれ、日本の音楽シーンを文字通り席巻していた。
当時hitomiは18歳だか19歳だったと思う。CANDY GIRLの詞を書いたのは17歳の頃だそうだ。小室哲哉はhitomiを「森高千里と尾崎豊をミックスして2で割った感じ」と評していた。さて、その歌詞とは、曲はどんなものか。小室サウンドがもっとも輝いてる曲の一つとも言われる、hitomiの「CANDY GIRL」お聞きください。
音はともかく、歌詞はパッと聞いただけであまり意味がわからない。この曲は、音だけでなくその歌詞も雰囲気も含め、1995年という世相をよく表していると言われている。
1995年がどういう年だったか。まずはWikipediaで見てみよう。
太平洋戦争終戦から50年。まず、年初に阪神淡路大震災があった。春には地下鉄サリン事件があった。歌手のテレサ・テンが亡くなり、ドラゴンボールの連載が終了し、Windows95が発売された。フランスは核実験を行った。前年までルワンダ内戦があり、ボスニア紛争は続いていた。流行った映画は「マディソン郡の橋」「トイ・ストーリー」「セブン」。セガサターンとプレイステーションが発売された。K-1グランプリが流行っていた。
1995年のオリコンシングルTop1位はドリームズカムトゥルーの「LOVE LOVE LOVE」、2位が小室哲哉と浜田雅功の「WOW WAR TONIGHT」。CANDY GIRLは年間チャートの50位以内にも入っていない。それでも時代を象徴する曲だと言われており、その感じはやはり、曲を聞けば納得する。ミュージックビデオを見れば実感する。歌詞からもなんとなくにじみ出ているような気がする。当時を生きた人にしかわからないかもしれない。なんだったら、もう一度聞いてみよう。
思うところありましたでしょうか。それでは再び、1995年とはどういう年だったのか。
1995年、世の中は滅びの様相を呈していた。有効求人倍率1以下の就職氷河期に入ったばかり。超円高で、円が 1ドル=79.75円を記録した。女子高生が肌を焼き、制服にミニスカート、ルーズソックスといういでたちでコギャルと呼ばれた。援助交際という名で売春が行われた。世の中には厭世観が漂っていたんじゃないだろうか。
しかし同時にこの曲である。CANDY GIRLは厭世的とは程遠い歌詞とメロディー。世の中の暗さなんて他人事と言わんばかりの、若い女性の鋭角なエネルギーが踊っている。呼びかけているようであり、時代を満喫しているようであり、不満を投げかけているようでもある。
私は世界中でたった一人前向きだよ もっと楽に生きていきたい
17歳。自分はなんでもできると感じる。同時に、世の中のことは右も左もわからない。街はきらびやかで、退屈で、華やかで、薄汚れていて、気分次第でどうにでもなり、自分次第でどちらにも転ぶ。舞台がある、チャンスがある、自信もある、でも自分と世の中をどう結びつけていいのかわからない。だから、
Do you want Do what you want CANDY GIRL! さあ声かけてね
都会的な若い人の心理って、今も昔も変わらないと思うんだけど、生まれた時代そのものは全然違う。この歌は決して1995年を励ます歌ではなく、そんな世の中の空気を感じながらも、自分なりのエネルギーと可能性を全面に街に出かけていく東京の女子を彷彿とさせるような感じがする。時代に対する当時の若い人の反応を乗せているような、そんな歌。
hitomi推しとかでは全くないんだが、hitomiももう40オーバーだ。若い頃よりも小室フィーバーが終わった後の2000年代に活躍し、その後最近の活動は全然知らないが、今でも十分に輝いているのだろう。しかし、CANDY GIRLだったあの頃のhitomiとあの時代は、今思い返しても格別にマッチしていた。なつかしい…ただあの頃がなつかしい。
このジャケットも格別に良い
この曲はSUNNYっていう映画にも出てくる。見てないんだけど見たい。
当時僕は何をしていたか。小学生だったんで、音楽とか聞いていた。J-POPは盛り上がっていた。中学受験のために勉強とかしていた。世の中の暗いムードなどはあまり感じていなかった。というか、それが当たり前だと思っていた。景気のことなんてまだ何も知らなかった。失われた20年も始まって5年、世は終末ムードとお祭り騒ぎが同列に進んでいた。今はそういったお祭りの元気すらなくなり、いよいよどうにもならない雰囲気が漂っている。
アトロクでワイヤレスイヤフォン特集を聞いて以来、少し調べている。知識ゼロからのスタート。eイヤホンが配信している初心者向け動画みたいなのを見たが、これがやっとわかるようになった程度。この内容は全くの初心者には難しかった。
アトロクでBluetoothのワイヤレスイヤフォン特集をしていた。中野ブロードウェイのオーディオショップ「フジヤエービック」の根本圭さんを迎えてとのことだ。
アフター6ジャンクション カルチャートーク:根本圭さん(ワイヤレスイヤホンの最新事情) https://t.co/BCqqoLdcnO #ラジオクラウド #TBSラジオhttps://t.co/BCqqoLdcnO
— 川添 (@KAWAZOI) 2019年1月12日
冒頭でパーソナリティのライムスター宇多丸も山本アナウンサーも同じBOSEのSoundSportを使用していると話していたが、今回ここで紹介されたのはそんな有名機種ではなかった。
ラジオを聞いていてそれらの商品の見た目も含め、詳細が知りたくなったから調べてみた。
1月に入り手帳買い替えシーズンは既に終わっている。そんなあなたに!まだ買えていないというあなたに!僕は紙の手帳というのをずっとやめていたんだけど、去年からトラベラーズノートを使い始めた。これは手帳ではない。ただのノートだ。最近アトロクでも言われていたが、スケジューリングなど具体的な予定管理はGoogleカレンダーのほうが楽だ。曖昧模糊としたアイデアや予定は紙の手帳に記入するほうがまだ使いやすいそうだ。
今、新潮文庫の村上春樹「雑文集」を読んでいる。つねづね思ってきたことだけど、村上春樹の文章は読みやすい。非常に読みやすい。なぜこんなにも読みやすいのだろう?村上春樹の文章は、食べ物で例えるとうどんだろうか。味が濃すぎるわけでも飲み込みづらいわけでもない。体調が悪いときだってツルッと完食できる。ダシがきいていて体に優しい。いつなんどき食べても喉を通る。村上春樹のエッセイは、小説よりもさらにその傾向が強い。精神的に余裕がないとき、難しい本とか映画とか摂取する気力がないときでも、村上春樹のエッセイなら気軽に手を出せる。咀嚼して、抵抗なく飲み込むことができる。これが他の本だとなかなかそうはいかない。ドストエフスキーなんて1ページももたず投げ出してしまう。ヘヘッ!!(フョードル・カラマーゾフ風)
その違いはなんだろうか。ドストエフスキーは翻訳だから、元の言語から変換されている分不自然な言葉遣いになっているということはあるだろう。時代背景も違う。文化的差異もある。そいうのを差し引いても、村上春樹の文章は読みやすい。同じ年代の日本語作家と比べたって読みやすいはずだ。おそらく。言葉遣いなのだろうか?村上春樹はときどき全然知らない言葉を使うから、簡単な言葉ばかり使っているということでもない。文章量だろうか?村上春樹は決して文章が短く簡潔というわけではない。長編に至っては上下巻あることも珍しくない。しかし、それでも物語がするすると前に進んでいく。長さを感じさせない。1Q84はさすがに長かったが。村上春樹の文章は軽快である。軽いのだ。粘着性がない。重みを感じない。大変なことを語っていても、下手すれば素通りする。しかしその軽さが、さくさく読み進めることができる理由だろう。
村上春樹は難しい言葉を使うこともあるけれど、文章そのものは平坦で引っかかりが少ない。飲み込みやすいとは、引っかかりが少なくすんなり飲み込んで消化できることを意味する。それが栄養分として吸収できるかどうかはともかく。村上春樹の文章に引っかかりが少ないのは、悪い言い方をすればまわりくどいからだろうか。いい言い方をすれば丁寧なのかもしれない。あたりを広く見渡して、情景をしっかりと描写する。それが回りくどいと感じる人だっているんじゃないか。しかしそんなものはサラッと読み進めることができ、わかりやすい情景だけが頭に残る。だから文章量が多くとも長くは感じない。読むことに体力を使わないのだ。
今読んでいる村上春樹の「雑文集」は、死んだ作家であれば書簡集になるような、人の本のあとがきだったりそういうものを集めた本だ。こんな本をわざわざ買うのは村上春樹ファンぐらいだろうか。そうでもない。どんなときだってお腹に優しい文章としてすんなり飲み込める村上春樹の本は、さながら病院食、おかゆのようである。旅行が好きでなくても旅物エッセイを読めばおもしろいだろう。「雨天炎天」とか。小説は好き嫌いがあると思う。「ノルウェイの森」とか。ファンだったらやっぱり「村上さんのところ」あたりも押さえているのか。僕が感想を書いている小説以外の村上春樹は、対談集は「翻訳夜話2 サリンジャー戦記」ぐらい。
本題の、「村上春樹の文章はなぜこんなに読みやすいのか」答えがある人は教えてください。