ヤリチンとは、女性の願望を最適化した存在なのか

この辺のやりとりを見ていて思ったこと。

女性の願望を満たすことに最適化した男性は、ヤリチンであるという法則。これについてよっぴー氏は、ヤリチンのパラドックスと呼んでいるそうだ。何がどうパラドックスなのかというと、

女性は気の利く男性を求める

気の利く男性(ヤリチン)現る

女性は惚れて、遊ばれる

男性(ヤリチン)は浮気する

女性は傷つく

というフローのこと。つまり、女性は気の利く男性(ヤリチン)を求めるからこそ、遊ばれる。初めから気の利く男性(ヤリチン)なんて求めなければ、遊ばれることも傷つくことはないのに、それでも気の利く男性(ヤリチン)を求めるなんて、どうかしてるんじゃないか?ということだろう。ちなみに気の利く男性とは、例えば

「車道側を歩く」「入口のドアを開ける」「お会計はトイレに行ってる間に済ませる」「雰囲気の良いレストランに詳しい」「褒め上手、聞き上手」みたいな事

これをスムースに出来る人間らしい。

よっぴー氏のヤリチンパラドックスについて、ツイッター上でおそらく女性と思われる方が「女性は別にヤリチンを嫌っていない」と発言していた。相手がヤリチンであろうと気にしない人、傷つかない人は、男性にスマートさを求め続けてもパラドックスは生じない。例えば互いの浮気を認め合う関係とか、そもそも付き合っていない遊ぶだけの関係だと、スマートに気の利くヤリチンの良さを全面に享受できる。僕はそういう関係が理想だと思うし、どちらか一方だけが肩入れするのは不健全に感じるため、避ける傾向にある。お互いが遊びであれば、浮気にもならないし傷つくこともない。

例えば、女性の願望を最適化したヤリチンは、女性たちの共有財産だとみなせばよくないだろうか。彼が誰と関係を持とうとお構いなしで、自分の方を向いてくれるときだけうまくエスコートしてくれれば、それでお咎めなしだったらダメなのか?ヤリチンとは本質的にそういう存在だと思う。愛も優しさも持たない、対価を与えて願望を満たしてくれだけのロボットのような存在。

よっぴー氏は、「そういう小手先の優しさだけで人を判断するよりもっと本質的な優しさに目を向けたほうがお互い幸せなんじゃない?」と言っている。ヤリチンの行動というのは、女性の願望を最適化しただけの行動であって、優しさでもなんでもない。モテるための技術だ。それを優しさだと勘違いして股開いて相手がヤリチンであることに傷つくのはバカなんじゃないの?と言いたいのだろうか。

確かに身の回りで、自称「恋愛に失敗した人(女性)」の話を聞くと、そもそも恋愛にまで発展していないことが多い。ただ一方的にヤリチンを好きになり、股開いて遊ばれて、付き合ってもいないのに相手が浮気していた(遊んでいた)ことがわかり、傷ついているだけ。そういう事例を何度か聞いた。こういう人が男性に求めるのは、決まってスマートさみたいなやつだ。恋愛工学の教科書みたいなやつ。

僕が話を聞いた人は、女子校育ちだとか恋愛をろくにしたことがないとか、男女関係に不慣れな人が多かった。もしかすると一部の女性はこういうヤリチンパラドックスを乗り越えて成長していくのかもしれない。その渦中にあるか、もしくは乗り越えられなかった人がいるのか。ヤリチンに引っかからない人は、初めからこういう「手慣れた男性の危うさ」みたいな構造が見えている。

ここ最近で何度か、ポリアモリーなる便利なごまかし用語を聞いた。本当にそういう人がいるのかもしれないが、知り合いの話を聞いたときには笑った。

「私の彼氏はポリアモリーなんだって。私はそれを受け入れてるの。彼に他の彼女がいてもしかたがないの」

みたいなことを言われた。それ、ヤリチンに上手いこと誤魔化されているだけですよ!ヤリチンはあなたのこと彼女だと思っていないし、都合のいい女、性欲解消の道具ぐらいにしか思っていないし、あなたに対して優しさも愛情も皆無ですよ!ただ女性の願望に最適化しているから、あなたは彼の行動を「優しい」とか「愛されている」とか思っているかもしれないですけどね!

相手は完全に開き直っているだけなんだけど、「ポリアモリー」という如何にもそれっぽい単語を出されただけで、女性はわけもわからずに納得してしまっている。というかむしろ、それを認めて受け入れられる自分は進んでいるとまで思っている。男性からすればこんなに都合のいい言葉はない。

これはまあ、なんだろうな。無自覚なら滑稽というかなんというか、男女逆の場合はぶりっ子な女性ということになるのかな?思わせぶりな女性?「キャバ嬢が自分に惚れていると勘違いする男性」と同じです。対価が金か身体かの違いだけ。

僕はそういうのすごい苦手で、相手もわかるからか、そもそも対象外なのか、僕に対してぶりっ子が発動されることはこれまでになかった。僕自身は対等に話せる人、頭の回転が速い人が好きだから、自分をチヤホヤしてくる相手には全く関心を持てない。ざっくばらんにガンガン議論できる人がいい。自分に新しい世界と発見をもたらしてくれる人が好きです。キャバクラとかは会社の付き合いで数えるほどしか行ったことがないけれど、女の子を接待している気分になる。

思えば男女関係に限らず、人間は気が利く相手を求めがちかもしれない。そして気が利く相手ほど「自分のことを考えてくれている」「優しい」「愛を感じる」と勘違いする。本当は機械的に最適化しているだけなのに。僕は気が利く人を、どちらかというと受け入れない傾向がある。愛想がいい人もそうだけど、裏になにか目的があることが露骨すぎて、気分よく付き合えない。そんな回りくどいことをせず、はっきりと言い合える関係のほうがいい。

自分に取り入ってくる人に対して、「お、こいつは気が利くな」「お、こいつは話がわかるな」などと言ってお目掛けしようなんて、気持ち悪いじゃないですか。どこの腹黒大名だよ。信長と秀吉の有名なエピソードで、ホントかどうか知らないけれど冬に草履を懐で温めていたというのがある。あれは秀吉が自ら「親方様、寒いだろうと思って懐で温めてきました」と言わないのがポイントで、「おまえ穿いてきただろ!」と信長が秀吉にキレて、「いいえ、懐で温めてきました」と反論するから美談として語られる。信長もそんなことでキレんなよと思うが、この話は現代でも日本的おもてなしの手本みたいになっている。自らアピールしないけれど、ちゃんと相手が気づく気遣いをする。

僕が信長だったら「いや、そういうのいいから、ちゃんと現場で手柄立ててね」と言うだろう。

とにかく、「ヤリチンに遊ばれた」といって落ち込んでいる女性は、ヤリチンをディズニーランドか何かだと割り切ったほうがいいです。そして遊ばれる相手ではなく対等なパートナーを求めるなら、現実の男性とまともな付き合いを学んだほうがいいんじゃないか。チヤホヤしてくれる関係ではなく。

人は第一印象が大事だと言います

僕は第一印象がとにかく悪いようだ。そのときは自分で気づかないため、後から人に言われると結構驚く。そんなに印象悪かったのか、と。第一印象とはなんだろうか。多分、顔とか声とか、服装とか、態度なんだろう。確かにそのあたりはどれも自信がない。人から「いい人そう」とか「優しそう」と言われたことはない。まあでも考えてみれば、普段から良い印象を持たれるように心がけていなかった。それどころかむしろ、逆を行っているところがあった。意識的にか、無意識にか、両方か。

逆とはつまり、第一印象を悪く見せているところがあったかもしれないということになる。振り返ってみれば。人から「いい人そう」「優しそう」と思われないように、顔つきとか服装とか態度を雑にしていたところがあるかもしれない。何故そんなことをするのか。それは悪ぶっているとかカッコつけているとかではない。人との関わりを避けるためだった。僕は一人でいたい。だから、「なるべく関わりたくない…」と思われるように、第一印象を下げる。話しかけられたり、何かを頼まれたり、お願いされたり、好かれたり、助けられたり、そういう面倒事を避けるために僕はずっと悪い第一印象を与え続けていたのかもしれない

ときどきはそれを意識的にやっているけれど、あまりにも染み付いてしまい普段から出てしまっているのだろう。そのせいで、何も考えないで人と接しているときでさえ、悪い印象を与えてしまっている。そして自分が認識していないところで、不特定多数からよくない印象を持たれている、という結果に至っている。それはいいことなのだろうか、悪いことなのだろうか、どうなのだろう。あまり困ったことはない。僕自身はやはり、どうでもいい人から好かれる方が困るため、好かれないのは都合がいい。

ただ、それでもさすがに、必要だと感じるときや、好かれたい相手に対しては第一印象を取り繕うことがある。特に仕事のときなどはそう。サラリーマンをやっていたときなど、めっちゃいい印象を持たれることもあった。だから全く愛想よくできないわけではない。でも普段は必要ないと思うからやらない。必要なときに必要な結果を得られたら十分だろう。

それでは僕自身が、第一印象がいい人のことをどう思うか。それは普通。話しかけやすい人は話しかけやすいし、頼み事をしやすい。第一印象がよければ当然だ。ただ、別にいい人だとは思わない。第一印象なんて薄っぺらい表層に過ぎないから、見える範囲以上のことを憶測で判断したりはしない。だから僕自身は、人の第一印象なんて全然気にしていないと言える。

第一印象なんて、それ以上のことは全く語っていない。だからそれで人間性を判断したりするのは、本当にやめたほうがいいと思う。多分間違っていることのほうが多いから、根拠のない結びつきを信じるのはよそう。そもそも人を見るときは、それぞれ個別の対象として見たほうがいいと思う。全く別の人の事例を持ってきて当てはめて判断しても、信憑性薄いと思う。

だから僕のことを第一印象で判断するのは、それはそんなに間違っていないと思う。

ベスト・キッド2とは何だったのか

Netflixでコブラ会を見ていて、ベストキッドネタが結構頻繁に出てくるため、ベストキッドを見返した。今ベストキッドを見返してみると、ダイジェストのようだなーと思った。あれよあれよと展開が進み、あっという間に終わってしまった。ベストキッドは1〜3まで全部子供の頃に見たことがあって、覚えているシーンもいくつかあったんだけど、1を見返しただけでは不十分だった。コブラ会の回想シーンにもベストキッド1以降が出てくる。これは全部見ないといけないんだなーと思い、次に2も見ることにした。

ベストキッド2は外伝的な話で、ミヤギさんの父親が危篤になったから沖縄へ帰る話だった。アメリカの映画なのに沖縄が舞台なのだ。80年代の映画だから沖縄返還後ではあるけれど、まだ観光開発などがあまり進んでいなかった時代だと思う。ベストキッド2は、メジャーなベストキッドシリーズの皮を被った、カルト的な作品だと思う。けっこう意味がわからなかった。物語は一応1の最後から始まる。トーナメント大会が終わった直後から。

夏休みに入るか何かで、ダニエルさんはミヤギさんの家に泊まろうとしていた。しかしミヤギさんの父親が危篤という知らせが来て、急遽ミヤギさんは故郷の沖縄へ帰ることになった。ダニエルさんはミヤギさんの帰郷に突如加わることになる。いつの間にパスポートを取ったのだろう。

ベストキッド2の沖縄はいったいどこで撮影したのだろう?どう見てもセットではないが、全然沖縄っぽくない。日本っぽくもなければアメリカっぽくもない。日本語が上手い人は一人も出てこない。アジア人もみんな片言の日本語を喋っている。検索してみると、ロケ地はフィリピンやアメリカ国内だそうだ。那覇のシーンはリトルトーキョーで撮ったとか。

ベストキッド2の沖縄は、当時のアメリカが抱いていた日本像を具現化したファンタジーの世界なのだろう。すごくリアリティがない。こっちは何を見せられているんだという気分になるが、おそらくアメリカ人にとっては自然に受け入れらる日本像なのだろう。そこにベストキッドのミヤギさんとダニエルさんが入っていって、ひと悶着起こすのだ。

ミヤギさんは、兄弟弟子だった佐藤という男性から逃げるように渡米してきた。理由はミヤギさんが佐藤と結婚するはずだった女性を奪ったからだった。父親は死ぬ前にミヤギさんと佐藤の間を取り持とうとするが、あっけなく逝ってしまう。そしてミヤギさんは佐藤から執拗に嫌がらせを受ける。その嫌がらせが非常に地味で、最初は送迎のフリをしてミヤギさんとダニエルさんを車に乗せ、全然知らないところで下ろして行ってしまうというものだった。他に畑を荒らすとか。その嫌がらせ描写が延々と続く。

同時に、ダニエルさんは現地人のクミコという女性と仲良くなる。デートに行ったりダンスパーティーに行ったりする。それを佐藤の甥という一番弟子の男から毎回邪魔される。このくだりを延々と見せられる。本当によくわからない。ベストキッド1もそうだったけれどダニエルさんのデートシーンが多くて、その時間は本当に興味がわかない。誰に需要があるのだろう。

ここからネタバレになるが、沖縄に台風が来て、倒壊した家に佐藤が取り残される。佐藤は死んだと思って甥は逃げてくるが、ミヤギさんとダニエルさんは佐藤を助けに行き、なんとミヤギさんと佐藤は和解する。この映画の主旨がミヤギさんと佐藤の対立だったのに、和解してしまったのだ。何なんだこの映画は。それでもまだ取り残された子供がいて、ダニエルさんが助けに行く。佐藤は甥に助けに行けと言うが甥は断る。そこで佐藤は甥を破門にする。

最後に、遺跡のようなところで見たこともない盆踊りが始まる。和解した佐藤とミヤギさんも参加する。クミコはその舞台で日本舞踊を踊る。そこに佐藤の甥が現れ、ダニエルさんに恥をかかされたと言って勝負を挑んでくる。ここでダニエルさんと甥の勝負が始まる。これが佐藤とミヤギさんの勝負の代わりで、和解する前の佐藤と同じ理由で勝負を挑んでくる。どう見ても茶番だ。この勝負は、ベストキッド1のときと同様に通常の格闘シーンが行われる。

しかしこの格闘のラストがとんでもない。なんなんだこのラスト。わけがわからない。狂ってるとさえ言える。このラストが気になる人は、どうぞ本編を見てみてください。

ベスト・キッド2 - Netflix

GoToトラベルで温泉へ行ってきた

先日GoToトラベルを利用して、九州まで温泉につかりに行ってきました。海外旅行は当分できない。国内もタイミングを見計らっていた。今ならなんとか旅行できそうな気がして。温泉だったらいつでも行きたい。なんならドーミーインでもいいとまで言っていたが、せっかくなのでGo Toキャンペーンを使って遠出することにした。

行き先として選んだのは湯布院。行ったことないし、どんなところか知らないけれど、行った人の話はよく耳にする。知名度があってなんとなく良さそうだから、一度ぐらい行っておいてもいいだろうと思い選んだ。行って帰ってきた感想としては、総合的に良かった。満足している。ただそれだけではなく、今このタイミングで行くことによって、いろいろな発見もあった。大したことではないが、一応紹介しておきたい。

  • 湯布院行きのバスがない!
  • 閑散としている!
  • 飯を食うところがない!
  • そんなこんなで
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時計話

ときどき「Apple Watchはもたないの?」と聞かれる。Apple Watchは今のところ買おうと思ったことがない。「Apple Watchで便利なことは何?」と訊くと、だいたいSuicaが使いやすいとか、QUICPayが使いやすいとか言われる。他にはSNSの通知と内容確認が楽だとか。そのあたり、僕はあまり使わない機能であって、Apple Watchの旨味を感じにくいんじゃないかと思う。

僕は徒歩か自転車移動がメインで、バスにはときどき乗るけれど電車はあまり乗らない。日常生活においてSuicaを使う機会は限られている。支払いは確かに楽かもしれないが、アップルのウォレットを使ったことがなくて、あまりよくわからない。6SなのでNFCはApple Pay以外対応していない。SNSの通知は基本的にオフにしているためウォッチで受け取るものがない。

iPhoneを新しくしたとして、Apple Watchの旨味はあるだろうか?Apple Watchでできることを確認してみる。

  • 運動の測定
  • AirPods Proとの連携

このあたりは便利かもしれない。運動はしていないが、するなら遊びがいありそう。ジム勢やランニング勢には重宝しそう。AirPods Proを手元で操作できるのは楽だ。再生、停止、曲送り、外音取り込みモードなどはイヤフォンで直接操作できるけれど、音量の調整や聞く内容を選ぶのはiPhoneを取り出さないとできない。これらの操作までApple Watchでできるのだったらけっこう楽だ。

スマートウォッチはともかく、腕時計をしていたタイミングがあった。旅行中だ。旅行中はバスの時間や電車の時間、飛行機の時間を頻繁に確認しなければいけない。その都度iPhoneをポケットから出してられないから、腕時計をしていた。自転車に乗って職場へ向かうときも腕時計をしていた。サラリーマンのときは最初だけ腕時計をしていたが、そのうちしなくなった。父親からもらった時計が寿命で動かなくなり、修理屋に持っていっても古すぎて部品がないと言われ、直らなかった。それでスーツ用の時計がなくなった。

外では結局iPhoneで時間を見ている。街中には意外と時計がない。バスの時刻表を見るときに時計を見ることが一番多いだろう。自宅ではダイニングの時計をなんとなしに見る。朝でも夜でも時間を確認している。割とタイムスケジュールに沿って動いている。9時に起きて朝食の準備をして、10時45分には家を出て、夜7時に帰ってきて、11時に猫に餌をあげて風呂を沸かして、1時〜2時の間に寝ている。

時計を見ずに暮らすことができたら理想だ。だいたいでなんとかなれば、それに越したことはない。時間という概念に縛られずに生きたいものです。一人暮らしで、仕事も何もせず過ごしていた時期はそんな感じだった。寝る時間も起きる時間もバラバラ。お腹が空いたら食事をして、気が向いたら出かけたり、引きこもったり、人と会って話して酒飲んだり、至福の時間でした。

「あしたから出版社」を読んだ

ひとり出版社である夏葉社を作った島田潤一郎さんの、「あしたから出版社」を読み終えた。こう言うと不謹慎かもしれないけれど、とても羨ましい話だと思った。恵まれている人だな、と。著者の島田さんは、兄弟のように仲が良かったいとこを亡くした悲しみ、なにより息子を亡くした叔父叔母の悲しみの支えとなるような本を作りたいと思い、出版社を立ち上げた。きっかけになったいとこの死や、後輩の死など、つらく悲しいできごとがあった。それを軽んじるつもりはまったくない。それでも著者はいろいろ恵まれていると感じた。それはこの本を読んでいてすごく印象的な部分だった。

島田さんは31歳のとき、出版社を立ち上げるために父親から200万円借りた。後に母親から200万円借りている。うちの家ではありえない。実家が太いということがまず恵まれている。東京在住で、出版社を立ち上げてからも実家暮らしが続く。それを咎める親でもない。むしろ応援してくれている。そして出版社を立ち上げたばかりの島田さんに、編集者の先輩が仕事を回してくれる。初心者の島田さんに、一から仕事を教えてくれる。こんなにいい先輩がいるのだろうか。島田さんの周りには、すごく良くしてくる人たちがいる。両親や叔父叔母、いとこや先輩後輩と、こんなにも良い関係を築けている。それはただ羨むことではなく、島田さんの人徳なのだと思う。

文章からも島田さんの人柄がよくわかる。多分、ちょっと不器用なんだろうな、とか、真っ直ぐな人なんだろうな、とか、ひたむきなんだろうな、周りのことを見るのは苦手だろうなという、島田さんその人の人物像が文章によく現れている。この人が本屋の店員さんや、先輩や、いろんな人に好かれ、助けてもらえるというのもよくわかる。それだけのことを周りに与え、人との縁を引っ張ってくる、掴む力があるように思う。この本では「自分だとこうはならない」と思うようなことがたくさん起こる。それはただ島田さんの運が良かっただけではなく、本人の魅力だということが伝わってくる。やはり羨ましい。

島田さんは出版社を始めるにあたり、「ぼくには、つまり、本しかなかったのだ」と書いている。これも実に羨ましい話だ。島田さんは幼少期から文学漬けだったわけではないが、名前の潤一郎は谷崎潤一郎にちなんで名付けられ、子供の頃から本屋通いが日課になっており、挫折はしたが大学生の頃から27歳まで作家を志していた。「ぼくには本しかない」と言えるほどまでに熱を入れ、本と関わってきた。取り組めることがあった。それだけでも十分に羨ましい。情熱を傾けてきたこと、自信を持って「これしかない」と言えるもの、僕にはそんなもの何一つない。何もかも、気持ちでさえ中途半端だ。

島田さんがそれだけ情熱を捧げて作った本は、ぜひ読みたくなる。所有したいと思う。このために人生をかけ、出版社まで立ち上げた「さよならのあとで」を買った。挿絵一つ一つと、言葉の一つ一つを大切にしたいと思う。この「あしたから出版社」は「さよならのあとで」ができるまでを書いた本だと言っていいぐらい、第一章では重きを置かれていた。第二章は、急に失速した感じがした。時系列に話が進んでいく第一章とは違い、第二章は別々のエピソードを集めたエッセイ集のような作りだった。熱く流れるように進む第一章をおもしろく読んでいたから、第二章には最初面食らった。読んでいくうちに、これはこれでいいのだろうと思えてきた。そして最後に、「さよならのあとで」の話を回収してくれたからよかった。

「あしたから出版社」は生き方指南書ではない。誰もが島田さんのような恵まれた環境は得られないし、島田さんのような悲しい経験もしていなければ、島田さんのように頑張ることもできず、島田さんのような人徳もない。島田さんの人生は、島田さんだけのものだ。だから、サラリーマンが合わない人にどういう生き方があるのか、といった話の参考には全然ならない。ただ島田さんという人物の話を面白く読めた。ここに出てきた京都の古本屋「善行堂」で、ここに出てきた本を何冊か買ってしまった。古本屋はまた訪ねたい。買った本はこれから読みたいと思う。

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ヒゲを剃らない理由

今は髭を剃っておらず、残している。ときどきその理由を聞かれることがあって、そんなことどうでもいいだろと思うんだけど、自分も人に訊ねたことがあったからお互い様だ。人はよくそういう他人のどうでもいいことを訊いたりする。

ヒゲを剃らない一番の理由は、毎日剃るのがめんどくさいから。一度剃りだすと、毎日剃らないといけない。ヒゲはちょっと生えている状態が一番見栄えが悪いから、ヒゲを剃る=毎日剃るということになる。会社員の頃はそれをちゃんとやっていたけれど、やらなくてもいいならやりたくない。めんどくさいから。それだけ。

今は一週間に一回ぐらい整えている。ファッションでヒゲを作っている人は、きっと毎日整えているのだろう。もしくはヒゲが濃いと頻繁に手入れしないといけないかもしれない。僕はそうじゃないからけっこうほったらかし。一ヶ月ぐらい放置することもあって、さすがにひどい顔をしているから伸びた分だけバリカンで刈る。手入れはそれだけ。ヒゲを全部剃ってしまうより楽だ。

それ以外に「髭が似合っている」と言われたから残していた時期もあった。あとは単純に、鼻の下が長いから、髭が残っている方が顔のパーツのバランスがいい。ほうれい線も隠れる。髭を残している理由として、そういった見た目上の都合も多少はある。例えば、宮崎駿なんかも髭を蓄えているが、髭を剃っている時の宮崎駿の顔はけっこうおもしろかったりする。

日本のサラリーマンはなぜヒゲNGなのだろう?会社員の頃は問答無用に毎日剃らなければいけなかった。これが意味のないただの慣習だってことはわかるんだけど、いつから?OKだった時代もあるんじゃないのかな。海外ドラマなんかを見ていたら、いつの時代もヒゲ禁止なんてルールはなさそうだ。日本も昔の人はけっこうヒゲの人が多い。今でもサラリーマンじゃなければヒゲが生えている人は普通にいる。クールビズと同じで、ヒゲの国会議員などが増えたらサラリーマンの間にもヒゲが浸透するだろうか?

そんなにどうしても剃りたくないわけではなく、突き詰めればどっちでもいい。ただなんとなく残している。ヒゲ面に主義主張やこだわりはない。髪も服もだいたい同じぐらいてきとう。ファッションヒゲの人はお手入れとか大変だろうなと思う。

鍋が好きじゃない理由

僕は鍋料理が好きではない。しかし鍋のテーマを与えられたため、これから鍋についての文句をひたすら書くことになる。鍋が好きな人は気分が悪くなるかもしれないため、ご注意を。

子供の頃から、夕食が鍋だと言われると気分が下がっていた。僕の実家は冬場になると鍋ばかりで、うんざりしていた。薄くシャバシャバで単調な味がずっと続く。カレーやチゲ鍋だって、鍋じゃない方が味がしっかりしている。鍋はただの手抜きだと思っていた。

一つの鍋を家族でつつくというスタイルも好きではなかった。だって食べにくいでしょ。取りにくいし、よそわないといけないのも面倒だ。どこまで食べていいのかもわからない。自分の分は自分の分で決められている方が楽だ。

かと言って一人鍋もしたことない。わざわざ食べたいと思わない。鍋を好んで食べる人は、野菜を摂るためと言う。僕は野菜だったら生野菜でいい。野菜は確か、生の状態が一番栄養価が高いはずだ。

鍋が苦手な一番の理由は、熱いから。猫舌だから熱い汁物の食べ物をすき好んで食べない。カレーやラーメンは食べるんですけどね。そのへんは味がしっかりしているから。

毎年紅葉見てるんだっけ

紅葉は赤という派手な色なのにケバケバしく感じない、落ち着いた現象だなー。京都の紅葉は、毎年だいたい11月の末頃だったと思います。まだかまだかと思っていてもなかなか始まらず、始まったと思ったらずぐに終わる。非常に短い。ただ紅葉スポットなんて行かなくても、そこらじゅうで紅葉している。紅葉狩りなんていう言葉があり、春の花見と対を成すイベントだけど、僕はあえて紅葉を見にいくなんてことは滅多にない。自分にとっては混む季節ということぐらいの印象だろうか。季節の移り変わりは感じるんですけどね。

それでもあえて紅葉を見に行くとしたらどこがいいのだろう。本当に、どこでも見れるような気がする。御所とかでいいんじゃないですか。嵐山とか、清水とか。普通に山に入るだけでもいいと思います。京都市内でもシーズンではところどころでライトアップとかやっていて、私も大学生の頃に一度見に行ったことがあります。花見シーズンには桜もよくライトアップされている。私はあれ、あまり好きではありません。桜にしても紅葉にしても、自然のものなのに人工的な光を当てて、なんというかドヤ感が強すぎる。わかりやすいハデなのが好きな人はいいかもしれません。ライトアップ苦手っていう人の声はけっこう聞く。一回は見てみたらいいかもしれない。

去年は紅葉を見たっけ。見たような気もする。あまり覚えていない。

11月にしっかり見ていた。末頃ではなく頭の方だった。

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おととしは外国にいたから見ていない。その前の年はどうだろう?

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しっかり見ていた。これは鴨川だ。この時期はよく写真を撮っていたから、なんとなく撮っている。紅葉を見るというより、写真によく撮っていた。

我々は虫と共存できるか?

都会に暮らす多くの大人がそうであるように、僕も虫が苦手です。よく「子供の頃はつかめた」なんて聞きますが、僕は子供の頃から虫は触れなかった。気持ち悪い。でもさすがに虫が出て大騒ぎするほどではない。家にゴキブリが出たら、見逃す前に殺してしまう。多くはゴキジェットのような殺虫スプレーで、なければ新聞や身近なもので潰す。そのままにしておくことが一番嫌で、もっと言えば知らない間に触れてしまったり、寝ている間に布団に入ってきたり、体の上を這っていたり、口に入ってきたりご飯に入っていたりすることだけはなんとか避けたい。見かけたら漏らさず殺すようにしている。抹殺。殲滅。

奥さんの実家に泊まると必ずゴキブリが出る。日本家屋で山が近いから、ゴキブリが出るのは当たり前らしい。だから奥さんの実家ではゴキブリを殺したりしない。無駄な殺生を避けていることもあるが、同時にいちいち殺していたらキリがないそうだ。僕がゴキブリを見つけると、奥さんのお兄さんなんかがわざわざ家の外に逃がしてくれたりしていた。人の家のことだから、そこのルールに従うようにしている。

オーストラリアにいたとき、よくゴキブリが出る家に住んでいたことがあった。他の人は誰も気にしていなかったようだが、僕はこの、部屋にいつゴキブリが湧くかわからない環境が耐えられなくて、一掃することを決意した。スーパーでよく効きそうな殺虫剤を買い、休みの日に駆除を始めた。そこは庭付きの一軒家だったんだけど、家の外縁に沿って、屋根と壁の接点に殺虫剤を撒き始めた。すると壁からワラワラとゴキブリが湧いてきて、ボタボタと地面へ落ちていった。一部は庭へ逃れようとしたが、途中で力尽きていた。目で確認しただけでも10数体、20体ほどのゴキブリを駆逐した。スプレー缶は新品をその日に使い切った。それ以降その家で、ゴキブリを見かけることはなくなった。

ゴキブリ以外の虫については、カメムシなどはちょっと困る。気持ち悪いし何よりクサい。クモもちょっと嫌かな。見つけたら駆除している。セミも困るが、室内に入ってくることは滅多にない。バッタとかそういうのは平気だ。アフリカに住んでいたとき、部屋の中でバッタやコオロギが飛び回っていた。トカゲも走り回っていた。アフリカの家では蚊帳を吊っていたから、寝る時の心配はあまりなかった。それでもゴキブリやクモが出たら駆除するようにしていた。この違いはなんだろう?やはり見た目だろうか。

日本の家で虫が湧いたら、さすがにバッタやコオロギでもなんとかするだろう。今はマンションだし、まずそういうことはあり得ないけれど。

「ベスト・キッド」を見た

今Netflixで「コブラ会」を見ていて、これがけっこうどうでもいいコメディとして面白く見れているんだけど、やはりどうしても前作「ベスト・キッド」をおさらいしたくなる。コブラ会でもところどころにベスト・キッドのシーンを挟んでおり、先日見た第5話「バランス勝負」はまさにミヤギさんを偲ぶ回だった。これは尚更ベスト・キッドを見直さないといけないと思い、ついに見た。

ベスト・キッドもコブラ会も知らない人のために簡単に説明すると、ベスト・キッド(原題:The Karate Kid)は1984年の映画。転校先で集団暴行にあっている少年が、近所に住む日本人の老人に空手を習い、心身ともに強くなるという話。人気があったようで、パート4まで制作されている。僕は子供の頃、本当に物心が付く前ぐらいに何度か見た記憶がある。

コブラ会はその34年後の話で、2018年にYouTube Redにて配信され、最近Netflixに移籍して現在シーズン2まで配信されている。コブラ会とは、ベスト・キッドに出てくる集団暴行を行っていた少年たちが、通っていた空手道場の名前。言うなれば敵道場。コブラ会の道場生だった敵役のジョニーが、34年の時を経て再びコブラ会を立ち上げるという物語。

ベスト・キッドは1984年の映画で、コブラ会が2018年のドラマ。なんで今さらこんな続編を作ったのか、わけがわからない。だけどベスト・キッドの主人公ダニエルさんも、敵役だったジョニーも同じ俳優を起用しており、完全な続編。当時人気のあった映画だから、コブラ会が始まったときはリアルタイムで見ていた人たちの間で盛り上がった。Yesセンセイ!

さて、僕が今回見たのはコブラ会ではなくベスト・キッドの方。まさに30年ぶりぐらいに見直すと、こんな話だったのかと思うことがたくさんあった。まず、30年以上前の映画ということもあって、けっこうわからないことが多い。「当時はこれが普通だったの?」と思うようなことがたくさんある。主人公のダニエルさんは今で言うイジメに遭うんだけど、ところどころでやり返している。しかも金持ちの女の子と仲良くなったりする。全ての元凶。

このダニエルさんを主人公として話は進んでいくんだけど、ダニエルさんの物語としては凡庸そのもの。この映画の中でミヤギさんだけが異常な存在として際立っている。この映画は完全に、ミヤギさんの映画だ。ミヤギさんとは、ダニエルさんの空手の師匠である日本人の老人だ。

これは当時のアメリカ社会における、東洋人への幻想を映像化したものだろうか。多分この前提として、ブルース・リーのブームがあったと思う。アメリカで空手が流行る文脈として確か、ブルース・リー映画の流行があった。向こうの人からすればカンフーも空手も区別ついていないのか。しかし、この映画における空手は、カンフーとは違う空手そのものとして描かれている。構えが、受けが、型が。師匠のミヤギさんは沖縄出身という設定で、これも空手の文脈を忠実になぞっている。

ミヤギさん役は三船敏郎を考えていたらしいけれど(Wikipedia情報)、日系二世のアメリカ人、ノリユキ・パット・モリタというコメディアンが起用されている。三船敏郎なんかがこの映画に出ていたら浮きすぎる。この映画のミヤギさんは、めちゃくちゃシリアスな設定をはらみつつも、どこかマスコットキャラに近いところがある。言ってしまえば変な人。

ただアクションは様になっていた。この映画におけるアクションは、当時であることを考えればけっこういいと思う。一番の見せ所がミヤギさんの無双するシーンだとして、二番目はダニエルさんが受けを伝授するシーンだ。あの素早い動きが急に始まるのが良い。

ベスト・キッドの映画はけっこうな時間を女の子とのシーンに割かれてしまい、ダニエルさんとミヤギさんの物語としては、2時間がなかばダイジェスト的に過ぎていってしまった。僕の記憶にあった他のシーンは、2,3といった続編に引き継がれていることだろう。コブラ会を楽しむためには、2も3も見ておいたほうがいいんだろうなー。

コブラ会は全く別の趣向とはいえ、このミヤギさん抜きで続きをやっているんだからなかなかすごい。ミヤギさんの俳優は2005年に亡くなっており、コブラ会の作中にもミヤギさんの墓が出てきた。コブラ会にてダニエルさんが自動車販売会社の社長をやっているのは、ミヤギさんから車をもらったのと何か関係あるのかと思ってしまった。多分ない。

コブラ会 - Netflix

PayPalの残高に6,500円ある

PayPayではない。イーロン・マスクの作ったPayPalだ。イーロン・マスクはテスラの人だけど、もともとPayPalで有名だった。PayPalとは、電子決済のはしりのようなもの。

PayPal

PayPal

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  • ファイナンス
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ただPayPalは全然使っていない。海外通販で物を買うときに決済手段として使うぐらい。日本で使うことは滅多にない。そのPayPalに6,500円ほどのお金が残っている。何のお金かというと、Quoraからもらったお金だ。質問投稿サイトQuoraに質問を投稿すると、ページビューに比例してお金がもらえる。おかげでQuoraはゴミみたいな質問があふれかえっている。

Quora

Quora

  • Quora, Inc.
  • ニュース
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Quoraは最近はほとんど利用していなかったが、3年ほど前から使っており、質問を投稿した見返りとして6,500円振り込まれていた。どうしようこのお金。銀行口座に送金することも可能だが、手数料が250円かかる。そのままPayPalに入れておいて、PayPal決済の際に使うこともできる。僕は今pixivファンボックスで29tizu有料版を購読しており、このお金から払うことができる。その料金は300円だ。

旅行先でタダで泊めてもらえる家の検索サービス、カウチサーフィンも、コロナ禍以降は募金を募っている。現在も募金した人以外は、サービスを利用できない状態になっている。こちらの募金もPayPalでの支払いを受け付けている。1,000円。ただ、旅行ができない昨今、カウチサーフィンに課金することは果たして意味があるだろうか。

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他にPayPal決済が使用できるものとなると、やはり海外ネット通販となる。海外ネット通販で欲しいものは、レコードだなあ。最近近くのレコード屋でレコードばかり買っている。レコード屋でPayPalは使えないが、海外ネット通販なら利用できる。今欲しいのはこれ

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Steve Hiett | Down On The Road By The Beach | LP

ただこういうの、送料はいくらかかるんだろう。£26+送料だったら、近所のレコード屋で買ったほうが安いんじゃないか。しかもイギリスから?だといつ届くのかもわからない。一週間とかで届くのかなあ?結局、PayPalの残高を残したままレコードだけ買ってしまいそう。最初の目的からずれてきた。

消極的ポルノ反対論

ポルノは僕も利用するけれど、利用しておきながら、大まかに言えばポルノには反対です。娯楽としての性産業はなくなっていいと思っている。ただ実際はなくならないだろうし、自分も利用しているから積極的にポルノ反対論を展開するというわけではなく、どちらかと言えば反対、という程度。

自分事で恐縮ですが、ポルノを利用していると、ときどきポルノと現実を混同してしまいそうな錯覚に陥る。ポルノは飽くまでファンタジーなんだけど、そこには現実の人間がいて、限りなく現実に近いシチュエーションがあったりする。ファンタジーだが、客に受けるようにリアリティを追求している作品も中にはある。だから、一瞬現実と錯覚してしまう。

例えば、性風俗のサービスを受けていたとして、その行為の最中に一瞬相手が本当に自分に好意を持っているのではないか、そこまでいかなくても、行為を好意的に受け取っているのではないか、と勘違いすることは大いに有り得る。よくよく考えればそうでないことは明らかなんだけど、客がサービスにハマるのはその錯覚があるから、という場合もある。キャバ嬢に貢ぐ客のように。

例えば、中国の男性の間では「日本=AV」というぐらい日本のAVが見られていると聞いたことがある。彼らは日本の女性が皆AV女優のような女性ばかりだと誤解していないだろうか?間違った認識を与えていることはないだろうか?ファンタジーであることが正しく伝わっているだろうか?不安になる。

そういう勘違いであったり、認知の歪みであったり、錯覚を起こしかねないから、僕はポルノに反対です。例えば毎日ポルノを目にしている人が、現実の女性を目の前にして、ポルノに吐き出していた欲求をその女性にぶつけないかが心配です。ポルノが飽くまでファンタジーであり、現実と錯覚・混同することがない人間のみが、ポルノを利用してほしいと思います。

何より、身の回りの人、家族や親戚や友達が性産業に従事するのは耐え難い。本人が望んで行っているなら応援すべきかもしれないが、そうでない場合はなんとかしようとする。身内さえよければ、他はどうなってもいいとも思わない。だから、やはりポルノには反対。消極的にだけど。

先日転売ヤーについて日記を書いたけれど、転売ヤーも性産業も、買う人がいなくなればなくなると思う。買う人が悪い、とまでは言わないが、売る人間よりは買う人間のさじ加減だと思っている。欲望をコントロールできる人の割合が高ければ、転売ヤーも性産業も滅びるのではないだろうか。

"僕らの"Twitter

クソリプはTwitter用語だろう。今Twitterを利用しているのは子供ばかりなので、今のTwitter文化を知らない。なんだっけ、なめプ?とか嘘松とか、そういうTwitter用語に全然馴染みがない。巻き込みの苦情が来ると大爆笑してしまう。Twitterはそんなもんじゃねえだろ、と。自分もジジイになったもんだ。

クソリプは来たことないです。そもそも自分のツイートがフォロワー以外に見られたり注目を浴びたことがないから、クソリプは来ない。自分はときどき無意識にクソリプしていると思います。一昔前に流行った「FF外から失礼します」的なカルチャーは今でも残っているのだろうか?FF外からのリプは全然する。僕は広告以外全然ブロックしないけれど、僕自身は知らないところでブロックされまくっていると思う。

よし、Twitterについて老害昔は良かった懐古ジジイ的なことを言おう。僕がTwitterを利用し始めたのは2007年であーる。当時はまだ日本語化されておらず、英語メニューしかない英語のサービスだった。Twitterというサービスの名の通り、個人が独り言をいうだけの、さえずりサービスでしかなかった。クソリプなんて概念、あるはずもない。そもそもリプライ機能もリツイート機能も長い間Twitterには存在しなかった。

いやー昔はよかったわー今みたいにおもしろくない一般人も子供も宣伝広告もなかったころのTwitter、そんなもんいいに決まっている。Twitterが大衆に浸透しだしたのは、iPhoneが普及し始めてから。つまり2009年以降ですね。大衆化してつまらなくなるのは世の常ですが、Twitterはその閉鎖性からまだなんとか続いている方。僕なんか2007年だから13年だ。フォロワーは600にも満たないぞ!なんなんでしょうね、あのフォロワー数を誇る文化って、あれめっちゃかっこ悪いと思うんですけど、どうなんでしょう?フォロワー数が多いと嬉しいんですか?

芸能人とかもフォローしない。自分がフォローしているのは昔から利用している人がほとんどで、そのうち半分ぐらいは死に垢。"僕らの"Twitterはもはや絶滅していると言っていい。

自分のツイートがバズらなくてもいいけれど、クソリプは来てほしいです。不毛な言い合いがしたい。匿名の不毛な言い合いって、ネットの醍醐味でしょう。今ネットでも匿名でもそういうのはよくないみたいな空気になっているけれど、まさに表現規制に近い。あとから来た一般大衆にとって都合のいいルールが持ち込まれているだけ。勘弁してほしい。往年の鬼女板みたいに醜く罵り合えばいいんだ。

まあ、そんな老害なんて誰にも望まれなくて、お前らが出ていけっていう話なんでしょうね。その点ブログはやりやすくなったです。大衆のほうが先に出ていってくれたから。

こういう人とどう向き合えばいいか

この匿名ダイアリーが批判を浴びている。

これは消えてしまった元増田に対して、「あなたは自他の区別がついていない」「悪いのは夫ではなくあなた」という正論をぶつけるものだった。

これは離婚だと思う。

時系列でいうとこれが一番最初

"正論の説教"に対する批判の内容としては、「察してちゃんに正論言っても無闇に傷つけるだけで効果ない」といった内容。ブコメにもたくさんあったが、批判の匿名ダイアリーもあった。

全部読みたい人には読んでもらって、とりあえず一旦簡潔に整理をしてみたい。

  • 最初の女性:「旦那が気持ちを察してくれなくて」離婚を言い渡そうとしている
  • それに対する正論(?):「自他の区別がついていない」
  • 正論に対する批判:「相手を傷つけるだけ」

というざっくりとした流れであってるかな。ここで僕が考えたいのは、僕だったらこういう人に対して、どう向き合えばいいかということ。こういう人というのは、最初の女性みたいに「自他の区別がつかない人」のことだ。

自他の区別がつかない人というのは、「自分がこう思うから他人もこう思うはず」と思い込んでしまっている人。もしくは「自分がこう思っていることを、言わなくても相手に察してほしい」という人のこと。ネットでは古くから「察してちゃん」と呼ばれてきた。

簡単に言えば、恋人なり結婚相手なり、友人や上司や教え子、先輩、弟子に対してもそうだけど、人に対して過剰な期待を寄せてしまう人のこと全般を指すと思っていい。そして期待に沿わないと文句を言ったりがっかりする人のこと。その期待が過剰かそうでないかを判断するポイントは、自分の意思を明確に言葉で伝えているかどうか。伝えてもいないことを期待するのが、過剰な期待。

僕のような一般人、カウンセラーでもセラピストでもない一般人が、彼女のような人にどう向き合えばいいか。結論から言うと、関わらないことだろう。多くの人がやっている、関わらない、これが大正解。もし相手が大親友であったり、どうしてもなんとかしてあげたい人だったら、信頼できる専門家を紹介しましょう。それ以外は全て悪手だと思う。

最悪なのは食い物にすること。これは良識があればやらないと思うけれど、この手の人はカモなので、隙あらば悪い人が寄ってきます。食い物にするのは論外として、真っ直ぐに向き合うのも悪手だと思う。下手すれば向こうに引っ張られる。そうでなくてもこちらが疲れる。

関わらないのが正解と言ったって、相手が親兄弟のように簡単に縁が切れない場合もある(それでも僕は縁を切ってしまっていいと思う)。縁が切れない相手でもなるべく距離を置いて、なるべく関わらないのが肝心だと思います。関わる機会があれば、決してまともに向き合わないこと。言い方を変えれば、相手にしないこと。重要。

一見冷たいようですが、素人が真剣に向き合ったところで相手に効果はなく、徒労に終わります。こっちが誠意を尽くして、真剣に取り組んだところで、相手はわかってくれません。特に正論は、無闇に相手を傷つけるだけに終わり、相手との関係を損なう以外何も残らない結果も起こり得ます。正論に対する批判に「生兵法は大怪我の元」と書かれていた。そのとおりだと思う。僕は自他の区別がつかない人と、まともに関わるべきではない。接点があれば、当たり障りのないことを言ってお茶を濁し続けるのが正解なのだろう。

僕自身、10代の頃付き合っていた相手が、過剰な期待を寄せてくる人だった。僕は真剣に向き合ったせいでめちゃくちゃ喧嘩したし、お互い傷つけ合った。別れてからの後日談で、彼女は「あの頃はどうかしていた」と言っており、全面的に自分の否を認めている(他人に期待しなくなったかどうかは知らない)。

親しい関係だと、まともに向き合うことが自分の役割だとか思ってしまいがちですよね。それ、本当に大間違いだった。本気で相手のためを思うなら、金を払って専門家に対処してもらうこと。僕は興味本位で相手に関わってしまうことがあって、本当に悪趣味だと思う。やめます。

そういう自分は、本当に自他の区別が付いているのだろうか?「自分がこう思う」ことが「他人もこう思うだろう」と勝手に思い込んでしまっていることはないだろうか?その程度のことは全然ある。物事を考えるときにはどうしても、自分の常識、見識から抜け出すことができない。

問題なのは、それを元に「よかれと思って」行動してしまうこと。相手が本当に望んでいるか、喜ぶことなのかどうか確認を取らずに、相手のためを思って自分の「よかれ」を押し付けてしまうこと。さらに、その「よかれ」の見返りまで求めてしまったら最悪だ。もうコミュニケーション不全、破綻している。暴走と言われかねない。

コミュニケーションで重要なのは、「察する能力」ではない。はっきりと言葉にし、時には文書に残して、互いの意思を確認し合うことだ。察する能力に長けて人をうまく操ってお金をせしめたりいい思いをするのが上手い人は、ただの詐欺師です。気をつけましょう。