「愛のかたち」は恐ろしい本だった

いったいこれはどういうことだろうか。自殺した直後の妻を撮ることに、どのような意味があるのだろうか。そもそもこんな状況を撮ることが許されるのだろうか。自殺した妻を写真に撮ることは当然ながら、犯罪ではない。しかし精神が病んだ妻の姿を執拗に撮り続け、死の直後までカメラを向けること、さらにそれを作品として発表することは、並大抵の精神ではできない。はたして、古屋という男は何者なのだろうか。 P21-22

気になって、二日で読み終えてしまった。好奇心に駆られたと言っていい。自殺した直後の妻の写真を掲載した写真展を行い、その後も死んだ妻の写真集を、同じ「メモワール」というタイトルで何度も出版し続ける写真家、古屋誠一。著者は古屋が「なぜそんな写真を撮ったのか」そして「なぜそれを作品として発表したのか」ということが気になり、取材を申し込む。

著者は古屋に手紙を送り、取材の約束を取り付け、古屋の住むオーストリア第二の都市グラーツを訪ねる。この古屋という写真家は大変難しい人物らしく、ぶしつけな質問はできない。聞いたところでまともな答えは返ってこないだろう。慎重に、12年にも渡る取材を行っていく。その間も古屋は「メモワール」シリーズを出版し続ける。

「この家は…間借りしているという感じ。 たえず、人の家って感じ。だけど、作品があって、それに満足したら、作品が家になる。特に写真集だよね、自分としては。自分の写真に取り囲まれているような状況にしたい。孤独だからね」 P58

古屋という人物を訪ねるたびに、新たな情報がもたらされ、今までになかった印象を受ける。妻クリスティーネとの生活、息子との関係、クリスティーネの母親、古屋の生い立ち、両親、弟の存在。古屋という人物が今の行動に行き着くきっかけ、要素を全て線で結びつけ、古屋という人物を体系化しようとする中で、著者はどんどん古屋にのめり込んでいってしまう。

「アパートでは、一枚も写真を撮りませんでしたね」
「写真を撮る気にならないというか、別にここで撮ってどうするっていう感じだった」
「では、どうして十六年前、飛び降りた直後の写真を撮ったのでしょうか?」
唐突な私の質問に、古屋は少し驚いたようだった。
「なんだか知らないけど、撮った」
短い答えだった。 P136

この話のオチそのものは、実にあっけない話だった。古屋にのめり込みすぎてまとまらなくなった著者は、古屋と親しい荒木経惟に意見を求める(アラーキーをヨーロッパに紹介し、世界に広めたのは古屋その人だった)。アラーキーは簡単にその答えを言う。言われてみれば、初めからわかりきっていたような答えだった。ただそれは、棺に眠る死んだ妻の顔を写真集に収めたアラーキーだからこそ、言っていい言葉、言える答えだったようにも思える。言葉の重み、実感を得る。

この本では、取材していた時期に9.11テロ、東日本大震災が重なる。著者はテロの現場、被災地において撮るべき写真、撮っていい写真について考える。凄惨な現場の写真を撮るとはどういうことか。それは、精神の病に苦しむクリスティーネを撮る古屋、自殺したクリスティーネの死体を撮る古屋に共通する部分があるのか。興味、好奇心、美しいもの、惹かれるもの。それら見られる者と、見る者という関係が、

クリスティーネ(被写体)←古屋誠一(撮影者)←小林紀晴(著者)←読者 と続いて我々も当事者になる。

芸術とは、表現とはなんなのか。どこまでが許されるのか。どこまで突き詰めるべきなのか。倫理観とは?美しさとは?受け取り手は、どう見ればいいのか。それぞれによって違う。では、あなたはどう考えるか?あなた古屋をどう見るか?そう問われているような本だった。とても苦しい。

買った物、だけでなく2020

いつも思うんだけど、この買ったものなんとかってだいたいソフトではなくハード、それもAmazonで紹介できる家電ばかり。僕も例外ではなく、今年はやはりどうしてもAirPods ProとApple Watchが挙がってくる。(Apple Watchは買ったものではなく貰い物)。そしてもう一つはやはりカメラ、RX100M3。これも貰い物。もらってばかりだ。

AirPods Pro

AirPods Proは、iPhoneだけでなくiPadやMacも使っているなら非常に便利。今年は今まで使ってきたワイヤレスイヤフォンも含めた総論をまとめました。

Apple Watch

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Apple Watchについて、語り尽くされていることだと思うけれど、電車通勤だったりQUICPayやiDを日常的に使える環境なら便利だと思う。右利きで普段左手に時計を付ける人でも、Apple Watchは右手に付けたほうが便利そう。通知も便利ではある。他は運動計測だったり、健康・おもちゃ的要素が強い。Apple Watchを選ぶときは、セルラー使わなくてもセルラーがよさそうです。理由はガラスが傷つきにくいから。アルミ以外を選びましょう。

カメラ

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RX100M3はいわゆる高級コンパクトにあたる。持ち運びが簡単で、手軽に撮れる。めちゃくちゃ久しぶりにオートフォーカスを使っている。楽だけどなかなかうまくピントを合わせられないところもあり、一長一短。ポケットサイズだから気負いせずいつでもどこにでも持っていけるのは嬉しい。

それ以外

そういうのを書くと、あとは何が残るだろう。一つ変わり種を。

評判が良くて購入した、Face to Faceという写真集。それを撮った写真家、古屋誠一を、同じく写真家でもあり作家の小林紀晴が、12年間に渡って取材したノンフィクション本。合わせて読みたい。

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そろそろ「今年買ってよかったもの」系エントリー2019 - Letter from Kyoto

2018年に買ったもの(新時代の定番) - Letter from Kyoto

今週のお題「今年買ってよかったもの」(2017) - Letter from Kyoto

2014年に買った物が全然無い - Letter from Kyoto

お題「#買って良かった2020

酒をやめる風潮

最近けっこう感じる。まず最近の若者は酒を飲まなくなったと言うし、僕らのような中年以降にも酒をやめる風潮があるように思う。というか実際やめているという話をちらほら聞く。昔は酒も健康にいいとか、酒は万薬の長とか言ったけれど、現代では普通に体に悪いという結論で落ち着いている。

僕は15年ぐらい吸っていたタバコを昨年からやっと控えているところで、酒をやめるなんて到底無理な感じだ。ほぼ毎日飲んでいるから。しかしうちの奥さんは全然飲まなくなった。元々家では飲まない人でもあったが、こうやって周りで酒飲まない習慣に固められていくと、そのうち飲まなくなる可能性もある。タバコはまさにそうなった。

だったら酒の代替物はあるのか。タバコに関しては結局なかった。なくて苦しんでいる。もしくは食べる方向に走っている。酒を飲まなくなって、より食べる量が増えたりしたら太って健康を害して本末転倒だ。そうやってドカ食いしてドーパミンを分泌させていたら、酒であろうが食事であろうが一緒なんじゃないか。世の中には依存性の高い油、塩、糖などを控える風潮もあるようだ。それも健康のためなのか?

僕はべつに健康志向ではないから、タバコをやめたのだって健康を考えてではない。人はなぜ酒をやめるのだろう。酒での失敗をなくすため、という話も聞いたことがある。僕はだいたい自宅で飲むから、最近はあまりそういうことはない。酒をやめる必要はあるのだろうか?なんのために…

代わりに筋トレとかジョギングとかやっている人がいる。僕はそういうのやるのが嫌だから代わりにならない。

今年見た映画(2020)

去年は今年の倍ぐらい映画を見ていたが、感想は全然書いておらず、まとめてもいなかった。今年は映画全然見ていない。でも本と同じでいくつか感想を書いていたため、まとめておこうと思う。

計22本

今年は3回しか映画館に行っておらず、それ以外は全てNetflixかAmazon Prime。もともとよく映画館に行く方でもなかったが、いつもに増して少なかった。見たい映画はいくつかあったが、配信に流れてくるのを待っておこう。アイリッシュマンは去年の宇多丸さんのベスト1、アリースター誕生はレディーガガの映画だと途中で気づいた。アイトーニャのなんとかハウザーよく見かけるようになった。ケン・ローチ映画今年初めて見た。1917はゲームっぽかった。ビフォアシリーズ続き見たい。サイコマジックはvimeoの配信。初めて利用した。パターソン良かった。マティアス&マキシムはめっちゃ好きな映画。グザヴィエ・ドランをもっと見たい。

今年の映画を選ぶとしたら、とりあえず「家族を想うとき」が一番感情を揺さぶられた。去年の映画です。めちゃくちゃつらい映画。泣ける映画とか見て感動している人にぜひおすすめ。夫婦で映画館で見て二人ともボロ泣きだった。これが本当に泣ける映画です。ふさぎ込んでください。

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今年はずっと、気持ち的に映画見るハードルが上がっていた。来年はどうだろうか。もっと気軽に何も考えず見たいもんだ。

今年見た映画(2018) - Letter from Kyoto

今年見た映画(2017) - Letter from Kyoto

今年読んだ本(2020)

去年はあまりにも読んだ本の数が少なくて、まとめなかった。数えてみたら10冊だった。今年も決して多くなかったんだけど、いくつか感想も書いたからまとめておこう。

計22冊

未来学会議はずっと前に買った本で、やっと読み終えることができた。スタニスワフ・レムは邦訳されている本が少ない。完全なる真空が文庫になっていた。国境なき医師団も竹内浩三も、ラジオ番組アトロクで紹介されていた。去年からけっこうラジオ経由で本を読んでいる。プレゼンが上手い。本屋になりたいは一番やさしい古本屋開業本。忘れられた巨人もやっと読んだ。なかなか大変だった。アジアンジャパニーズは初めて読んだ本ではないけれど、感想を書いたから入れた。宮田珠己本は今年たくさん買い集めたが、まだ全然読んでいない。村上春樹はエッセイばかり読み捨てるように読んだ。夏葉社本をたくさん買って、たくさん読んだ。まだ読み終えていないのもある。愛のかたちは後から追加。写真がテーマ。

今年の一冊を選ぶとしたら、「90年代のこと」だろうか。今年出た本ではないけれど。Mid90'sなんて映画が上映されたり、ファッションや音楽など90年代が見直されている昨今、リアル90年代はどんなだったか書かれている。僕は当時子供だった。読んでいるといろんなことを思い出す。結構昔のことなんだけど、こんなにいろいろなことをよく覚えているなー。僕は今のことも昔のことも結構忘れてしまっている。こうやって提示されたら思い出すことはできるけれど、自分一人だったら引き出しの取っ手を掴めない。記録しておくことが大事だなー。そういう内容の本ではない。とにかく、よくも悪くもリアル90年代を思い出す。

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今年買った本は多かった。まだ読んでいない本も多い。ちゃんと読みたい。

今年読んだ本(2018) - Letter from Kyoto

今年読んだ本(2017) - Letter from Kyoto

今年読んだ本(2016) - Letter from Kyoto

けっこう前、僕は割と熱心にブログに取り組んでいた。僕の生き写しはブログと言わんばかりに、自らをそこに反映させていた。その頃の自分が書いた文は、もう今は書けなくなっている。そして今はもう、ブログへそこまで自らを費やしていない。

そういうものは他にもある。あれだけ熱心に撮っていた写真も、今はたまに撮るぐらい。当時の僕を知る人は、常に写真ばかり撮っていたイメージを持っていると思う。今は全然そんなんじゃない。熱意がなくなったとか、写真に飽きたとかではない。今でも撮るときは撮る。ただ、そんなに撮らなくなった。

旅行も全くしなくなった。コロナだからという理由もあれば、結婚したからという理由もある。ただ、前々から行きたかったところはあらかた行き尽くした。今後アフリカより遠くへ行くことは、まずないだろう。アイスランドとかロシアとか行きたいとは言ってるが、なんとなくというだけで一生いかないかもしれない。昔ほどの旅行熱はない。

本や映画は相変わらず消費している。数が減ってはいるけれど、心情的に変わらない。英語はどんどん落ちている。もともと趣味ではなかった。今、ここ1年ぐらいの間にブログや旅行、写真に取って代わったのはなんだろう?

一つはレコードだと思う。集めて聴いているだけ。これもいつまで続くかはわからない。ただ僕にとっては久しぶりの新世界だった。聴いているだけにしても、今まで全く接点のなかった音楽に触れるようになった。シティポップもそうだし、AORとかアンビエントとかが未知の世界だった。プレーヤーを買ったのが大きかった。もう一つ取って代わったのは今の仕事絡み。

自分がやっていることはそのときどきで移り変わる。それに伴っても、伴わなくとも、関わる人は時間の流れに従って大きく変わる。人付き合いがあまり続かないほうだ。ただ僕の場合は、今でも旅行が好きだし、写真も好きで、撮ったり買ったりする。ブログだってこうやって書いている。僕はころころ本流が変わる方だけど、かつて熱中していたものが、自分の中からまるごと消えてなくなったりしない。「なんであんなことに真剣になっていたんだろう?」って思うようなことには、初めから手を出さないです。それは人も同じ。

宝くじが当たらなくても仕事をやめた

宝くじが当たっても仕事はやめない - 意味をあたえる

これを読んで。

やめたところで一体どうやって生きていくのか。食うに困らなくなって、何をする必要のない人生が私には怖い。もう「仕事が忙しくて○○できない」という言い訳ができないのである。仕事が好きだと言うつもりはない。

この人は嫁も子供もいるからこういう発想なのか?それだけではないと思う。僕は食うに困らない人生が怖いなんていう発想はない。食うに困らなければ、どれだけ良かっただろう。ずっとそう思っていた。仕事が忙しいとき、僕の神経は常に衰弱していた。「仕事が忙しくて○○できない」という言い訳は可能な限りしたくなかった。仕事以外にやりたかったことがあったわけではない。

僕は宝くじも当たっていないし、配当金だけで暮らしているわけでもない。仕事をやめたとき、一番現実的だと思えた最後はホームレスになって死ぬことだった。飢え死に、行き倒れは、生物として一般的な死に方だと思った。どんな死に方がいいとか、若い頃はあったかもしれない。でも結構前からどうでもよくなった。最近身近で病死した人を見て、死の間際にまで立ち会い、どんな死も等しく苦しいのではないかと思った。だったら形にこだわるのは無意味ではないかと。

ただそれまでに、やれること、やり残したこと、興味を持ったことに手を出そうとしていろいろしてきたのが、仕事をやめてからの5年間だった。今のところまだ間近に自分の死は迫っていない。宝くじが当たっても、焦らないだろうな。「資産を守ることに注力せねば、とか考えると憂鬱」はちょっとありえない。普通に手堅く運用すると思う。今年はコロナのタイミングで一時的に下がったけれど、そのとき買増した分が順調に上がって、コロナ以前より増えているという人は多いんじゃないか。

さらに元の文章

こんな世の中だからこそ、「本当のお金持ち」の話をしよう。 - いつか電池がきれるまで

こちらも読んだ。こちらは税金や資産形成の話。労働の対価で蓄財することと、投資によって資産を増やすことを対比している。ここに書かれていることは極端で、必要十分な小金持ちの例が抜けている。自分の知り合いの投資家は、仕事もしながらIPOも当たらず、10年ぐらいかけてコツコツと5千万から1億程度の資産を投資で築いた。目標とするなら、選ばれた立場にいるスーパー金持ちよりも、スタート地点が大して変わらないこちらじゃないのかな。持たざる者が、元々持っている人に追いつく必要なんてあるか?追いつきたいと思わない。年収1億なんていらないでしょ。

僕がそう考えるのは、お金を全然使わないからかもしれない。ギャンブル依存症ではないし、旅行はするけど贅沢な旅行はしない。お酒は飲むけれど高いのをあえて飲んだりしない。店で飲むよりボトルを買って家で飲むことのほうが多い。タバコは1年半吸っていない。ソシャゲには課金しない。10年ぐらい同じ服を着ている。本はブックオフの100円コーナー、新刊は図書館で借りる。グルメでもない。というか食べるの苦手。今まで何度も「そんな人生楽しい?」と言われてきたが、僕は浪費することの喜びはあまり感じない方。虚しさが勝る。

今はレコードを買ったりしている。1ヶ月で3,000円とか?子供の小遣い程度。生活できる前提にはなるけれど、お金を使わない生活をしていれば、お金のことであれこれ悩むことはあまりないんじゃないかなーと思う。資産がどうとか、取り組むのはいいと思う。けれど極端に恵まれた人たちと自分を比べたって、あまり意味がない。それが格差なら、昔からそうだったと思うし。

「ウルトラマンZ」を見ている

最近アトロクでウルトラマン80の特集を聞いてから、 Netflix でウルトラマンZを見てみた。特集の中でもウルトラマンZの話題が何度か出ており、オタク達の間で評価が高いことが伺える。これまで 平成ウルトラマンとでも言うのか、ティガから始まる新シリーズは全く見てこなかったが、幼い頃はウルトラマン愛好家でもあった。幼いと言っても本当に小学校に入るぐらいで見なくなってしまったが、 当時TSUTAYA などのレンタルビデオ屋へ通っては、ウルトラマンばかり借りて見ていた。

マンのシリーズは結構見た。それ以外だとセブンが一番好きで、セブンに関してはキングジョーのエピソードをよく覚えている。確かセブンが一回負けて、一回で終わらない珍しい回だった。よく見たと言ってもせいぜいこんなもんで、エースやレオ、タロウなどは全然見ていない。今回特集になっていた80については、レンタルへ行くと全く貸出中になっておらず、いつでも借りることができたため何度か見たことはある。内容は全く覚えていない。そういえばタイの神様かなんかの、ハヌマーンというのもあった。「ウルトラマンができるまで」という再現ドラマのようなのは見た。

ウルトラマンZの話。ウルトラマンZは、僕が今までに見たことがあるウルトラマンのイメージと違い、かなりコメディーに寄った作品だ。まず、ウルトラマンが人間の言葉をうまく使えないという設定から、敬語と砕けた言葉を織り交ぜてしゃべる変な外国人みたいな喋り方をする。ウルトラマン自身も結構喋る。ウルトラマン同士が普通の人間たちのように会話をする。もしかしたら新シリーズは割とこういった傾向があったのかもしれないけれど、新シリーズを全く見ていないので新鮮だった。

また、旧作ファンウケを狙っていることが露骨に出ており、旧作の怪獣やウルトラマンたちが多数登場する。登場のさせ方も、旧作ファンをがっかりさせないような配慮が効いた感じがする。僕自身は旧作に対してもそこまで深い思い入れがあるかと言ったら微妙なので、その配慮をしっかりとくみ取ることはできないのだけど、多分ファンの人が見て納得する作品に仕上がっている。

旧作を知らなければ何のことかわからない展開やキャラクターがたくさん出てきて、初見の人は置いてけぼりをくらうのかもしれない。Zから入った人達は、見方を変えれば登場人物と同じ目線で作品に接することができる。旧作のキャラクターも一部説明していたりするから、僕のように30年ぶりぐらいにウルトラマンを見た人を沼にはめるような仕組みになっていると言えなくもない。

全般的にはやはり、子供向けの特撮には違いなくて、大人が真面目に見るには少々辛いところもある。この辺りは、シンゴジラのようにはできていない。だからウルトラマンZを見るにあたっての心情としては、頑張って久しぶりに童心に帰るか、もしくは今の時代の子供向け作品がどういうものなのか、観察的な目線が見やすいかもしれない。 特撮好きかもしくはよほどのファンでないと、入り込んで楽しむのは難しい作品といえる。 そういう意味では、所々のコメディであったり、昔のウルトラマンや怪獣の登場が、大人に見やすくさせているのは間違いない。

冷静に見ると、ウルトラマンの世界は毎週災害がやってきて非常に住みづらい。どんな未来よりもディストピアだと思う。住民たちが笑って毎日を過ごしているのが、ある意味怖い。

ウルトラマンZ - Netflix

猫とレコード

猫がレコードを聴くとか、レコードをかけていると猫が落ち着くといった話ではない。

今猫と暮らしているわけですが、今のように寒い時期になると、いやむしろ夏の暑い時期以外は、猫がベッドに上がってくる。おかげでベッドがかなり狭い。猫を飼ったことがなかったから知らなかったけれど、ベッドを買うときは+ハーフぐらい大きめを買ったほうがいい。猫を避けて寝るため変な体勢になったり、猫が上に乗っている状態で動くと起こしてしまうため、身動き取れない状態になる。長いこと寝袋でも寝てきたけれど、ベッドが狭くて不便と感じたのは初めてのことだった。

猫との生活も1年半が過ぎ、最近ではほとんど噛まれたり怒られたりしなくなった。僕のことは相変わらずエサ係ぐらいにしか思っていない。もしくは暖を取る暖房器具。猫を飼うことで不便なこととして、長期旅行などに出られないことがあった。しかしもう以前のような長期旅行に出ることはなくなったから、今となってはあまり弊害ではない。

猫かわいいとかっていうのは、そんなに。かわいいというか、そういう生き物だろうとは思う。かわいいって何だ。「90年代のこと」という本の中に、「"かわいい"は思考停止ワード」みたいな言葉が出てきて、僕もそう思った。なんでもかんでもかわいいって言うのは今に始まったことではないが、かわいいって言えば言うほど、何も言っていないに等しくなった。かわいいの一言で片付けるのは、なんだか残念というか、物足りない。猫はかわいいと思われたくてかわいい振る舞いをしているのだろうか?そうであればいいんだけど、他者の意に反して一方的に愛でるのは暴力に近い。

今年からレコードを買うようになった。最初は何を聴くか迷ったが、結局昔聞いていた音楽をレコードで聴きたいと思った。だからやっぱり今欲しいレコードとなると、What's going onとかサム・クックのライブとかになってくる。そういうベタベタな定番を聴きたい。他に昔よく聞いたのは、ダニー・ハサウェイとかカーティス・メイフィールドになるか。このあたりは全て、レコードの角がない音に合っていると思う。聴いていて疲れない音。値段はそんなに下がっていないけれど、だいたいどこでも売っているのを見かける。

これまでずっと、物を減らす生活を送ってきた。一箇所に定住していなかったこともあるし、物欲がおさまってきたことや、お金がなかったこともある。しかしここに来て、生活がほぼ固定化されてからレコードなんていう典型的なコレクターズアイテムを集めるようになった。今のところまだ少ないが、月に1枚しか買わなくてもあっという間に棚を埋め尽くす。ペース配分に慎重にならなければいけない。レコードはいざとなったら売れると言ったって、本と同じで価値のあるものしか売れない。まだ10枚もいってないから、あまり買わないように物欲を抑えよう。最近はGil Scott Heronを配信で聴いており、こちらもレコードでほしい。

My First なんちゃらかんちゃら

僕らの若い頃には、まだ「ヤラハタ」という言葉があった。意味は、やらずの20歳。つまり、20歳で成人をむかえてもまだ童貞である人間のことを指して、ヤラハタと呼んでいた。僕らの若い頃、つまり20年ぐらい前は、童貞であることがかっこ悪いこととされていた。しかもハタチを過ぎてまだ貫いているのは、なにか人間的欠陥があるとか、そういうふうに思われていた。今はどうなんだろ、知らない。

でも多分ヤラハタなんて言葉はもう使われていないだろう。そういう風潮もなくなっていると思う。僕がヤラハタという言葉を知ったのは、マンガGTOからだった。グレートティーチャー鬼塚。今読むと、90年代末期の時代性をよく現していると思う。池袋ウエストゲートパーク(ドラマ)とかも、当時の空気感をよく現している。

グラップラー刃牙の少年編では、自衛隊のガイアが「童貞を捨てた」と言っており、注釈で※初めて人を殺したことと書かれていた。え、そんな言い方するー??と思っていた。僕らは本当に、性欲に振り回される人生だった。「僕らは」と言うのは、多分僕だけではないという確信がある。女性が毎月生理に苦しむのが呪いだとしたら、男性の呪いは性欲に振り回されることだと思う。僕の性欲が、少なくとも女性平均並であったとしたら、もっとマシなことに人生の時間を費やせていたんじゃないか。僕の人生の時間の約半分は、オナネタを探すことに費やされていた。半分は言いすぎかもしれない。睡眠とかもあるから。起きている時間の大半は、ということにしよう。

いや、それは言い訳に過ぎない。僕の性欲が人並みだったとしても、きっと僕は勉強しなかっただろうし、スポーツもやらなかった。打ち込む趣味もなかった。ただ何をすることもなく、寝て過ごしていたと思う。今と同様に。性欲がもっと乏しければどうだっただろう。本当に性欲を失ってしまった今になって思うのは、もっとまともに人と関われたかもしれないということ。人、というより女性と、性を意識せずに関われるようになったのは30代も後半になって枯れてから。

もちろん小学生の頃からずっと、意識しない対象はいた。多くいた。たくさんいた。そうではなく、今だったら対象の人であっても、意識せずに面と向かって関わり合うことができる。若い頃はそれが難しかった。女慣れとはつまり、そういうことだろう。興味の対象であっても、女性として意識せずに接することができること。性を意識しない異性の友達ができる中高生は、さぞ人生を満喫しているのではないか。

呪術廻戦でイタドリ君は、一度人を殺してしまうと境界がなくなってしまう、簡単に殺す対象と大事な人が曖昧になってしまうと言っていた。僕は同じことをセックスで思っていた。行為のための関係なのか、関係のための行為なのか、そのどちらでもないのか。これまでセックスした相手のことをどれだけ覚えているだろう?僕の場合、ちゃんと付き合った人のことは覚えているけれど、それ以外は曖昧。何人とかはわからない。名前は全くわからない。顔も曖昧。どんな状況だったかということがかろうじて思い出せるぐらい。それさえも忘れている人はいる。それがいいとか悪いとかではなく、それらが同じ行為だと思うとよくわからなくなってくる。大事なことなのか、そうでないのか。

Phaさんの「夜のこと」は読んでいないけれど、そういうことがもっとしっかり書いてあるんじゃないかなと勝手に想像している。性欲がなくなってから、本当の人生が始まる。本当の私、デビューワンデイアキュビュー

若くて性欲が溢れていた頃の自分を思うと、本当に不憫だ。15歳かそこらで性欲の使いみちがあった人は、人生踏み外しているか安定しているかのどちらかだろう。若い頃の自分には、なにもアドバイスできない。おそらく何もできなかっただろうし、大人が何言っても何も解決できないだろうから。ただ耐え忍ぶのみ。時が過ぎるのを待つばかり。

12月も8日

久しぶりにラーメン屋でラーメン食った。そんなに久しぶりでもないかもしれない。覚えていない。何をやっても久しぶりな気がする。先日カレー屋でカレー食ったのは紛れもなく久しぶりだった。会社員の頃は、休日といえばラーメン屋かカレー屋だった。でもラーメンにもカレーにもそんなにくわしくない。こだわりもない。

先日映画館で映画見たのは本当に久しぶりだった。半年以上ぶり。映画館も普段そんなにたくさん行くわけではない。映画を見る気分の時期だったら、もっと気軽に行きたいと思う。映画館。前情報無しで全然知らない映画を見たり、おもしろくない映画を見たりするのもいい。今はそんな体力なくて、Netflixの配信でもそういう冒険めいたみかたができない。踏み出す一歩のハードルが高い。

若い頃は、誰彼構わず、というような勢いで本をジャケ買いして読んだりできたもんだ。今はそんな体力ない。映画も同じ。音楽だったらまださらっと聞き流せる。何より短い。最近聞いた音楽。

テイクファイブの歌入り。こんなのあったんだー

これはなんだろ、よく覚えていない。けれどこういうボヤボヤした音楽ばかり聴いていた。

これも同じ流れかなー。

ジョージー・ポージーのカバー。この曲はたくさんカバーが出ているらしい。

さいきんすごく胃の調子が悪くて、単に食べ過ぎなのか、油のとりすぎなのか、酒の飲みすぎなのか。周りの世間一般と比べたらどれも大したことない。ただ、子供の頃からよく胃薬を飲んでいたことを思い出した。そういえば最近飲んでいなかった。それだけ。今に始まったことではない。

最近の生活というのは、実に落ち着いている。職場にはときどき人が来るけれど、一人のときも多く、朝から夜までずっと一人で過ごすことも少なくない。調べ物をしたり作業していたら1日が終わる。そんな1日の繰り返し。会う人が少なく、移動もほとんどなく、いたって地味な暮らし。華はないが、そんな日々を意外となんとも思わない。若い頃だったら退屈してただろうか。根が引きこもりだから、平気な気がする。

「マティアス&マキシム」を見た

2月ぶりに映画館で映画を見てきた。見たい映画はいくつもあったんだけど、なかなか見られていなくてようやく行けた。マティアス&マキシムはアトロクの映画評を聴いて、見たいと思った。今でも聞けるから、興味がある人はどうぞ。

映画評を聴いた時点で気になっていた点が、いくつもあった。まず宇多丸さんが言っていた「第2思春期」という言葉。20代後半から30代に向けたこの時期。ここを越えると大人として後戻りできない気がする。人生の方向性が決まってしまう。そこで改めて、自分は本当にこのままでいいのだろうか?と思い悩む時期、それを宇多丸さんは第2思春期と呼んでいる。

マティアスは仕事で昇進の話が出る。彼女との関係がより形を帯びてくる。そのタイミングで、大きく揺さぶられる。マキシムは今の生活に区切りをつけようと、オーストラリア行きを決めている。

ここで僕はどうしても自分のことを振り返ってしまう。僕は30歳で会社を辞めて、半年後にカナダへ渡航した。理由はいろいろあったけれど、大学を卒業してからずっと続けていた仕事を、その後も何十年と続ける気力がなかった。なにか辞めるタイミングや言い訳を探していた。

そのとき付き合っていた人は、京都のマルイに入っていた店に就職するかもしれないと言っていた。僕は彼女がこっちに来たら、そのまま結婚するのかもしれないと思った。そうしたいとかではなく、他の人たちと同じように、そうなるのかもしれないと。僕は一般企業のサラリーマンで、30歳だった。向こうは仕事が決まれば、岐阜から京都に引っ越すことになる。彼女は仕事が決まり、京都で住む家を探していた(僕はそのとき大阪に住んでいた)。

結局彼女はその新しい仕事を断り、僕は会社を辞めてカナダへ渡航することにした。その直後ぐらいに、彼女と別れた。今思い返すと、会社を辞めてもやることがないと言っていた僕に、ワーキングホリデーで海外に出てみたら?と提案してくれたのは彼女だった。何か具体的なプランがあったわけではない。ただなんとなくその時期に、僕の方向性は大きく変わった。

マキシムは大したあてもなく、目標も計画もなく、英語すらつたないままでオーストラリアへ行こうとしていた。それと非常に近いものがあった。年齢も同じ。第2思春期という言葉や時期は、実際のところあまり関係ないのかもしれない。ただ、この一連の部分だけをとっても、何かどうも他人事とは思えないような、そういう気持ちにさせる映画だった。

マティアス&マキシム(字幕版)

マティアス&マキシム(字幕版)

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寒い季節は苦手だ

今まさに冬の洗礼をくらっている。寒暖差アレルギーもあって、体温が下がったり血管が収縮すると鼻水が出たりくしゃみが止まらない。対策としては暑い場所にいたり体温を上げ続けるしかなくて、なかなか冬には大変だ。とりあえず薬でなんとか誤魔化そうとしている。飲んでは耐性がついて効かなくなり、いろんな種類の薬をローテーションしている。

鼻炎だけでなく、寒いと頭痛がするからやはり冬はこたえる。常に体温を保つためには、動き続けるか暖かい場所にいるしかない。よく服好きの人はいろんな服が楽しめる冬が好きだと言うけれど、こっちは鼻水垂らしまくりくしゃみ出まくりで冬はそれどころではない。逆に夏はタンクトップと半ズボンとゾウリ履いておけばいいから楽だ。

真心ブラザーズの、ボブ・ディランカバーがめちゃくちゃよかった。

My back pagesという原曲がこれ。

英語詞を無理矢理訳しているから原曲より言葉多めになっているんだけど、この言葉がメロディーに収まりきっていない感じが好きなんだろうなー。原曲より好きだった。ボブ・ディランはフォークシンガーだったそうだ。通っていないから全然知らなかった。エレキギターを持って出てきて元のファンからブーイングが起こったとか。

最近も毎日酒を飲んでいる。ずっとウイスキイを飲んでいたけれど、ここ数ヶ月はビールと檸檬堂に落ち着いている。安く済ませようと思ってウイスキイのボトルを買っていたのに、毎回炭酸を買っていたらそんなに安くないなと思って。

ただボトルを買っておけば、炭酸も2回はもつから買い物が楽だった。ビールはかさばるし、毎回買わなければいけない。いっぺんに買ってしまうと際限なく飲んでしまうから(お酒は弱い)、買ってもせいぜい2本ずつ買っている。2日に一回は買い物に行かなければいけない。それも前炭酸を買っていたペースと同じか。

くだらないこと、無意味なことに全力を注ぐわけでもなく、淡々と日常を過ごしたい少年だった。逃げ道探しがずっと続いている。無意味の中にしかいられないんだろうな!幸福!芸術!中身が無いことに生活の豊かさがあると思います。意味が生じた時点でそれは消耗品になってしまう。「ためになる」なにかなんて、食べて消化したら全部うんこだ。もっとゴミが貴重だ。環境破壊をおよぼすゴミが。

macOS Big Surのクリーンインストールに手こずった

昨日の夜から今日にかけて、ひたすらmacOSのクリーンインストールをやっていた。

まずバックアップを取るためにタイムカプセルを起動したら、バックアップには4時間かかると言われた。地道に待っていたら2時間ほどで終わる。次に12GBのBig Surをダウンロード。30分ほどでダウンロードが完了し、インストールした後に再起動、 command + R でディスクユーティリティを起動する。Macintosh HDDを消去して、Big Surをインストールしようとしたら、ディスクが見当たりませんと言われた。

ここで僕はパニックになり、一度電源を落とした。再び電源を入れると command + R でも何もつかなくなり、サポートを参照してくれみたな英語の表示が出る。わけわからなくなってもう一度電源を切り、再びリカバリーモードに入ると、今度はなぜか、このMacを買った当初のEl Capitanに戻っている。さっき時間かけてダウンロードした12GBのBig Surはどこかへ行ったらしい。

しかたがなくEl Capitanをインストールする。そのためにまずMacintosh HDDを作成し、Wi-Fiのパスワードが通らなかったりして、非常に時間がかかる。なんとかEl Capitanのインストールを終え、Big Surにアップグレードしようとするも、ソフトウェア・アップデートに表示されない。Mojave以降しか対応していないらしい。El Capitanからだと、App Storeの方からインストールできるのかな。再びBig Surのダウンロードが始まる。12GB。インストールしようとしたらできない。ディスクを暗号化していたせいらしく、暗号化を解除してようやくインストール。

Big Surを入れると、ここで振り出しに戻った。今El Capitan→Big Surとアップグレードしたところなので、ゼロからBig Surを入れるためもう一度クリーンインストールする。リカバリーモードに入り、ディスクユーティリティからMacintosh HDDを消去、作成、インストール開始。無駄に時間がかかった。朝の8時だ。

その後片っ端からIDの認証作業を行ったり、アプリケーションを次から次へと入れ直したり、OSを入れ替えて最初にやるべき設定を行ったり、とても時間がかかってようやく完了。今日から僕のMacBookはBig Sur。Appleシリコンチップじゃないよ。

昨日夜通しこんな作業をやっていて、めちゃくちゃ寒くて、頭痛くなった。ねむい。ひたすらねむい1日を過ごしていた。夜になっても頭痛いまま、目は赤いまま。胃は荒れている。なぜこんな苦労をしてまでOSアップグレードを行っていたかというと、GarageBandとiMovieを使いたかったから。OSが古いままだとApp Storeからダウンロードできない。来週にはもう使うため、やや急ぎでもあった。先週はフリーソフトで間に合わせたけれど、どうせならGarageBandとiMovieを使ってみたい。

Big Surそのものは、リリース当初なんかいろいろ言われていたけれど、今のところは何も不具合なし。

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とりとめない

インドカレー屋でカレーを食ったら、ナンが多すぎて腹一杯になった。後に胃もたれした。ナンの油で胃もたれしたのか、カレーで胃もたれしたのか。インド人のウェイトレスが、日本語が下手ですみませんと言っていた。日本語学校へ通ったりしているのだろうか。この人は前来たときはいなかったような気がする。新しい人っぽかった。3辛を頼んだが、そんなに辛くなかった。5辛でよかったかもしれない。

今日は久しぶりに寒かった。11月も終盤にさしかかり、冬到来を感じる。歩道には銀杏の葉っぱが落ちまくっている。紅葉シーズンも終わったと言われた。前回の休日は、何をすることもなく終わってしまった。なにかしたっけ。どこにも行かなかったっけ。どこかへ行ったとして、金を使うだけだ。自然の中へ入ればいい。もしくは手元にあるものを消化するとか。そうだ、確か休日には本を読んでいたんだ。それでよかった。

思春期の頃、中学生ぐらいの頃だろうか、最も性欲旺盛だ立った頃、目に映る仲の良さそうな男女は皆、性愛関係にあるものだと思っていた。恋愛経験が乏しいとよく、自分と目が合っただけで相手が惚れていると勘違いしたり、自分に優しくしてくれた人は気があるのか?ヤれんのか?なんて勘違いをする。その延長で、仲良さそうな男女は皆、そういう関係なのだと思っていた。友達同士であれ、先輩後輩であれ、上司と部下であれ、仲がいいってことはそれぐらいの関係は簡単にあるのだろうと。いやらしい目でみるというよりかは、そう思い込んでいたフシがある。エロ本の見過ぎだったのだろうか。

というか、今でも少しそう思っている。男女が仲良さそうにしていると「できてんのか?」と勘ぐるのと同じ。僕の場合「カジュアルにセックスぐらいしてるだろ」と思い込んでいた。海外の映画やドラマを見すぎていたのかもしれない。海外も、実際はそんなことはない。人による。少なくともアジア人がその環に混ざることはほとんどない。白人女性と結婚しているアジア人男性もいるから一概には言えない。前の会社の人と話したとき「ガイジンはみんな簡単にやるんだろ?」みたいに言われたが、そんなことはなかった。

名古屋に住んでいたとき、頻繁に白人の路上売春婦を見かけた。他の街、少なくとも地元京都や大阪に住んでいた頃は見たことなかったから驚いた。あれは名古屋特有のことなのだろうか。他の街にもいるとは思うけれど、北米で見かけたのと同じような立ちんぼ、モロ白人の路上売春婦を名古屋では何度も見かけた。華やかな場所ではなく、暗い通りに立っている。街灯の下でもない。派手で薄着だった。