資本主義人生ゲームに興味ない人もいるだろ

これを読んで、自分はどうしていたかなーと思い返していた。僕が就職したのは小泉内閣の時代だった。学生時代に、この日本社会でどう生き抜こうか考えた末、自然に(横並び的に)新卒採用の波に僕は乗っかった。地獄の就職活動を乗り越えて就職し、サラリーマンになった。自分には夢もやりたいことも目指す目標もなかったから、生活とやりたいことの天秤をかけて、みたいな選択はなかった。ただ学生時代が終わり、この先どうすれば生きていけるのか不安で、その解消の手段として就職を選んだだけ。

根底にあったのは「生存」と「不安」だけだったと思う。「自己実現」とか「幸福追求」なんてものは一切なかった。もちろん「成功」も「モテ」も「結婚」もどうでもよかった。望んだことがない。世の中でそういうのを競うゲームが行われていたとしたら、なんとか波に乗るだけ乗って、争わないのが自分だったように思う。表面上はなんとか合わせようとする。けれど本当は興味がない。

この波が資本主義なのだとしたら、それに乗らないことには生存そのものが脅かされる。今生き残るためには本当は興味がなかろうと、就職活動と同じでとりあえず乗らざるを得ない。競争する気がなくても勝ち残るつもりがなくても、ゲームが楽しくなくても、資本主義から降りることは実質不可能だ。

サラリーマンをやめたからといって、どこかで経済活動が必要になってくる。究極的に資本主義から逃れようとすれば、どこかに隠遁して自給自足生活を送るしかない。そんなサヴァイヴ能力があればやっただろうけど、それよりはこの資本主義社会という波に乗っかったほうが簡単だった。心の底から乗っかれなくても、今もそうしている。これは言うならば偽装だろう。生存のため、資本主義社会に生きる一般市民のフリをしている。

僕はこの資本主義人生ゲームがクソゲーだからおもしろくないわけじゃない。ただ興味がなくて、遊びたくない。サッカーでもバスケットでもゲートボールでも、好きなゲーム、やっていて楽しいゲームと、そうではないゲームがあるだろう。僕は「自己実現」「幸福追求」「成功」「モテ」「結婚」といった項目が含まれる資本主義人生ゲームが単純に好きじゃなかったというだけ。その点については、事例に挙げられている『弱キャラ友崎くん』の世界観に全然出てこないのではないか。

実際は僕みたいに、負けるからつまんないとかゲーム性がアンバランスだからおもしろくないとかいった理由は抜きにして、純粋に「資本主義人生ゲーム興味ない」と思っている人は多いと思うんですよね。でも生きるために仕方なく、資本主義人生ゲームに加担せざるを得ないだけの人。そういう人は帝国的生活様式を享受できなかったとしても、決してアンチフェミ・インセル・表現の自由戦士にならない。なぜならそんなものには元々興味がないから。

(僕は結婚したけれど、結婚がしたかったわけではない。一緒にいる手段として結婚しただけで、婚活なんてしたことないし誰とも競争していない。)

個人的な旅行の行く末

最近、といってもここ1年の間に、この自分のはてなブログを読んでいる(読んでいた)という人3人ぐらいと話した。話した相手は、緊急事態中にTwitter経由でZOOMで話した人、東京からこっちに出張で来ていた人、去年からたまたまこっちに住んでいる人。3人それぞれ、時期も経緯もきっかけも異なる。ただ、そんなに長く話し込んだわけでもないけれど、みんなと僕とひとつ共通の話題があった。それは旅行、みんな旅行する人だった。僕が行ったイスラエル、チェコ、アフリカのどっかに行ってる人もいた。セネガルだったかな、忘れた。このブログは旅行の印象が強いのだろう。自然とそういう話になった。せいぜいそれしか目立つコンテンツがなかったというか。

僕自身はもう全然旅行しなくなった。今は外国に行けないけれど、アフリカから帰ってきてからは、新婚旅行へ行ったきり。国内旅行はそれから二度した。国内だったら今後もときどき旅行するだろう。外国となるとなかなか目処は立たないが、行くとしてもこれまで一人でしていた旅行とは全く違ったものになる。バックパックでホステルに泊まるなんてことはもうない。奥さんはそういうのに興味がない。もっと普通の旅行だったら、これからもあるかもしれない。

いずれにせよ、自分の中で旅行は一区切りついた。大陸で言うと南米、南極は訪れていないが、惹かれる何かがあるわけではない。行きたいところは大体行って、それなりの体験ができたと思う。全く心残りがないと言うと嘘になるが、これ以上のコストとリスクと人生の時間を費やしてまで旅行にのめり込んでいるわけでもなく、ほどほどに終了、お疲れ様といった感じです。だから、今後ここに旅行について書くことがあったとしても、極めて普通の内容になる。これまでも普通っちゃ普通だったが、もっと観光色が強くなる。

そうではない海外旅行、僕が20代から30代にかけて行っていた海外旅行はもはや、「あの頃」になってしまった。映画「あの頃」は見ていないが、彼らがモーヲタだった時代を懐かしむように僕はバックパッカー時代を懐かしみ、バックパックで長期旅行はもはやエモ思い出と化してしまった。ここ最近は90年代からゼロ年代の旅行本を読んでは、あの頃はあーだこーだと思い出しながら自分の旅行も振り返って感傷に浸るのが年老いた趣味となっております(僕が旅行していたのは2010年代なんだけど)。

僕が旅行を始めた頃は、iPhoneはギリギリあった。Googleマップもあったけど、行き先ナビなんかはなかったし、スポットもそんなに登録されていなかった。日本にはSIMフリーのiPhoneなんてなく、街中のフリーWi-Fiを探していた(カフェかホテルぐらいにしかなかった)。だから、iPhoneはあっても実質海外では使えなかった。まだ地球の歩き方が現役だった頃の話。僕は付録の地図を破ってポケットに持ち歩いていた。

「人に好かれなくてもいい」と言うと、信じてもらえない

らしい。らしいというのは、本当に信じてもらえないのか、僕自身はよく知らない。多くの人は「人に好かれなくてもいい」ということがただの強がりと感じるか、よく理解できないだろう、と言われる。どうやらみんな、人に好かれたいらしい。

ときどき、「なんで人に好かれたいの?」と聞くことがある。すると、「人から好かれると嬉しい」とか「自然に人から好かれたいと思う」とか、そういう答えが返ってくる。僕は個人的に、人に好かれたって厄介なことのほうが多いと思っている。だから、誰でもかんでも好かれたいとは思わない。むしろそういうことはなるべく避けようと思う。人に好かれてもいいことなんて全然ない、というのが持論。厄介な人は関わらないでいてくれたほうが嬉しい。

でも、どうやらそういう話ではないらしい。人に好かれたい人は、「人に好かれてもいいことない」などといった理由云々と関係なく、無意識に「人に好かれたい」という欲求に囚われているそうだ。何故なのだろう?僕の仮説では、一般的には人に好かれることによって、仲良くなり、助け合える手が増え、命の危険が遠ざかり、生活の安全性が増す。つまり自分を守るために無意識に「人に好かれたい」という本能が働くのではないか。ビジネスなどにおいては、人脈が広いと事を運ぶのに有利とされる。あれのもっと原始的なやつが、「人に好かれたい」という本能だと思う。承認欲求とかも多分そこからきている。認められた方が命の危険が遠ざかるから、認められると喜ぶように体ができている。

以上が僕の仮説だけど、それで僕が「人に好かれなくていい」と感じていることも説明がつく。経験上、僕は人から排除されることのほうが多かった。人に好かれようとすると返って嫌われる。安全性を上げるはずの行為が、下げる結果に陥ってしまう。「人に好かれたい」なんて思うことは、意味を成さないどころかむしろ逆効果だった。

自分の本質は人に受け入れられない。そんな自分が人に好かれようとするとマイナスに働く。どちらかと言えば人に認識されないほうが安全だった。だから自分は「人に好かれたい」と思うよりも「目立ちたくない」「他者に存在を認識されたくない」という意識が働く。安全を確保するという本能が、「人に好かれたい」という欲求に結びつかない。僕の場合は。

僕が本質的に人に受け入れられないのは、おそらくだけど共感性が乏しいからだろう。人の言っていることがわからない。人に理解されない。共感性が高い人たちの間で説明不要な輪に、自分は入れない。存在を認識されると、輪を乱す異物として排除される。人と共感できたり、共感したいと思う人は、僕の例は全然参考にならない。

僕がここで言う「人に好かれたい」とは、「不特定多数の人間から無条件に好かれたい」という感情のことを指す。そういう感情は、僕は一切持ち合わせていない。だけど僕も、特定少数の人には好かれたいと思う。対象となるのは、自分が好きな人。自分が好きな相手からは、さすがに好かれたい。そのためには多少の努力もいとわない。それ以外人は心底どうでもいい。全く好意を持たれなくていい。例えば店員とか二度と会わない人とかに、自分のことをどう思われても構わない。

人から好かれるために、自分の本質を隠して擬態する人もいる。僕も仕事上など、どうしても人に好意的な印象を持ってもらわないといけないときは、擬態するようにしている。それ以外ではなるべくやらないけど、人によってはずっと擬態したままの人もいるんじゃないか。僕はそうやって人に好かれる人間を演じるのがすごく疲れるから、なるべくやりたくない。いざ好かれても、ボロが出ないようにずっと気をつけていないといけない。そこまでして人に好かれるなんて、とてもじゃないが割りに合わない。

本当に好かれたい相手にも、擬態は使わない。それは擬態が好かれているだけで、自分が好かれているわけではないから、本質的な意味を成さない。擬態の方を好きになられても困るため、素の自分が好かれるように努力する。これがけっこうな労力を要する。そうやすやすと行使できないほどに。そしてなかなかうまくはいかない。だから滅多なことでは人から好かれたいなんて思わないし、やらない。

具体的にどうやるかというと、自己開示するだけ。まずそれができるような関係になる。それまでの段階で、自分の本質が受け入れてもらえそうなのかどうか探る。それから、徐々に自分の中身をさらけ出す。好かれるかどうかは実際やってみないとわからないが、嫌われるかどうかはだいたい分かる。嫌われそうだったら、その段階より前に進めず終了。

それ以外においては、特段人に好かれて喜ぶことがない。似たような文脈で「褒められて嬉しいか?」というのがある。僕の回答は「相手による」「分野による」。誰からでも好かれて嬉しいわけではないのと同じで、誰から褒められても嬉しいわけではない。自分より優れた人から褒められたら、それは価値ある称賛だと思う。そして自分が好きな分野、興味のある分野で褒められると喜びがある。それ以外は特に、なんとも思わない。

最近盛り上がっているnoteの行く末を見守っている

先週からはてな(匿名ダイアリー)で盛り上がっている、とあるnoteを追っかけています。

「かわいい人にかわいいと言うのは、僕としては結構ありえない」という目を引くタイトルから、ジェンダーと性欲を入り混ぜた内容のこのnoteは3/3に投稿され、ツイッター等で人気を集めたそうだ。僕が知ったのは十分話題になってからの3/11、はてなブックマークに上がっているのを見かけて。その場で読んで、感想をブックマークしている。

かわいい人にかわいいと言うのは、僕としては結構ありえない|安原健太|note

ここで言われるような現場に立ち会ったことない。新歓行ったこと無いからなーTikTokは一瞬でクソだと思ったし、やっぱりわざわざそういう現場に近づかない

2021/03/11 16:30

長々とした文章を一応全部読んだけれど、自分にはあまり縁がない話だなというのが正直な感想。割とどうでもいいというか、自分は当事者としてその場にいない側の人間であり、強く関心の惹かれる内容ではなかった。ただまあご時世柄もあって、この手の内容が受けるのもわからんではないと思ったぐらい。

このnoteは大いに盛り上がっているのだが、どうも様子がおかしい。それは、はてな匿名ダイアリーでの盛り上がり方だ。このnoteに対して真っ向からの反対意見ばかり。男性も女性も(自称)みんな揃って全面不支持なのだ。

"より安全にモテるための恋愛工学としてしか読めなかった"

"多分女性がぶりっ子にイラつくのと同じ感じ。"

"容姿やコミュニケーション能力が優れた人間のセクハラ発言よりキモくてコミュ力の低い俺の「昨日期限の書類の提出お願いしてもいいですか」って発言の方が100倍不快だし100倍セクハラ罪として重いわけ"

"大変申し訳ないのだけれど、例の記事は、女に同情するふりをして、実際は女は人生も自分で決められないような存在だと哀れみながら書かれたんじゃないか? とすら邪推してしまった。"

一見「女性が生きやすい社会になりますように」的な内容で支持を集めた元記事。しかしそこから醸し出される、どうしても拭えない違和感について、男性も女性もそれぞれが抱いた感想と意見を述べている。全然ピンとこなかった僕も、何がそんなに盛り上がっているんだ?という感じでチェックしていた。匿名ダイアリーに投稿した人々は、元記事を大雑把に言って

  • モテ男性の非モテに対する、これでもかというマウント
  • 一見女性に優しいふりして食い物にしているだけの女性蔑視

こんな感じに捉えたようだ。ここで、挙句の果てに、爆弾怪文書が投稿された。

なんでこんなことをいま書いたかと言うと、はてブを見ていてたまたま見つけたバズっているエッセイの著者が彼だったからだ。

うーん、この先の展開はどうなるのか。行末を見守りたい。というか、これ以上の展開があるのか?件のnoteを書いた人は、3/12でTwitterの更新が止まっている。

「少女マンガのブサイク女子考」を読んで

まず第一に思ったのは、自分は容姿の美醜についてそんなに深刻に考えたことなかったなーということ。だからここで語られているように、容姿が人生を左右するかのような扱いは驚きだった。そして、それが女性にとってはあたかも常識であるかのように語られていることも。なんとなくは知っていたが、ここまでとは思わなかった。

というのも、ここで紹介されるマンガ内で、ブサイク女子は存在否定に近い虐げを受けている。ひどいものだと、親兄弟周りから生きる価値がないと罵られる。ただブサイクだというだけで。ブサイクというのはそこまで絶対的な指標なのだろうか。基準はコロコロ変わるもんだと思うんだけど。マンガによっては、特に近年描かれたものだとそこまでひどくはない。ただ一貫して、恋愛の対象外、論外、土俵に上がれない立場として描かれている。

とにかくまあ、ブサイク女子の生き様を中心に描かれた少女マンガばかり集めて解説しているのが、この「少女マンガのブサイク女子考」という本。ブサイクを侮辱したり虐げたりするのは、女性同士のほうが多く描かれている。男性はまあ、実際のところブサイク女子なんて眼中にないことが多いだろう。存在を意識しない。無視しているところがある。女性同士はなぜか、そうもいかないようだ。あとは親。ブサイク女子マンガには、よく親問題が出てくる。親はブサイク女子を人間と認めていない。そんなことって現実にあるのだろうか。

自分はどうだっただろう。思春期の頃は多少顔の造形も気にしていた。周りにはかっこいい人もそうでない人もいた。高校生ぐらいの頃は、だいたい同じレベルの人たちが固まっていたように思う。かっこいい人はかっこいい人同士、醜い人は醜い人同士。自分はどうだったか。真ん中だったんじゃないかな。

現代だとまだ、男性的な容姿の捉え方と女性的な容姿の捉え方には差があるかもしれない。それは社会的な扱いに根ざしたものなのかもしれない。女性の方が社会的権力、財力、立場が上だったら、それでも美容を頑張っていただろうか。男性が選ばれ、養われる立場だったら、男性が美容を頑張っていたこともあるかもしれない。昆虫のように。

男性だって、もちろん選ばれている。基準は容姿、財力、性格といったところか。この基準だと、明らかに財力は女性の基準と異なる。女性が選ばれる場合にあたって、財力はむしろマイナスに作用することもある。男性にそれはないだろう。金持ちだから、という理由で嫌がる女性の話を聞いたことがない。容姿については、男性の方が女性の容姿を重視すると聞いたことがある。それはまあ、女性の財力がマイナスに働くことなどと相絡まって、複雑に作用している。

マンガにおけるブサイク女子は、ブサイク女子のままかっこいい男性に好かれる。現実においても可能性はなくはないだろう。そんなに多くはない。その場合容姿がどうとかっていうことを帳消しにする魅力が求められる。ありのままの自分のままで受け入れてもらえるのは、相性が良かったときだけ。このあたりは男性も同じだと思う。

少女マンガだから、ブサイク女子でも決まってめちゃくちゃかっこいい男性にアプローチする。美人よりむしろ、ブサイク女子のほうが男性の容姿に厳しいんじゃないだろうか。どうなんだろ、現実では違うのかな?容姿にコンプレックスを抱く人間が、結局容姿の良し悪しで相手を選んでいるのは本当に皮肉なことだ。ブサイクな女子でもかっこいい男性を射止めるという夢を描きたいだけなのだろうか。現実では顔で選ばないことも多々あるのに。

自分が読みたいと思ったのは、「終電車」「宇宙を駆けるよだか」「薔薇のために」あたり。

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ブルーブラック

先日アトロクを聞いていたら、オバマが使っているボールペンの話をしていた。アトロクでは最近オバマ元大統領の特集を行っており、これまでに2020年の音楽プレイリストや、2020年の推薦図書を紹介している。そしてついに文房具にまできた。

オバマ元大統領が使用しているボールペンは、三菱鉛筆のユニボール・ビジョンエリート・ブルーブラックだそうです!

https://www.newsweekjapan.jp/nippon/season2/2021/01/310492.php

日本の文房具!番組の解説によると、アメリカでは油性よりも水性ボールペンが一般的であり、ビジョンエリートは飛行機の中でもインク漏れを起こしにくく、飛行機によく乗るようなエリートのためのボールペンだとか。

なお、ビジョンエリートは元々海外向けの商品で、日本では廃盤になっており再販の予定はないとか。Amazonなどを探せば在庫が手に入るかもしれない。

僕が気になったのは、タイトルにしたようにブルーブラックというインクの色。PARKERのボールペンをもらったときにも、インクの色は青だった。外国にいた頃も、確かに黒ボールペンより青ボールペンが一般的だった。「黒インクは滑らかに出にくいから」と聞いたことがあったが、ブルーインクを使用するのはどうやら万年筆の名残りのようだ。万年筆で伝統的に使用されていたブルーブラックという色が、ボールペンになっても引き継がれている。

日本だと青インクのボールペンなんてほとんど使われないが、欧米だけでなくアジア圏でもよく使われているそうだ。ブルーブラック、ちょっと使ってみたいではないか。オバマどうこうは別として。

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文具ファンの間ではブルーブラックが一番人気みたいですね。これもやはり万年筆からの流れなのか。

3.7

「邦キチ! 映子さん」の1巻を読んだ。一話ごとのページ数は少ないんだけど、情報量が多く1巻読むだけで大変だった。どういうマンガかというと、映画を語る部活を立ち上げた部長のもとに、新入部員として入ってくる映子が邦画のキワモノを愛する女子だったという話。1話ごとにひとつ邦画が紹介される。知っている映画もあれば、知らない映画もある。どれも破綻した語り口で、本当にこんなクソ映画が存在するのか?という気持ちになる。

Webコミックなので、連載中の一部は無料で読めます。

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いつぶりかわからないぐらい久しぶりに、耳鼻科に通っています。おかげで今のところ花粉症の症状は、ほぼ全くない。医者に通う直前まで苦しんでいたのにも関わらず、毎日の薬と点鼻薬でピタッと治まっている。これまでいろんな耳鼻科を転々としてきて、レーザー手術もやったが全く効果がなかった。それも10年前。昨今の医療技術の進歩なのかなー。くしゃみ鼻水鼻詰まりがなくなった分、鼻の奥に膿が溜まるようになった。今はこれをなんとかしたい。

自己管理用のお薬手帳をEvernoteに作った。写真を撮って貼り付けている。

メルカリで受取評価されない

メルカリをずっと利用しているんだけど、最近受取評価をしない人が増えた。メッセージや連絡はあってもなくてもいい。でも受取評価がないと、いつまで経っても代金が入らない。買った方は物さえ届けばいいから、わざわざ受取評価をする必要がなく、放ったらかしにされる。そのまま受取評価がないと、1週間後ぐらいに取引は強制終了。お互いの評価はなし。お金は一応入るが、とにかく待たないといけない。そのうち購入者は全く受け取り評価しなくなるんじゃないだろうか。そうなると今のメルカリのシステムも破綻する。

メルカリは評価しないと取引が完了しない設計になっており、一度評価すると変更できない。自分が評価を完了するまで、相手がどちらの評価をしたか見られない。ヤフオクの評価は、取引とは別に任意となっている。後で変更も可能。ジモティーも確か同じだった。メルカリもそうなっていくのだろうか。サービス開始以来、移り変わってゆくメルカリ。評価を気にしなくていい状態にはなってほしいものだ。

2.27

「他者の苦痛へのまなざし」の問に答えはあっただろうか。「他者の苦痛へのまなざし」で書かれていたことを端折って抜き出すと、

人間は裸の写真を求めるのと同じぐらい、グロい写真(ひどい写真、傷ついている写真)を求める性質がある。アートだ、報道だと言って、惨状を写した写真が消費されている背景には、人間の「ひどいものを見たい」という欲望がある。それは一部の特殊な性癖ではなく、太古においてはコロシアムやギロチン処刑が大衆娯楽だったこと、事故現場などをつい覗きたくなる衝動など、多くの人が抱く一般的な性質として説明されている。

それでは、そんな欲求を満たすために撮られた写真、アート写真でも報道写真でも、他者の苦痛を写した写真は、倫理的にOKなのだろうか?撮っていいのか?掲載されていいのだろうか?許されるのか?セルフポートレートならいいのか?消費構造そのものに問題があるのか?それとも問題ないのか?芸術に昇華していればいいのか?報道としての意義があればいいのか?

「他者の苦痛へのまなざし」は、そのまなざしの裏にある欲望についての本だった。結論はどうだったっけ、忘れた。いずれにせよ、現実にはひどい写真、グロい写真、人が傷ついている写真であふれている。

[asin:4622070472:detail]

Googleフォト終了に伴い、いろいろ見直していた。その一つとして、Evernoteの利用を再開した。Evernoteはずっと使い続けてはいたが、アクティブユーザーと呼べるほどではなかった。Evernoteでは主にメモ代わりの写真の保管や、Webクリップを使うようになる。Googleフォトの用途とは全然被らない。

Webクリップはその昔Pocketというアプリを利用していた。しかしあまりにも溜め込んでしまい、そのうえ全く読まなくなったため、使うのをやめた。それでも最近Webクリップを再開したのは、一度読んだものを参照したくなったときに、保存していないとたどり着けなくなったから。どう検索すればいいのかわからない。たどり着いても時間が経って有料版になって全文読めなくなっていたりする。記事自体が亡くなっていることも多い。

Webクリップを有効活用するコツは、気になるもの、読みたいものをクリップするのではなく、一度読んで残しておきたいと思った内容のみクリップすること。一度読み終えても残しておきたい記事のみ、クリップしよう。Evernoteは現時点で月60MB分なら無料でアップロードできる。ストレージの上限はない。最近クリップしたのはこちら。

他にもGoogleフォトの代用を探さないといけない。保管場所としてはdropboxももうちょっと容量が残っているため、写真などを入れていこうと思う。Googleフォトを無理にやめなくても、使いたい人は利用料を支払って使い続ければいいと思う。

Evernote

Evernote

  • Evernote
  • 仕事効率化
  • 無料

「花束みたいな恋をした」を見に行く予定

前評判を聞いた限りでは、自分の感性とあまり合わないかなーと思いつつ、やたらと話題になっていたからお祭り映画として見に行くことにした。

内容に乗れるかはともかく、自然な演技が評判いいです。そして、この映画を見ることの本当の意義は、話題に乗っかれること。そういう意味において、この映画はお祭り映画だと言える。先々週のアトロクは花束の話題で一週間持ちきりだった。一週間ずっと同じ映画の話題が続いて、別冊でネタバレトークが特集されるのはテネット以来。

宇多丸さんがオープニングトークで各曜日パートナーにこの話を振るから、毎日それぞれの回答が聞ける。

他には、いつも聞いている底辺文化系トークラジオ「二九歳までの地図」でも、パート2に渡ってのポッドキャストが公開されている。

こちらは先日Clubhouseでも花束についての公開トークが行われていたが、まだ見ていないため参加せず。唯一の機会を逃してしまった。

というわけで、来週見に行く予定です。見に行ったら感想を書くかもしれない。とりあえず、やっとこれらのコンテンツに手を出せるようになる…。既に乗り遅れた感はあるのですが、コンテンツは残るため今からでも楽しめる。僕のように乗り遅れた人も、どうぞ今から参戦しましょう。映画はまだやっています。

ヒトコトへの回答⑲:自己肯定感について

久しぶりにメッセージが来た。このブログではGoogleフォームからご意見などを頂いております。スマートフォンでページを一番下までスクロールしてもらえば出てくるアレです。それをときどき拾って回答してたりします。

64通目:自己肯定感とか

こんにちは、毎回興味深く読ませていただいています。一言ではなく三つ質問です

過去の記事を見返したりしますか

かなり多くの記事を長い期間投稿していますが、見返したりする事はあるんでしょうか?
ああ、あの時はこんな事していたなとか、こんな気持ちだったんだなとか
どうでしょうか?また逆に消したくなるような恥ずかしくなった記事とかありますか?
教えてください

過去の内容は、ときどき読み返します。「この話前に書いたっけ?」と思って検索することが多いです。一度書いたことを忘れてしまうから。消したくなるような恥ずかしい内容は覚えていないけれど、表現が過激だとか警告が来て消したものはあります。消したくなると思うことは、多々あったようです。

ブログを消そうと思うこと - Letter from Kyoto

自己肯定感について

最近自己肯定感について考えています。
川添さんは幼い時から周りと比べると変わっていたという風に記事を書かれていますよね?
他者と自分を比較しての差異が嫌になる事はなかったんでしょうか?
ブログから伝わってくるのは肯定も否定もないただただ冷静に周りを見ているドライな人間像です。もし考えた事や悩んだ事があるなら聞きたいです。
どうやって自分を肯定しているのかもしくはそういうのは考えた事はない、どうでしょうか?

他者と自分を比較して差異が嫌になる事、あったかな?幼い頃は、差異が嫌というより、相手を理解できないこと、自分が理解されないことが嫌だった。誰ともわかりあえないと、自分がこの世でたった一人である感覚が強く、それがつらかった。外国で自分一人だけ言葉が通じないことを想像してもらうとわかりやすい。だから周りを理解しようとしたし、自分をうまく説明しようとした。でもそのうちあきらめた。

自己肯定感について、僕の意見はまず、自己肯定感ってなんなのかよくわからない、意識したことがないというのが最初の意見です。一度臨床心理士の知り合いに「自己肯定感ってなんなの?」と聞いたことがあって「自信とか自己評価のこと」と返ってきた。「あつかましい人は大丈夫」とも言われた。

自己肯定感の話でよく言うのが、「自己肯定感って必要なの?」という疑問。僕は自分に自信なんてなく、肯定もしていない。どちらかというと自己否定側。自己肯定感なんていうフワフワしたものが、なんで重要視されるのかがわからない。誰か教えて下さい。あったらなんか役に立つの?自己肯定感という言葉に囚われているだけでは?

毎日繰り返し積み重ねている事

毎日欠かさずしている事はありますか。
一つ前の質問の肯定感に関わってくるのですが、最近自分は毎日積み上げているものがあればそれは強力に自分を支えてくれる自信になるのではという考えが浮かんでいます。
筋トレだったり走る事だったりレコードを磨くことだったり、最初は意識していてけれど気づくと毎日行っている習慣やそれをすることでの心境や生活の変化を教えてください

ないですね。習慣について、長々と書いたことがあるから興味があったら読んでみてください。

習慣について - Letter from Kyoto

自分はそもそも、日々を生きていくのに肯定感や自信は必要ないと思っている、という話はさっき書いた通りです。肯定感や自信って、あったらなんか意味あるんですか?

また日本人に生まれるとどうしても大多数の人は周りとの比較で自分を測ってしまいがちだと思っているのですが。そういった比較するヒエラルキーから抜け出すにはどうすれば自分を確立して貫き通した生き方ができると思いますか? すいません質問が4つになってしまいました。

あまり参考にならないかもしれないけれど、僕が幼い頃からやってきたことは、自分と向き合うこと。自分は何が好きで何が嫌いか、何がしたいのか、何をしたくないのか、どういう性格なのか、どういう人物なのか。自分を俯瞰的に見る。自分を観察して、考察する。人からの評価や判断、基準ではなく、自分で自分と向き合い、理解する。自分以上に自分を理解できる人はいないと思っています。自分が自分の秘書になるような感じ。

どうやるか。僕がやってきたことの一つは、こうやって文字に起こすこと。それを自ら読み返す。正直に書くのがコツです。あとは人に話すこと。自分語りの壁役になってもらう。相手が許せば。

この自己検証は、他者を理解することにも応用できるから、人を知る上でも使ってみるといいと思います。ただ他者は自分ではないから、自分と根本的に違うため形式として理解できる程度にとどまります。

これまでのヒトコト、回答をまとめました。

「バーニング 納屋を焼く」を見た

村上春樹原作「納屋を焼く」の韓国映画「バーニング」を見ました。ずっと見たいと思っていた。監督イ・チャンドンも評判がよく、前から気になっていた。Netflixで配信が始まり、時間ができてようやく。

バーニング 劇場版 | Netflix

近年Netflixでも韓国ドラマが流行っていた。人からも勧められ、どんなもんかと思って見てみたけれど、いまいち乗れなかった。しかし、韓国映画は違うと聞いていた。近年ではパラサイトもカンヌ映画祭・米国アカデミー賞作品賞とダブル受賞しており、もう既に一定の評価がある。これまで全く注目していなかったから、どんなもんか気になっていた。

このバーニングは、けっこう好きなやつだった。2時間以上ある映画だけど、長さも苦痛ではなかった。僕が好きだった部分は、まず人物描写。主要人物のどれをとっても特徴的なのに、誇張というか、わざとらしさを感じない。わかりやすいんだけど「わかりやすくやってます」感が薄く、自然に受け入れられた。主人公ジョンスも、女の子ヘミも、金持ちのおっさんベンも、韓国のその辺にいそう。僕が韓国のリアルを全然知らないから、違和感なく見れた部分はあるのかもしれない。

人物描写といえば、韓国映画でもドラマでもとにかく見ていて引っかかるのが、めちゃくちゃ性格の悪い登場人物たち。リアルなんだろうけど、見てられない。そういうメンタルの人物描写をとにかく視界に入れたくなくて、韓国モノを遠ざけていた部分があった。しかし今回見たバーニングはそういう心配をする必要がなかった。前に見た『新感染』には昔ながらのわかりやすい性格悪い人が出ていて、韓国映画全部が性格の悪い人物描写をやめたわけではない。

主人公のジョンスというキャラクターは、現実にこんなやついる感じがすごかった。失業率が高い韓国社会。兵役を終え、定職につくのも難しい中バイトで生活をしている。父親が傷害事件を起こしてしまったため、実家に戻ることになった。特に優れた人物ではなく、特徴のない普通の人物。普通の人物が普通に抱える問題、挫折、感情を映画の中でそのまま表現している。普通の人が、普通じゃないけれどよくあるような事件に遭遇したときの、反応。よく出ている。

人物描写に続いて好きだったのが、生活感。特に家がよかった。ちょっとした田舎にあるプレハブ小屋のようなジョンスの実家も、坂の上にあり日当たりも悪くめちゃくちゃ狭いヘミの部屋も、実に生々しい。現実の家をそのまま使ったような生活感だった。ベンの金持ち部屋は、あーいう生活を知らないからよくわからない。

生活描写をリアルに描いた映画が好きだということを、しみじみ実感する。外国の映画だと、リアルとファンタジーの中間のようなところがいい。どこかに確実にある別世界を体験している感覚。比較的最近に見た映画だと、パターソンなんかが生活映画。ローマとかも生活映画だった。生活映画LOVEです。

内容については若干ネタバレになるため、見ていない人は先に見ることをおすすめします。

結末まで見て、たけしの映画にすごく似ていると感じた。こういう方向で締めるのかと。ベンがやたらとジョンスに絡んでいたのも、自分の本質にまでたどり着いてくれる、自分を理解してくれる、自分を殺してくれるのがジョンスだということを見抜いていたからだろう。最初の方はずっと、ベンもヘミも一体なんなんだろうと思っていたが、そういう話だということを最後まで見てやっとわかった。アニメPSYCHO-PASSにも似ている。ベンは僕がこれまで見た中で、もっとも爽やかな快楽殺人者だった。

[asin:B07VVTJG3Y:detail]

1/31

足が縮む。今日は準備をおこたった。用意していなかった。わかっていたのにどうにかなると思った。どうにかなったにはなったが、時間はかけなかったから、通り過ぎた。

昔の記録、まんべんなく、今日も感想と行ったり来たり集中していた。全体を把握したかった。最後は、光明に向けたものなんじゃないか。これまでの系譜を踏まえ、男女の証明を残したかったのではないか。これこそが「愛のかたち」だったように思う。生まれてきた証。僕はそういうふうに感じたし、そう思って振り返るとよくわかる。嘘偽りではなく、並べ替えの妙。認識の齟齬。

はて、自分自身が追い詰める側、追い詰められる側にならないかという懸念は、杞憂だとわかっている。よく似ているところがある。性格。事例としては何があっただろう。典型的なものがあった気がする。追い詰めて、形にするといった。題材にしてしまう。ダルマの目を入れるとは、わかりやすい例えだった。

トイレから聞いたシャンソンは違うものだったからそのまま捨てた。偶然に期待するのはよくない。自ら見つけていく必要がある。同じ部分を払拭したい。本当はわからない。望んだわけではない。いや、望んでいたようにも思う。甘んじて受け入れるつもりはなかった。いまでも葛藤がある。おそらく、これからもずっとなくなることはないだろう。あきらめや予言ではなく、数学。

閉まっていた。二軒閉まっていた。足が縮んだ。もう一件は終わっていた。最後も終わりかけだった。入れ違いで驚いていた。罪悪感を医者に診てもらうべきか。

#Clubhouse に触れてみて雑感

既に語られていることばかりだと思うけれど、個人的な雑感。Clubhouseとは、といった基本的な機能の説明は端折ります。

オンライン・コワーキングスペース

Clubhouseをどう利用するか、ということについて考えたとき真っ先に思い浮かんだのが、コワーキングスペースの代用だった。このコロナの時代、現実にあるコワーキングスペースを利用するのは多少気が引ける。利用時間や利用形態、会話が制限されることもあり、少なくとも従来通りの形では利用できないだろう。

Clubhouseを利用することで、自宅がコワーキングスペースのようになる。Zoomと違うところは、まずはビデオカメラがないところ。さらにZoomのように招集をかけるのではなく、ルームというまさにコワーキングスペースのような場に集まる点。

ルームという特性

このルームがまさに、Clubhouseの一番特徴的な部分だと思う。会話の場を用意しておくだけ。もちろん人を呼んだり集めることもできるけれど、どちらかというと人が自主的に集まる場を設けて、その場で会話をするという設計になっている。この「部屋がある」という仕組みにより、会話のある場に気軽に出入りすることができる。

誰でも出入りできる部屋、フォローしている人だけ出入りできる部屋、呼んだ人だけ出入りできる部屋の3種類がある。

仲間内で使うのがベスト

Clubhouseを利用するには、今のところ誰かから招待してもらうのが一番早い。招待してもらった人は、新たに2人招待することができる。では、Clubhouseを利用して誰と会話するのかというと、招待してくれた人や招待した人、つまり仲間内で会話するのが僕はベストだと思う。

知らない人と会話したり、有名人の部屋に行ったりすることもできるんだけど、僕はあまりおもしろいと感じなかった。普段話している人と、オンラインで気軽に集まって会話するツールとして使うのが一番楽しい。

だから、Clubhouseを使うためだけに全然知らない人から招待してもらったり、メルカリで招待を買って参加しても、話す相手がいない。Clubhouseを楽しむためには、誰かが招待してくれるのを気長に待とう。意外とすぐに招待がくる。招待されてもいないのに無理矢理アカウントを作って、全く面識のない人と会話をしたり、知らない人同士の会話を聞いても僕は楽しくなかった。招かれていないパーティーに参加する気分。

フォロー、フォロワーを増やしまくってる

今現在見かけるのが、フォロー、フォロワーを増やしまくってる人。僕の個人的な利用の仕方では、あれはやらないほうがいい。ノイズが増えるだけ。さらにClubhouseはシステム上電話番号と結びついているから、素性が不確かな人とフォローを交わしても、無駄なリスクが増えるだけじゃないだろうか。

僕のように知人と交流するために利用するのではなく、あくまでオーディエンスに徹するというなら、芸能人をフォローしまくって追っかけ回すのもいいかもしれない。

ヤフーボイスチャット

Clubhouseに一番似たサービスは何か。それは往年のヤフーボイスチャットではないだろうか。ルームという構造は全く同じ。違うところは、当時スマートフォンなんてなかったからパソコンでしか利用できなかったところ。

当時のヤフーボイスチャットは、2ちゃんねると大差なかった。荒れ放題。Clubhouseがそうならないことを祈るばかり。

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学校が嫌いだった

バナナムーンゴールドを聞いていたら、学校の話題だった。学生時代の思い出話みたいなやつ。それで思い出した全然どうでもいいこと。

僕は学校否定派です。学校で学んだことは本当に何もなかった。社会性とか全く身につかなかった。行きたい人は行けばいい、行きたくない人は行かなくていい制度であってほしかった。学校が好きな人や、学校で学ぶことが多い人だけ十分に活用すればいい。日本だと半分ぐらいの人が、僕と同じ学校否定派なんじゃないかな?「学校にいい思い出無い」「学校のせいで人生狂った」っていう人はけっこういると思う。

もしかしたら、僕が行っていた学校が嫌なところだっただけかもしれない。よく夏休みといった長期休暇が続くと学校に行きたくなるとか言う人がいた。僕はそういうの全くなかった。ずっと休みが続けばいいと思っていた。テストだけ受けに学校行く制度でよかった。

学校がなければ、少年時代をもっといい時間として過ごせていたのにと思う。とにかく僕にとって、学校は無いほうがよかった。義務教育って事になっているけれど、だったら試験の点数さえよければ登校免除でいいだろう。習い事をしていたから友達もいた。趣味の友達もいた。同じ年齢というだけで、他に何の共通点もない人と同じ時間を過ごすよりも、年齢も住む場所も関係なく何か同じことを一緒にやれる人と関わるほうがよほど実になる。

まあ、大学みたいな学校だったらいい。授業も関わり方も自分で選べるタイプの。小学校からずっとあの形式だったらよかったのにと思う。選べない人、右に倣えしかできない人だけ、従来の義務教育を選べばいい。もしくは試験でいい点を取れない人だけ、一律の教育を受けさせるとか。

勉強は塾で学んでいた。友達も先生も塾にいた。塾と学校の違いは、気持ち悪いベタベタした部分がないところだろうか。お金払っているだけあって、あっさりしていた。学校もそれでよかった。気持ち悪い情操教育みたいなのいらない。

集団行動が嫌いで、そういうのを全部避けたかった。避けられるものは避けていたし、強制されるものは我慢していた。そういうの、本当に全部いらない。苦痛でしかない。学校はいい思い出がなくて、嫌な思い出ばかり。トラウマも多い。先生にみんなの前で恥かかされるとか、僕の世代はまだ先生に殴られることも多かった。百害あって一利なしだと思います。

あと、社会に出れば学生時代がいかに楽だったかわかる、とか、学生時代に戻りたいって言う声も聞いたことある。僕は全く逆です。小中は特に、悪夢でしかなかった。唯一大学生の頃だけ戻りたい。金も希望も充実もなかったけれど、自由があり責任はなかったのが大学時代。自由も責任もなかったのがそれ以前、どちらもあるのが大人。

あまりに嫌だったせいで学校アレルギーになっているところはある。クラスにいた全然楽しそうにしていないやつ。呪いを散布してそうなやつ。あれが俺です。『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』で、爺さんが孫に学校へ行かせない方針をとっていて、素直に賛成だと思った。ただあの娘には、何らかの形で人と関わらせることはしたほうがいいと思う。横並びの世界には入らなくていいけれど、外の世界には触れたほうがいい。