1ヶ月ダイエットをしていました

今月の頭からダイエットをしている。ちょうど1ヶ月で、3.4kg体重が減った。具体的にやったことは、まず昼飯を抜いた。結婚前の数年は昼飯をほとんど食べていなかった。結婚してから食べるようになり、やはりなくていいかなと思っていた。この1ヶ月間で、昼飯を食べたのは週1日の休日と、それ以外に2度ほど。ちょうど一週間分ぐらいだろうか。

他にやったことは、AppleWatchのムーブ目標を600kcalに変えたこと。これまでは300kcalで、ほぼ毎日達成していた。倍の600kcalにすると、ほぼ毎日目標達成しなくなった。目標だけ変えてもあまり意味がなかった。邁進しないという意味はあったかもしれない。

体重は、今ちょうど60kgある。自分のベスト体重、というか一番過ごしやすかった体重は53kgで、まだ7kgほど重い。今から6年前、2015年の頃の体重は48kgで軽すぎた。周りからもガリガリと言われていた。自分はガリガリ憧れがあったから嬉しかったが、あまり健康的ではなかった。朝も昼も夜もほとんど食べない。食事はサンドイッチかパスタか、インスタントラーメン。もしくはクッキー、ビール。外国にいたからなんだけど。

6年前は48kg、2年前に測ったときが58kg、今月頭の時点でも63.4kg。10kg、5kgとみるみる太った。一番重いときで65kgあったと思う。6年前は肉体労働だったから、筋肉も落ちた。太った原因は運動不足と食事。ほぼそれだけ。だからその2点を解消しようと、この1ヶ月取り組んだ。

運動不足の解消は無理だった。以前は自転車移動の距離が長く、必然的に移動せざるを得なかったが、今はその時間を家で過ごすことに使っている。夜7時から8時の間に食事を始め、食後に落ち着いたり後片付けをしていれば9時になる。あっという間。10時半には風呂を掃除して沸かし、11時に猫の餌をやり、奥さんが風呂に入る。奥さんは1時間で出るから、12時から1時の間に僕が入る。僕は30分ぐらいであがる。すると寝るのは1時半から2時。

僕が自由に使える時間は、食後の後片付けの後の1時間半と、奥さんが風呂に入っている間の1時間。1日で唯一自由に使える2時間半を、僕はどうやって過ごしていたっけ?食事の延長でドラマや映画を見ていることも多い。酒を飲んでいることも多い。iPhoneを眺めていたら一瞬で終わる。日記を書いたり本を読むこともある。買い物に行くこともある(近所のスーパーは12時までやってる)。掃除機をかけたり、コーヒー豆を煎ったりしていることもある。

ここに運動は入れたくない。例えば1時間運動するとなると、自由に過ごせる時間はさらに短くなる。運動は僕にとって退屈で苦痛で時間を食う作業だから、何かのついででないと本当に嫌になる。朝とか本当に嫌だ。僕は猫に起こされるため、夜に熟睡できる日がほとんどない。一週間に1日もない。だから、朝起きてジョギングとかしていたら気が狂う。

そういうわけで、実質食事制限(昼飯抜き)だけでこの1ヶ月に3.4kg減らした。昼を食べないことは全然苦痛ではないから、このまま維持していこうと思う。でも運動しないとこれ以上は減らないだろうなという気もする。

にしな:ヘビースモーク

この歌はSpotifyのCMで知った。Spotifyはポッドキャストを聞くのが中心になり、今は課金していないからCMが入る。この歌が何度もリピートされて流れていた。CMではサビしか流れておらず、何度も聞いているうちに全編聴きたくなって聴いてみた。ミュージックステーションに出ていたらしく、それで知った人も多いかもしれない。

イントロからして、懐かしい感じ。タバコの歌というのもいい。学生の自主制作映画みたいなビデオも合っている。初期に上げられているアコースティック版よりも、こちらはかなり洗練されている。曲全体が歌の雰囲気をしっかり強調している。Coccoとかyuiとかあの系統のにおいがする。

こっちのほうが好きな人もいるのかもしれない。曲調がガラッと変わって明るい。個人的にはあまりインパクトがなかった。弾き語りなら、ワンルームのほうが良いと感じた。

こっちはなんというか、往年のベタベタ青春ソングという感じ。というか尾崎豊。だいたいうまくいかない片思いソングとか失恋ソングは共感を呼びやすい。弾き語りが曲に合っている。感情の乗る声、発声のしかたがよい。歌いたいやつ。

たとえば、はてなで

自分は横のつながりがない方だったから、こういう連帯感とかコミュニティの感じ、もっと言えば一つのシーンに乗っかっている感覚が薄かった。それでもブログ全盛期だった時期には利用していたし、そういったシーン全体の盛り上がりを横目で眺めていた。

だいたい黎明期、ARTIFACTとかアキバblogとか、「ブログと言えばライブドアかMovableTypeっしょ」という時期から始め、はてなを利用し始めたのはもう少し後。2010年代に入り、やっぱりphaさんとか山崎はるなさんのはみだしの名文を読んで、「こういうのいいな」と思った。

あの人とか、誰だっけ、ブロガーじゃないけれど玉置沙由里(MG)さんとかどうなったんだろ。僕の記憶だとタイに行ってからネット上で消息を絶った。

横のつながりも少しだけできた。それは全然第一線で活躍している有名ブロガーみたいなのではなく、同じぐらいの熱量でネットとかブログという文化に浸かっていた連中。誰と仲良くなりたいとか、会いたいといった願望は基本的になかったから、近くだったり機会があれば接点を持つ、という程度の仲だった。

例えば id:xKxAxKxid:kireinasekaiid:bibibi-sasa-1205id:akatokoyrid:mayonakanonamiid:quelle-onid:aniram-czechid:GOUNN69、このあたりの人とは直接会って話したことがある。他にもいたかも知れないが、頻繁にではない。大体の人は一回会ったことがあるだけ。このなかで、今も現役でブログを書いている人は、なんと誰もいない。たまに思い出したかのように更新されることはあるけれど、過去のような更新頻度で書いている人は一人もいない。めっきり、パッタリ、終わった。今となってはブログという形式そのものが廃れきってしまっている。若い人からすれば、全く馴染みがないだろう。

かつてブログで、はてなで知り合った人の中には、今もTwitterでつながっていたり、たまに反応したりすることもある。しかし僕らはベースとしてブログで、はてなで知り合った連中だから、そのベースであったブログが崩れてしまうと、なかなかやりとりは起きない。今はお互いがそれぞれの道を歩んでおり、共有できる話題を失った。

僕のような泡沫ブロガーは息が短かった分、離れるのも早かったのだと思う。何者にもなれなかった僕らは、アルファブロガーの面々に比べ「書くことがなくなった」という状態に陥るのも早かった。ネット上では「あの頃を一緒に過ごした彼らは今どこにいるんだろう?」という関係性の喪失が連綿と続いている。かつて2chのコテハンだった同士、ニコ動で生主だった人たち、mixi、ネットゲーム、Twitter、Tumblrを去っていった人たち、そしてブログ、もといはてな。

ブログシーンが廃れたのと、さらに書き手の高齢化が今の状態に至る大きな要因なのかな。最近でこそ自分は開き直って、どうでもいいことを書く頻度が上がった。けれど人に勧める気にはならない。書こうぜ、なんて今はとても。ただまあ当時のように、時間をかけてしっかり中身を考えて、更新頻度高く書こうと思わなければ、意外とどうでもいいことを書ける。それを書いたからと言って、意味はない。かつてのように、何かが起こるかもしれない予感もない。

記号的かっこいいものへの無条件な憧れ

例えばギターとかバイクとか、わかりやすくてベタだと思う記号的なかっこいいもの。まず形からしてかっこいい。これらに対して無条件に憧れを抱いてしまうところある。少年の、ヒーローに対する憧れも似たようなものだろう。ギターを所有したことはないけれど、バイクは乗っていた。運転が下手だった。教習所へ通っていたとき、教官から「バイクはカッコが命」と言われた。やはりバイクとはそういうものなのだろう。

僕が乗っていたバイクはあまりかっこいいものではなかった。安くて手軽なやつ。バイクのかっこよさにも種類があり、僕が若い頃流行っていたのはビッグスクーターだった。フュージョンとかフォルツァとか、当時めちゃくちゃ走っていたのに、今はほとんど見かけなくなった。SRとかクラブマン、エストレアのような、単気筒でレトロな見た目のものも流行っていた。今も時々見かける。ゼファーとかZRXとかバリオスとかスーパーフォアみたいなのは、周りで乗っている人はいなかった。

僕が乗っていたバイクはかっこいいものではなかったから、バイクにはどちらかというと、移動手段という利便性を求めていたところがある。他に、バイクに乗っている友人が多かったため、乗っていればツーリングに参加できるということもあった。数えるほどしか行ったことないが。バイク乗りの友人がいたのと、近所の人に誘われたのがきっかけで中型二輪免許を取った。僕の場合それがなければ、ただ「記号的かっこいいものへの無条件な憧れ」だけではバイクには乗らなかっただろう。でもそういうのが行動原理になることだって、大いにあるんじゃないか。

記号的かっこいいものへの無条件な憧れ。他にどんな例があるだろう。髪型とか服装は最たるものだ。ダンス、スケート、DJ、ピアノ、サックス、レコード、コーヒー、タバコ、お酒、ドラッグ、車、サーフィン、バックパッカー、写真、小説、自分が思いつくのはそんなもんか。他にもいろいろあると思う。こういうのを、かっこいいと思って手を出していたらなかなか恥ずかしい面もある。先ほどのバイクの話じゃないが「いや、僕は別にかっこいいと思ってカッコつけるためにやってるわけじゃないですけどね…」と言い訳したくなる。なんというか、やはりカッコつけている事自体がダサいから。

かっこいいかどうかは、客観的な結果であってほしい。入り口である動機が「かっこいいから」と言っている人はどう見てもかっこ悪いじゃないか。かっこ悪いからこそ、かっこいい状態を目指すのだ。間違っていない。結局は動機が何であれ、その先に到達した人はみんなかっこいい。ギターがかっこよくて始めました。と言う人がうまく弾けていたらやはりかっこいい。下手だとあんまり。中途半端だとかっこよくないんだ。上辺だけの人とか、うまくいかず対象をころころ変える人とか。

だいたいなんでそういうものをかっこいいと思うのだろう?思う人と思わない人がいる。ボクサーかっこいいとかプロレスラーかっこいいとか、思わない人もいる。バイクやギターだって、別にかっこいいと思わない人はいる。中2の頃はかっこいいと思ったけど、さすがに今は…という感想もある。年齢だけでなく、時代によっても違う。今の時代だったら何がかっこいいんだろう。フリースタイルラップとかなの?それもちょっと前か。わからない。時代の波についていけない。

とにかくまあ、かっこいいものというのはあまり普遍的なものではないらしい。時代だったり文化圏だったり層によって、憧れの対象やかっこいいとされるものが変わる。また「人にかっこよく思われたい」と「自分がかっこいいと思う」のも違う。人に思われたいなら流行りものだったり、かっこよく思われたい人に合わせて対象を変えることになる。主体性はない。自分がかっこいいと思うものを追いかけるだけなら、人はあまり関係ない。それでもある程度誰もがかっこいいと思っている分野に偏ってしまい、逆にかっこ悪いと思われている分野が好きだったら公言できないこともある。美術やアートの視点でAVやストリップを見ている人もいると思うが、そう公言するのはなかなか勇気がいりそうだ。

自分の幸せ

自分の幸せという発想は、昔からなかった。苦しい思いをしたくない、つらい思いをしたくないという気持ちはあるけれど、幸せになりたいというのとは違う。自分の幸せのため、幸せになるために何かしようとかって思ったことがない。幸せについて、あまり考えたことがなかったのだろう。自分にとっての幸せとは何か、という像がない。どうしたいのか。希望というか、理想がなかったから、あえて考えるまでもなかった。

僕は今、人生で最良の時間を過ごしている。予想もしていなかった生活であり、目指してもいなかった。たまたま転がり込んできたラッキーだった。だから、自分の幸せは今ここにある。それまでにもあった気がする。一人のときも、不安も大きかったがそれはそれで好き勝手やっていたから、良かった。自分にとって、自分の幸せは理想を描いたり目標を定めて勝ち取っていくものではなかった。身近に存在して、実感するかしないか曖昧なもの。あまり考えなくていいもの。

「闇金ウシジマくん」で、借金した友達を助けるために、事故のあった原発で除染処理の仕事をするという話があった。おそらく、つらく苦しい思いをして、命まで失うだろう。そこに自分の幸せはあるのだろうか。自分だったらやるだろうか。誰のためだったらやるだろうか。「やる」と答える人は意外と多いと思う。そして「やる」と答える人は、自分の幸せを見つけている人じゃないだろうか。

5.21

先日iMacのデザインが一新されたけれど、それに倣ってMacBook Airのデザインも変わったら、そろそろ買い替え時かなと思っている。今の12inch MacBookは2016年のもので、もう5年以上使っている。そろそろ限界だなーと思いつつもなかなか買い替えに渋っていたのは、長い間そんなに大きな変化がなかったから。単純にガワのデザインだけで言っても、僕の使っているローズゴールドのカラーはなくなり、ゴールド、シルバー、スペースグレーに減った。アルミ筐体はAirの初期から続いている。

低スペックのChromebookみたいなやつでもいいっちゃいい。長らくMacを使い続けていた一番大きな理由は、RAW現像だった。それもここ一年は全然していない。うーんでももう15年ぐらいMacを使い続けているから、このまま続けられるもんなら続けたい。パソコンでやることなんてもともとそんなになかったが、スマートフォンやタブレットに取って代わったかというとそんなことは全くない。少なくとも僕に至っては、今でもスマートフォンやタブレットよりパソコンを使い続けている。

Apple社製品同士の連携も捨てがたい。AppleWatchによるMacのロック解除や、AirPods ProのMac・iPhone間切り替えのスムーズさはとても使い勝手がいい。いや、本当にAirPodsがまた新たな市場を席巻して、Appleは盤石だなーとしみじみ実感している。なかなか揺るがないどころか、他社ではできない。スマートスピーカーはGoogleやAmazonに遅れを取っているけれど、スマートスピーカーってワイヤレスイヤホンほど売れてるのか?それぞれ得意分野が違って単純比較はあまり意味がないか。

5.18

人が真面目に生きている姿を見ると、応援したくなる反面、後ろめたい気持ちでいっぱいになりますね。人生と、世界と向き合って、よく頑張ってるなーと。私は全然なんでね、なんか申し訳ございません。さっきも中国で働いている知り合いのnoteを読んで、世の中を前に進めているなーと感心していた。だからといって自分も何か世の中を良くするために前向きに頑張ろうなんてことはこれっぽっちも思わないんだけど、さすがに多少引け目を感じるというか、そういうことってよくある。

僕は所詮自分としか向き合ってこなかった人間なんで、これからもそうだと自負しております。自分の欲望を満たすために人を犠牲にして悪いことをしてる、っていうほどではないんだけど、世のため人のためとか、できない。「人が喜んでくれると嬉しい」ってよく言うけど、自分にはそれが無いなー。他人が喜ぼうが悲しもうがどうでもいい。でも「人が喜ぶから」とかではなく、自らのライフワークとして世の中の重要な仕事を全うしている人もいて、何を言っても言い訳にしかならない。所詮僕は自分の世界にしか興味がない。

だから、すごいなーと尊敬しつつも、感化されることなくこれからものんびり暮らすのだと思う。何にコミットするわけでもはなく、せいぜい身の回りのことだけを考えて、前に進むことのない平凡な毎日を過ごす。今は安定しているから、後退することはあるかもしれない。自分の世界を生きるという意味では、もしかするとそれなりにコミットしてきたほうなのかもしれない。ただ世の中に対しては全く、何も。世界のことはあなた方に任せた。

個人にはそういう、公や社会のために尽くす義務なんて、無いと思う。市民としての責務、シティズンシップみたいなことから、僕は外れて生きてきたのではないか。もちろん制度上は十分恩恵を受けており、制度上の義務は果たしている。罰せられるから。でもそれ以上のもんはなんもねえっす。むしろ存在を無視されてきたんじゃないかなー。嫌なことしかなかった。

人と人との関係の中では、持ちつ持たれつ良くしていこうという気持ちはある。けれどそれが組織、公となってくると、呪いこそあれど報いる気持ちはこれっぽっちも浮かんでこない。だからなおさら、世の中をよくする動きをしている人を見ると、感心するわけです。自分はあーはなれないなと。

5.17

ネットニュースでもTwitterでもテレビでも、憂鬱なことしか言っていない。ワクチンがどうとか、会食がどうとか、オリンピックがどうとか、満員電車、IT担当大臣、接触確認アプリ、うんざりする。特に国内のニュースは見てられない。かつてそう思ったように、国外逃亡したいという気持ちが募る。ただ実際は日本国外のほうが大変なことも多く、現実から目をそらさないでいたい。それにしても、報道があまりにも扇情的というか。唯一の和みは小泉進次郎関連のニュースぐらい。

どうせ今できることはないんだから、大人しくしているしかない。世の中がどうなっているとか、人がどうしているかは、とりあえず無視しておこう。惑わされないように。重要ではない情報は制限しておいたほうが、心を健やかに保てる。さいわいにも、人と会いたいとか外食したいとか会食したいとか、元来そういう欲求が乏しい。このまま今まで通り、なるべく外へ出ないように過ごすのが一番なのだろう。もはや #StayHome とも言われなくなったな。ソーシャルディスタンスさえ。マスクと手洗い消毒がかろうじて残っている。

最近の感染者数は、年明けのピークに迫っているようだ。重症者はそれより多い。直接の知り合いに感染者が出たとき、近くにいた人で間違いなくかかっているからといってPCR検査はなし、症状が軽いため自宅待機、という人が何人もいた。彼らは感染者数にカウントされたのだろうか。潜在的な感染者はどれぐらいの数になるだろう。未知数だ。周りで人が集まっていようと、旅行していようと外食していようと、それで今まで感染していなかったとしても、自分はリスクを避ける行動をとっていたほうが安心する。

家でやる娯楽はたくさんある。最近は、以前に比べてめちゃくちゃ本を買っており、少しずつ読んでいる。気分に合わせて読む本をころころ変えているから、なかなか読み終わることがない。最近読んだのは「ソロー『森の生活』を漫画で読む」。映画は全然見られていないけれど、ときどき見ている。見たいのはたくさんある。最近見たのは、去年アトロクでも話題になっていた「メイキング・オブ・モータウン」。見たいのだと、これも去年話題になっていた「透明人間」とか、映画館でやっているのだと「ブックセラーズ」。ドラマは「This is us シーズン3」をようやく見終わった。それぐらい。

付加価値の生産みたいなことはやっていない。財を消費するばかり。日記の更新頻度を上げたり意味のない活動はしている。

今週のお題「やる気が出ない」

5.15

ショックなこと。おとついわかったことだけど、普段使いしているボールペンの替芯が潰れていた。まだ未開封なのに。ずっと前に買って、いつ交換する日が来てもいいようにずっとノートのポケットに挟んでいた。交換の日が来る前に潰れてしまった。これは使えるのだろうか。一応インクは漏れていない。

今使用中の芯も同じものなんだけど、前回交換したときも不幸な形だった。ボールペンを落とした弾みで先が潰れ、インクが出なくなって交換せざるをえなくなった。そうやって使い切る前に交換する事故が続いている。今回まだ交換してもいない新品の替芯がこんな形で潰れたのは、上に重いものを載せたからだろうか。それにしてもこんな潰れ方をするなんて、よっぽどだと思う。

このPARKERのペンはいったい誰にもらったものだったっけ。自分で買ったわけはない。会社員の頃から使用しているからもう10年以上になるんだけど、誰にもらったペンだったか全然覚えていない。

「本の読める場所を求めて」を読んだ

読みやすく、おもしろい本だった。内容を一言で言えば「本を読むのに適した場所がない!」と嘆く著者が、自ら試行錯誤を重ねて理想の店を作った話。理想の店とはどんな店か。渋谷と下北沢にある「本の読める店」だそうだ。

前半は、本を読むのに適した場所がなくて困り果てる著者が、ここでもないあそこでもないと街をさまよう姿を延々と描いている。自宅、ブックカフェ、図書館、喫茶店、一見読書しやすそうなところはいくらでもあるのに、どれもこれも全部、何かが違う。場所を変え変え行けども行けども、それらがいかに本を読むことに適していないか、そしていかに読書をする人が世間で冷遇されているか、体験談を踏まえて語っている。その体験の恨みつらみは、声高な煽り芸で主張されている。

その内容は「言われてみれば」と思うこともあれば、「神経質すぎるだろ」と思うこともある。同意できる点、できない点は人によって違うと思う。この内容をおもしろく読める人もいれば、このスタイルに苦手意識を感じる人もいるだろう。僕は単純に読みやすいと思った。ブログ的な文章だなと。

後半は、著者が「本の読める店を作りました!」という内容。この本を書かれた阿久津隆さんは、fuzkue(文机のことかな)という「本の読める店」を渋谷と下北沢で経営されている。2014年から始められて、今年2021年には3店舗目ができる予定みたいだ。うまく行ってるようですね。では「本の読める店」とは一体どういう店なのか?どうすることで「本の読める店」を実現することができたのか?その採算性も含め、コンセプトからルール作り、店を始めてからの具体的なエピソードと、方針の調整に基づく成功体験が記されている。

  • 前半:本を読むのに適した場所が全然ない!
  • 後半:本の読める店を作りました!
  • 「本の読める店」に行きたいか?
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ヒトコトへの回答㉒:遺伝、ブログを見た人と話す

このブログではGoogleフォームからご意見などを頂いております。スマートフォンでページを一番下までスクロールしてもらえば出てくるアレです。それをときどき拾って回答してたりします。

  • 67通目:遺伝、ブログを見た人と話す
    • 親と自分の共通項とか性格の遺伝について
    • 自分の内面を見られた上で人と接することについて
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お題「#新生活が捗る逸品」

お題「#新生活が捗る逸品」

最近買った、本とレコード以外の物といえばスニーカーだった。新生活がはかどる?新生活ってなんだ?4月から新年度でってことなのか?自分にとっては何も変わらない日常が続くだけなんだけど、逸品は逸品だった。

みんな知ってるニューバランスです。574と996で迷ったが、996にした。1300とかも考えたがUS・UKモデルしかなく3万円代だから、さすがにいいやと思って。久しぶりにニューバランスを履いてみて、それもサイズがしっくりくるものを履いて思ったのは、ふかふかだな。

靴のサイズを合わせるのが苦手で、去年買ったレザーのジャック・パーセルは履いているうちにだんだん大きいことがわかった。かといってハーフサイズ小さいのも合わせたけど幅がきつすぎた。ジャック・パーセルのレザーは足に合わなかったということかな。

今まで履き心地がいいと思ったのは、VANSのオールドスクールだった。でも1年ほど履いただけで擦り切れてボロボロになったから、その後あまり買っていない。今回買った996もけっこう良い。つい走り出したくなるやつ。そういう履いて外に出たくなるような靴は良い。脱ぎ履きもしやすい。欠点というか難点は、布地だから軽い雨が降っただけで染み込みやすいこと。それぐらいはしょうがない。

574ではなく996にした理由は、なんとなくの見た目です。L字がない方。あと574のほうがよく履かれているかなと思って。次買うときはホカオネオネを試してみたいです。

ヒトコトへの回答㉑:寂しさとか、

このブログではGoogleフォームからご意見などを頂いております。スマートフォンでページを一番下までスクロールしてもらえば出てくるアレです。それをときどき拾って回答してたりします。

66通目:寂しさとか、

寂しさとか、外に対して自分を発信していくことについて質問です。
いつも更新楽しみにブログ読ませてもらっています。 生きてきて寂しさを感じる事はありましたか?また寂しさについてどう思うか聞きたいです。 よくブログを拝見すると外に写真を撮りに行ったり、旅行を一人でしています。 自分はインドア派で一人で外出てもつまらないしなとか感じて、基本一人で外出してもうまく時間を潰せません。隣に誰かいたり複数人だったら感想を共有できたり、話相手がいればどんどん外で遊んでも大丈夫です。 でもその反動で一人で外に出ると寂しさとか何も無さを感じてしまいます。奇麗な景色や風景を見つけてもすぐに伝えられないし、分かち合えません。
でも逆にだからこそ一人で外に飛び出し知らない所、人と交わるのかなとも考えたりします。そんな風なこと考えたことありますか?
また上に続くのですが一人だからこそ外に情報を伝えるためにブログとか書いたりできるのでしょうか? 実は自分は何度かブログを始めたりしているのですが長く続いた試しがありません。始めると公開されているものだから定期的に更新しなきゃとか、観念に囚われて最初の気持ちが冷めてしまいます。
もう長い期間ブログをやっているのでライフワークのひとつだと思うのですが何か意見や考えがあれば書いて欲しいです。これからも更新楽しみにしています。

まず、僕の「寂しさ」について2015年に書いているから貼っておきます。

今これを読むと、どうなんだろう。とりあえず置いときます。

一人で行動することについて。例えば旅行は、僕は一人で行くことも数人で行くこともあり、それぞれ楽しみ方が異なる。インドア派と書かれているけれど、もし家で一人で過ごす楽しさを知っているのだとしたら、それを外に持っていくのが一人旅行だったり、一人の外出。それだけ。家と外の違いは、やることが違うだけで、楽しみ方は変わらない。一人で行動するときは、共有したり分かち合うのが目的ではないから。

ブログに書いたりしているのは、記録ですね。書き残しておきたいという気持ち。また自分の感想や思いをどこかで消化したいという気持ちもある。だからブログに書く。手帖でも日記帳でもいいんだけど、オープンな場所でないとちゃんとした言葉で書かないからブログに書く。一人とか数人とかは関係ない。例えば、人と行った旅行の話も書いている。

結婚してからは奥さんに話すことによって、消化して満足することが多くなった。書き残すまでもないや、と思って書かなくなったことも多い。これは僕が体験や考え方を一方的に話すだけで、人との共有や分かち合うこととは違う。一方的な消化。相手は体験も同意もしておらず、興味なかったり聞き流してくれる。それで構わない。壁打ちというよりも、灯籠を川に流すような感じに近い。

ブログが続かないのは単純に、書きたいことがないからじゃないのかな?もしくは書くことが大変で、そのハードルを超えてまで書くに至らないとか。

ここまで書いて、冒頭の寂しさの話に戻ります。寂しさを感じる事はあるか、という質問について。子供の頃は結構あったと思う。それ以降はあまりないんじゃないかなー。退屈とか暇な状態を「寂しい」と言うんだったら当てはまるかもしれないけれど、それはどうやら違うらしい。

僕が思うに、「寂しい」というのは感情や状態ではなく、人なんですよね。寂しい人。寂しい人だから、寂しいと感じる。寂しい人だから、一人でいる他人を見ても、寂しいと感じる。僕は寂しい人じゃないから、一人でいても寂しいと感じないんだと思う。「寂しい」は状態ではなく「人」に付属する要素。

「寂しい人」は一人であろうと、誰かと一緒に居ようと、本質的に寂しいんですよ。ただ人と居るとその瞬間は寂しさが紛れるというだけで、本質的に「寂しい人間」であることには変わりない。

じゃあその「寂しい人」「寂しい人間」ってなんなんだろうって話ですよね。「寂しい人」は、外から見ると要するに「一人じゃ不安な人」「常に誰かと居たい人」ということになる。なぜ「一人じゃ不安」なのか。わかんねー自信がないとかそういうの?寄る辺ないとか。でも僕だって、無人島で半年暮せば寂しいです。退屈で、人恋しくなるだろうな。だから結局僕もそのときは寂しい人。でも一週間も人と居れば、あと半年は一人で平気となるかもしれない。所詮程度の問題じゃないですか?

これまでのヒトコト、回答をまとめました。

「本についての、僕の本」を読んだ

こういうタイトルだけど、ここで紹介されている本はアメリカの写真集が多い。この「本についての、僕の本」を知ったのはInstagram上だった。写真の説明文としてこの本の文章が引用されており、原文を読みたいと思った。1988年のやや古い本で、雑誌ポパイで連載されていたコラムをまとめたものだそうだ。本屋などではおそらく見かけることがない。僕はまず、図書館で借りた。そして全部読み終える前に古本を購入した。

著者は片岡義男という作家。僕は全然知らなかった。作品も読んだことがない。Wikipediaによると父親が日系二世のハワイアンだそうで、アメリカ文化に精通しているのかもしれない。この「本についての、僕の本」で紹介されている本は、アメリカの文化を切り取った本ばかり。テディベアの本とかミッキーマウスグッズの本とかボーリングの本とかホットドッグの本とか、そのどれもがあまり興味の湧かない本。しかし、著者の紹介文が読ませる。一冊の本に対してわずか2ページから4ページの紹介なんだけど、実に上手くその魅力を語る。

そのバトン・ガールは、若い。躍動している。はちきれそうである。きっと美人だろう。太腿やふくらはぎが、素晴らしい。とは言え、彼女は決して特別の存在ではない。一九四〇年のアメリカのなかで、彼女のような女性をさがしたなら、困ってしまうほどにたくさんいたにちがいない。彼女は、ごく普通の人だ。しかし、まさにその普通の人として、彼女は、この写真の中で、ロススタインの写真的な力量によって、具現のようになりえている。
なにの具現かというと、アメリカの力の具現であり、ではその力とはどのようなものかというと、常に新しく自分を作り出していくことのできる力だ。そのような力に対する、信仰にも似た信念を、彼女はパレードの先端で具現している。具現することによって、彼女は、アメリカのなかで普通の人が持ちうる、あるいは持たなくてはいけない、尊厳のようなものを、端的に表現している。 P156

これはアーサー・ロススタインという人の「America in Photographs 1930-1980」という写真集の紹介文で、表紙になったパレードの写真について解説している。この紹介がなければ、この写真集のことは知らなかった。たとえ本屋で見かけたとしても手に取らなかっただろう。それが今僕はネットで注文してしまっている。見事にしてやられている。僕だけでなく、この文章を読んだ多くの読者が、全く興味もなかったはずの写真集を手にとって購入したんじゃないだろうか。この「アメリカの心がうたう歌が聞こえる」と題されたコラムは、公式サイトでも全文公開されているので、興味が湧いたらどうぞ。

この本の中では、36冊の本が紹介されている。そのうちさすがに全部とは言わないが、5冊は欲しい本が見つかった。手に入りそうにない本もある。ジョエル・マイヤーウィッツの「A Summer's Day」なんかは古本でいくつか見つかった。ルー・ストーメンの「Times Square」も、あるにはある。ただタイミングを逃せば見つからないだろう。もしくは海外からの輸入になる。ネットで海外通販なんて今どき珍しくないから、頑張れば手に入るか。送料と期間がどれぐらいかかるかはわからない。ゲイル・レヴィンの「Hopper's Places」もほしいけれど、そんなに安くは売っていない。

こういった、本が欲しくなる本は実に読んでいて楽しい。それが、聞いたこともないような本だったり、もともと全然興味が湧かなかったような本だったら、この本を読むという体験そのものが全て新しい発見になる。そして、この本を読んで欲しくなった本を買い、ページをめくるときも手元に置いておきたい。改めてコラムを読み、内容を照らし合わせて確認したい。それぐらい、「本についての、僕の本」は何度も楽しめる。

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今週のお題「おうち時間2021」

「ニッポンの海外旅行」を読んだ

この本は「日本の若者はなぜ海外旅行をしなくなったのか?」という疑問に端を発し、1960年代から2010年までの50年間における、日本の若者の海外旅行傾向の推移をまとめた本だった。僕みたいに旅行が生き甲斐だった時期のある人間からすれば、非常に興味深いテーマを扱っている。それぞれの時代で若者の旅行に影響を与えた「何でも見てやろう」(60年代)、「地球の歩き方」(70年代)、「深夜特急」(80年代)、「旅行人」と「アジアンジャパニーズ」(90年代)「猿岩石日記」(それ以降)などが全て出てくる。地球の歩き方は読み物ではなくガイドブックだけど、全部読んできた本ばかりだ。

この本では序盤に「日本の若者の海外旅行が著しく減っている」「とりわけバックパッカーは昔に比べると見る影もない」といったような書かれ方をしている。実際に海外渡航数のデータを引用して、少子化を考慮したとしても著しく減少していることを示している。ただ、自分としてはあまり実感がない。昔は本当にそんなたくさん旅行者がいたのか?

身の回りでは、自分より上の世代から海外旅行をしていた、それも個人旅行を楽しんでいたなんて話を聞いたことがない。むしろ海外に行ったことがない、飛行機が嫌いというような声の方がよく聞く。身の回りの事例は実数が少なく、当てにならないかもしれない。でも自分の印象としては、自分たち世代周辺のほうが、よりカジュアルに海外旅行をしている。

だからバックパッカーが多かった時代なんて、超局所的な現象なんじゃないだろうか?と疑ってしまう。例えば東京の一流大学の学生の間でだけ流行ったとか。旅行どころか旅行本を読んでいたという人の話さえ、ほとんど聞いたことがない。でも7・80年代に若者だった人は今50代だから、単にその世代とずっと接点がなかっただけかもしれない。

この本からわかることは、日本において海外旅行がいかに「商品」であったかということ。今も昔も多くの日本人は、通過儀礼として海外旅行を行っていたわけではなく、知的好奇心・探究心を満たすために海外へ飛び立ったわけでもない。ただ単に「海外旅行」という商品が、メディアによって時代に合った形で魅力的に紹介され、若者はそれに乗っかっていたに過ぎなかった。時代を経るに連れ、その宣伝媒体が「地球の歩き方」+格安航空券から「るるぶ」+HISへと移り変わった。旅行のスタイルも、時代が変わると共に変化していった。海外旅行もバックパッカーも、大人に仕掛けられたブームという点では同じであり、当事者である若者には主体性なんてなかったんだなと実感する。

この本が出たのは2010年で、僕が旅行を始めたのもちょうど2010年頃だった。この本に書かれていない、2010年以降の話をする。当時は既に情報社会だった。海外の情報なんてそこら中に溢れかえっており、わざわざ時間とお金を費やして現地に出向く海外旅行は、その魅力を提示するのがより困難になっていただろう。海外旅行の魅力なんて、実体験がなければ共感も得にくい。にもかかわらず、体験するためのハードルが高い。海外旅行はいわゆるコスパの悪い、非効率な娯楽、ないしは趣味だった。一部の物好きしか行わない。

このあたりは現代における趣味の多様化とも関連しているかもしれない。好きな人はとことん好きだし、やる人はとことんやる。けれどそれ以外の人からは全く縁遠い。こういった現象は、現代どの趣味においても共通した現象ではないだろうか。それぞれの分野を占める人口は、多様化に伴い減っている気がする。

この本に書かれている著者の結論については、どうなんだろう?というかよくわからない部分があるけれど、バックパッカーの文化史として非常におもしろく読めた。あまり残らないタイプの参考文献をめちゃくちゃよく調べ上げ、この本ができるまでさぞ大変だったんじゃないかと思う。日本のバックパッカーに興味がある人、その文化史に思いを馳せたい人は必読です。それは例えば、「何でも見てやろう」「深夜特急」なんかをおもしろく読んでいた人のことを指す。

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