最近買ったレコードとか

レコードを集めるようになってから1年経った。たくさん買っているわけではないけれど、徐々に増えていっている。その中でもとくに、ここ数ヶ月の間に買ったもの。だいたい月1枚は買うようにしている。

  • Federico Durand - Herbario
  • Jackie Mitto - The Keyboard King
  • Sun Ra - Lanquidity
  • The Heath Brothers - Marchin' On!
  • Miles Davis - Kind of Blue
  • Bill Evans Trio - Everybody Digs Bill Evans
  • 宇多田ヒカル - One Last Kiss
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続「生きづらさ」の本質について

最近「生きづらさってあった?」みたいなことを訊かれて、まあそりゃああったわなーと思うが、自分にとっての生きづらさとはなんだったのかと、ふと思い返してみた。人生の不安要素は健康(病気)、お金(食糧)、人間関係(パートナー含む)の3つだと言う。僕にとっての生きづらさは、ほぼお金の問題だった。人間関係でも、健康問題でもない。

「お金さえあれば、僕の生きづらさは解決する」と言ってしまえば、実に陳腐な人間のようだ。それが例えば、解決のしようがない病気や人間関係に比べると、実に安っぽい問題のようだ。僕にとっての生きづらさが、お金の問題、お金さえあれば解決する問題とは、どいうことか。それはつまり「お金さえあれば、やりたくないことをやらなくていい」という意味だ。お金がないから、食い扶持を稼ぐためにやりたくないことをやり続けてきた。

当たり前だろ、と思うかもしれない。みんなそうだ、甘えんな、と。言い換えれば、僕の場合、お金さえあれば隠遁生活を送る。山奥へ引きこもったり。良好な人間関係なんて全く望まない。僕から言わせれば「人間関係?どうでもいいだろ、甘えんな」である。僕がいかに人間関係をどうでもいいと思っているか、その事例として軽いエピソードを挙げる。僕がかつて集団生活をしていたときに、一人の男性と相部屋だった。彼は周りの全員から嫌われており、僕がその集団を抜けたあと、全員が彼との相部屋を拒否したそうだ。僕はその彼が嫌われていたことにも気づかなかった。同じ部屋でずっと寝起きしていた。それぐらい人間関係どうでもいい。

寂しさもあまり感じてこなかった。それよりなにより、やりたくないことをやることのほうがつらい。就職面接なんかで「本当はやりたくないけどお金のためにしかたなく」って言いたい。志望動機とか全部ウソ。大学生の頃「やりたいことがなければ、消去法で就職先を決めたらいい」と言われて決めた。僕は本当にやりたいことがなかったから、いろんな業種・業界を受けた。ことごとく落ちた。候補の共通点は、年間休日とかそういうのだったと思う。

世の中には、宝くじが当たっても仕事は辞めないっていう人がそこそこいると思う。もしくは、十分な蓄えがあってもなお仕事を続けている人は多い。それにひきかえ、僕なんかほとんど蓄えなくても辞めた。嫌すぎて辞めた。仕事の全部が全部嫌だったかというと、そういうわけではない。でもこのまま続けたら病むなーと思ってリタイアした。

冒頭で「生きづらさはお金の問題」と言ったが、給料に不満はなかった。お金の問題ではあるが、お金さえあればなんでもいいという意味ではない。仮に、倍の給料をもらっていても辞めたと思う。問題の本質は「やりたくないことをやる」という部分にあった。つまり僕にとっての生きづらさは「やりたくないことを、いやいやながらも前向きな顔して、やらなければいけないこと」である。やりたくないことをやらなくても、餓死しないだけのお金があったら、生きづらさから解放される。

「いやまあ、死んだら死んだでいいでしょ?」と割り切れたら、そもそも生きづらさなんて思うこともなかったんだろうな。現実的に死と向き合うと、それまでの過程がなかなか大変だ。その日暮らしで、ホームレスに行き着いて、食うに困って餓死、行き倒れ、寒さに耐えれず、病気になっても治療を受けられず、そういう最後が待っている。「生きづらさ」と天秤にかけるに値するだろうか。僕にとって、この世界を生きるということは、病むか、ホームレス、その二者択一だったように思う。そんなのどっちもどっちだろ。

だからまあ、まだ体が動くうちに、健康を害する前に好き勝手やっている。会社員を辞めたのが2013年で、それから8年経った。その間、半年とか1年とか、短い期間だけどやりたいわけではないことをあれこれやって、食いつないできた。それぐらいだとギリギリ耐えられたのかな。今生きづらいかっていうと、まだ差し迫ってないから、今のところは平気です。

僕から見れば、やりたくないことをやらなくても生きていけたり、何事もそこまでやりたくないと思わない人は、それだけで結構人生勝ち組だと思う。勝ち組って古い言葉だな。昔流行った。

「日本を降りる若者たち」を読んだ

2007年に出た新書。一年の大半をタイ、バンコク、カオサンロードの日本人宿で過ごし、残り数ヶ月だけ日本で働いて生活費を貯めるという、当時一部で流行った「外こもり(海外で引きこもり)」というライフスタイルを調査した本。どういう人が「外こもり」の生活スタイルを行っており、どういう背景でそこに至ったか。年齢は、きっかけは、収入源は、10数人インタビューしていくなかで、その分類と傾向が見えてくる。また、外こもりの現場としては主にタイを取材しているが、カンボジアや沖縄の話も少し登場する。

著者は旅行ライターの下川裕治。もともとは格安航空券を紹介する本で有名になった人。ガイドブックや紀行文、旅コラムのような本もたくさん出ている。この「日本を降りる若者たち」のような、ある種ジャーナリスティックというか、ノンフィクションめいた著作は、旅行本界隈では珍しいんじゃないか。楽しさや冒険、波乱万丈を描く旅行本が多い中で、「日本を降りる若者たち」では旅の裏側、現実、ダークサイドの実態調査を行っている。

ここに出てくる人、書かれていることは、ほぼ自分に当てはまると思った。全部が全部思い当たる。同時に、全部が全部自分ではない。例えば、第三章「ワーキングホリデーの果てに」に書かれていることは、ワーキングホリデーに行った人の半分ぐらいは当てはまると思う。

漠然と海外で暮らしたいと願っている若者は少なくない。そんな若者にとっても、ワーキングホリデーは都合のいい手段なのだろう。働くこともできるし、仕事がなければ英語学校に通えばいい。しかしそこで味わう生活には寂しさがつきまとうことが多い。自分から輪のなかに入っていかないと友だちもできないスタイルが欧米型の社会だ。日本人のなかにはそれが苦手な人が多い。
「前にがつがつ出ていくタイプじゃないんです。妙なところでは我が強いけど。オーストラリアでも、うまく溶け込んでいく人を見ていると、そういうこと、自分にはできないなって思っちゃうんです」
こういうタイプはやはりアジアなのだろうか。控えめが美徳であるという風土…。その言葉は肩の力が抜けるように響くのかもしれない。 P76-77

前半は、自分もそういう思惑でカナダへ行った。なんとなく海外の生活を体験したいというのが、一番の目的だった。学校も行ったし、アルバイトもした。ただまあ自分はその生活が寂しいとは全然思わなかった。話す人も、遊びに行く人もいた。現地のカナダ人、他の国から来ている人、自分と同じ立場の日本人、まんべんなく付き合いがあった。一人でも楽しかった。特に自分から前に出ていく方ではないけれど、住んだ家とかたまたま周りの環境がよかった。あと英語がある程度わかったのも大きい。

ワーキングホリデーでカナダやオーストラリアに来ている人は、半分以上が英語が全然ダメだった。僕も現地の語学学校に半年通ったから、そこそこになっただけ。ほとんどの日本人は3ヶ月とか、短い期間しか学校へ行かない。しかも最初のレベルが低い。英語が全然ダメでも、外国人と仲良くなる人はたくさんいる。そのあたりは性格に左右される。引っ込み思案で言葉もダメとなるとなかなか難しい。向こうへ行っても結局日本人とばかり一緒にいる人は、そういう人だったのかな。

ワーキングホリデーに行く人は、よくも悪くもこの本を先に読んでおいていいと思う。 #ワーキングホリデー #オススメ #ガイドブック #日本を降りる若者たち ぐらいで考えてもいい。ワーキングホリデーの前向きな情報を紹介する本やサイトはいくらでもある。この本でネガティブな側面、決してネガティブとも言い切れない側面を、まとめて読めるのは都合がいい。

他にも、自分には当てはまらないけれど留学リベンジ組や、シニアロングステイ組、鬱病回避型など、幅広い事例が紹介されている。この本が出てから10年以上経った今のバンコクでは、もう成り立たないかもしれない。ここに書かれているカオサンロードは、かつての桃源郷の姿かもしれない。旅行の文化史として読んでもおもしろいと思う。ただ僕は正直、ここに出てくる人たちのそれぞれが全く他人事ではない。

自分もこうだった、自分もこうなっていたかもしれないという身近な事例が満載で、心穏やかに読み進めることができなかった。自身が逃避先として外国に出たのは全く同じ。以前に感想を書いた本で「アジアンジャパニーズ」というものがある。「日本を降りる若者たち」は、言うならば「エモくないアジアンジャパニーズ」、「アジアンジャパニーズのなれの果て」。あの本を興味深く読めた人も、読みやすいとは思う。一見してやはり、暗いことばかり書かれている。

中には、あまり共感できなかった点もある。僕はそもそもタイやカオサンにそれほど魅力を感じなかった。僕が初めて行ったのが2011年だから、2007年当時とは様相が違うのかもしれない。東南アジアの大都市で、娯楽も観光地もある。コンビニ、スーパー、屋台、ショッピングモール、電気街、クラブ、ゴーゴーバー、なんでもある。少し移動すればタイ人だけが暮らす地域もあり、バスや電車で田舎にも行ける。便利だと思う。

でも、行ってもやることがないなーと思った。僕は観光旅行で行ったからそう思っただけで、生活の場となるとそもそもやることなんて求めないだろう。トロントもやることはなかった。単純に、タイにもタイ語にもタイ人にも特別な魅力を見出していないだけかもしれない。タイ語を学んで現地就職を目指す人のことも書かれていたが、全然やりたいと思わなかった。

もう一つ。僕は日本人宿に行ったことがない。外国へ行ってまで、あえて日本人ばかりのゲストハウスに泊まる意味がわからなかった。日本人宿のメリットは、旅行者だと情報交換ができたり旅の仲間を探せたりする、と言う。これは別に、日本人宿じゃなくてもできる。宿泊客が日本人同士で、生活習慣の違いを気にしなくていいとかもあるそうだが、僕はそういう日本らしさからの逃避で外国に行っていた。外国へ行ってまで日本の習慣なんて、まったく求めていなかった。

だから、これらカオサンの日本人宿を中心とした「外こもり文化」とは、基本的に相容れない部分も大きい。その源流となるバックパッカー文化も、乗れないところがたくさんある。それでもなお、彼らの話は一部僕の話であり、僕が憧れた部分もあり、自分がこうなったかもしれない姿だった。特に精神を患って、日本社会から脱するために「外こもり」をしている人の話では、日本で無視され続けた人間の行き着いた先にカオサンがあり、国内における社会病理の逃げ場として機能しているところなど、自分や身の回りの現実とめちゃくちゃリアリティを持って重ね合わせ、考えることができる。この本を読んでいると、思い浮かぶ顔がいくつもある。彼は、彼女は元気でやっているだろうか?同様に、僕の顔を思い浮かべる人もいるかもしれない。

7.2

6月は、あまり本を読めなかった。村上朝日堂を3冊読んだだけ。村上春樹のエッセイはスポーツドリンクを飲むのに等しくて、中身なんも覚えていない。読み切っていない本、つまみ食いはたくさんある。つまみ食い読書はまとまって頭に入ってこないから、一つの完結した本でこの読み方をやるのはあまりよくないなーと思う。

珍しく、ラジオを全然聞けていない。特に情報摂取系であるアト6がほぼ一ヶ月分まるまるたまっている。これはちょっともう消化できないなあ。29tizuもたまっている。雑談系であるバナナムーン、オーバーザサンあたりは消化している。中身の詰まっていない話しか聞けない。ときどきそういう周期がある。tani.fmは情報もあるけれど雑談でもある、ちょうど中間あたり。別冊アト6もそのはずなんだけど、こちらは長いからたまっている。雑談系の長い音声コンテンツは、一度止めてまた途中から聞いてもついてこれる構成だと聞きやすい。

ドラマは6月初旬に「ある家族の肖像/アイ・ノウ・ディス・マッチ・イズ・トゥルー」を見た。物語をちゃんと文学的に落としていくんだけど、久々に重いドラマ見たなーという感想。もともとNetflixなんかで重いドラマばかり見ていたけれど、最近はしんどくなって手を出していなかった。気軽に流し見できるようなのばかり選んでいた。社会的だったり、重いドラマが評価されるのはわかるんだけど、ちょっと多すぎやしませんかね。コブラ会(シーズン2を除く)みたいなのが見やすい。まあでも身近な不幸を詰め合わせした「ある家族の肖像」が評価されるのはわかる。おもしろかったです。それ以外は全然見てないかな。

映画はたくさん見た方。「孤狼の血」「希望のかなた」「凪待ち」「閃光のハサウェイ」、映画館で見たのは「閃光のハサウェイ」のみ。「孤狼の血」は評判がよかったからずっと見たいと思っていた。今年続編が公開される予定なんだけど、続編できんの?という内容だった。というかまあ、すごい正統派な映画で似たテーマを扱ったたけしの「アウトレイジ」より見やすい。「希望のかなた」もアキ・カウリスマキを見たことがなくて、ずっと興味あった。こんな映画作る人なんだーという感想。確かに小津安二郎っぽい。「凪待ち」は「孤狼の血」を見た流れで同じく白石和彌映画。香取慎吾当て書きと聞いて納得。「閃光のハサウェイ」は3部作だということで、どれか一つぐらい映画館で見てもいいんじゃないか。ハサウェイとギギのやりとりが村上春樹っぽかった。

ちょっと村上春樹どうこう言い過ぎな気がしている。ハルキストではないけれど、村上春樹ウォッチャーではある。村上Radioもだいたい聞いている。騎士団長殺しをいまだに読んでいないんだけど、最近はこの二冊が手元にある。

6月はコンテンツを消費することに疲れた月だった。摂取を控えていたと自覚してたけれど、こうやって並べてみると意外と摂取してたな。世の中のことよりも、手元足元のことに目を向けたいです。

よくある感覚

今はこれといって忙しいわけではないんだけど、気づいたら時間が過ぎている。1日が終わり、一週間が終わり、無意識のうちに月日が過ぎ去っていく。特に何をするわけでもなく。毎日あれこれやっているけれど、自分の意識がついていっておらず、自覚がない。体感というか、感覚がない。その場その場で意識はあっても、気づいたらもう通り過ぎてしまっているから、忘れている。今から思い返しても、事象はもう終わっている。浦島太郎状態。それどころか、思い出すことさえできない。

気持ちの余裕がないのかもしれない。このまま、生きている感覚がないままどんどん時間だけが進んでいくような気がする。だから、くさびを打ちたいと思ってこうやって書き残している。不連続な時間を生きている気がして、その時間と時間をなにか別のものでつなぐことで、意識というか自我を保とうとしている。

「何者かになりたい」ってどういう意味?

「何者かになりたい」って、要するに世間から認められたいとかちやほやされたいとか一旗揚げたいとかって意味なのかな?一昔前で言うところの「一人前になりたい」とか「一流になりたい」っていうより、世間的評価だったりフォロワーを気にする感じなのかな。

「有名になりたい」が一番近い言葉なのだろうか。世間一般で有名になれたら一番で、少なくともどこかの界隈では有名になりたい、ぐらいが「何者かになりたい」という言葉に当てはまるのかもしれない。そういうの、僕はなかなかピンとこなくて、みんな説明がいらないぐらい当たり前に理解してるもんなのか。

例えば、とりあえず何かの職業に就いて、右も左もわからないところからバタバタと仕事を始め、失敗したり苦労したり、何が楽しいのかわからいままガムシャラに向き合っているときに、自分よりも頑張っている人、難しい案件に立ち向かい、その努力と研鑽でクリアしていく人を見て、「この人みたいになりたい」と思ったり、憧れたり目標ができたりして、「一人前になりたい」だとか「一流になりたい」と思うならわからんでもない。

そこには自分の延長線上としての、具体的なロールモデルがある。姿勢や方向性、その先に得られるものだったり、目標が明確だ。自分がわからないのは、漠然と「何者かになりたい」と思うこと。ここで言うところの「一人前になりたい」と、「有名になりたい」寄りの「何者かになりたい」は意味合いが全然違う。「何者かになりたい」って何?なぜ有名になりたいの?

  • 例えばイラレ君の場合
  • もう一人、もっとライトな人
  • しろくまさんの新刊はまだ読んでいないんだけど
  • 他人と自分を比べる地獄にハマっている
  • 何者にもなれなかった自分
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「Distance わたしの #stayhome 日記」はなんとも言えない感情が込み上げてくる

「Distance わたしの #stayhome 日記」を買った。今日マチ子というイラストレーターの人が、去年の緊急事態宣言からTwitterに上げていたイラストと文をまとめた本。Twitter上では見たことなかったから、本が出るまで存在を知らなかった。購入に至ったいきさつは、本屋のTwitterアカウントで入荷の告知を見て、気になったから。

イラストと文を見て、すごく若い視点のように思えた。今日マチ子さん、学生ぐらいの人かな?と思ったら、自分と同じぐらいの歳の人だった。実際に若い人が見たらどう思うのかはわからないけれど、いろんな年代の人が見て、それぞれの視点から思うところがあるんじゃないだろうか。

2009年の新型インフルエンザについても触れられていた。"あのときよりも今のほうが悲観的ではある"と書かれている。新型インフルエンザが流行したとき、日本にはなかなか入ってこなかったけれど、当時、海外から迫りくる恐怖のような悲壮感がすごかった覚えがある。メキシコかどっかだっけ。何も対策できなくて、人がどんどん死んでいくニュースを見ていた。

去年の4月ごろ、コロナ初期にもそういう、海外から迫りくる未知の恐怖、みたいな感覚が強かった。2021年の今のほうが変異株も蔓延して、感染者数も死者数も病床使用率もよほどひどいんだけど、どこか恐怖に慣れてしまったところがある。ワクチンという希望も大きい。去年の春のあの感じは、あの当時にしかなかった。当時の感覚が、イラストと文から蘇ってくる。あの頃の心情、考えていたこと。

来年(2022年)にはおそらくワクチン接種も拡がっていて、コロナ終息宣言が出て浮かれ倒して飛行機にだって乗っているかもしれない。それまでにも多くの人が亡くなる(自分もその一人になるかもしれない)。けれど一度過ぎ去ってしまえば、去年とか、今年のこのコロナ禍を過ごしたときの気持ちは、きれいサッパリ忘れてしまいそうだ。既に忘れている去年の感覚を、このステイホーム日記を読んで思い出しているぐらい。

だからきっと、来年にこの本を読むと、また違った気持ちになるんじゃないか。5年後10年後に読むと、また全然違うだろう。あんなことあったね、なんて言ってると思う。その頃にはもう誰もマスクをしていないだろうし。ましてや来年以降に生まれた人は、コロナ禍を知らずに育つ。このステイホーム日記に書かれている多くのことが、意味わからないだろう。彼らにとってリアリティのない、歴史上の資料になるんじゃないか。

東北地震や原発もそうだった。騒いでいたのはあのときだけ。僕は当事者じゃなかったから、教訓もなにもない。あれから世の中は、少なくとも僕にとっては何も変わっていない。コロナには今のところ感染していないけれど、今回は世界中の誰もが、同時期に、当事者だった。経験したこと、思ったことがたくさんあったはずだ。きれいサッパリ忘れてしまいたくない。

僕は戦争も体験していないから、戦時体験を自分のリアルとして受け取れない。いくら重要だと言われても、歴史上の資料としてしか見ることができない。でもコロナ禍は、今を生きる誰もが当事者だから、この先も当事者性を持って向き合えるはずだ。「Distance わたしの #stayhome 日記」は、それぞれの今を未来に残す、当時の気持ちをこの先もずっと呼び起こしてくれる、貴重な一冊になると思う。

※公式ストアではサイン本やグッズが販売されています

6.12

BRUTUS京都特集号の評判がよくて、買おうか迷っている。具体的には忘れたけれど、けっこう凝った内容らしい。BRUTUSとかPenとかPOPEYEとか、こういう雑誌はごくたまに買う。今までシェアハウス特集だったり、映画とか本、写真の特集号は買ったことがある。しょっちゅうやってるんだけど。サブスクドラマ特集は欲しかったが買わなかった。

TRANSITの京都号も気になる。TRANSITは前からよく買っていた。そしてわれわれ都人、地元の特集号買いがちなのだろうか。まだ買ってないけど、僕は地元のことを全然知らないから、観光客に紛れていろいろ行ってみたい。

アイスコーヒーを作ると、多めに作るからついガブガブ飲んでしまう。こう暑いと、なおさらアイスコーヒーが進む。コーヒー豆の消費量が増える。捨てたガラを見ると、たくさん飲んだなーと思う。またそろそろ豆を煎らないといけない。先日家電屋に行ったら、家庭用のコーヒー焙煎機が売っていた。買うほどではないかなと思って手を出していない。5万とか10万とかするけど、安ければ買っていたかというとそうでもない。結局一度にそんなたくさんは焙煎できない。時間もそれなりにかかる。メンテナンスも必要。だったら手でやるか、となる。

ここ最近は本を読むのに疲れて、村上朝日堂ばかり読んでいた。疲れたときの、村上春樹エッセイ。スルスルいける。何に疲れたというわけでもなく、特に何もしていない。何もしてないのに疲れた。パソコン初心者がよく言うところの「何もしてないのに壊れた」。「読書の日記」も読んでいる。これも分厚いだけで、気負いせず読める読み物。

[asin:4909242023:detail]

映画「孤狼の血」を見た。汚職警官が主人公の超ベタなヤクザ映画。「孤狼の血2」がそろそろやるらしくて、どうするんだろう?と思う。続きの内容なんて作れるのかな?

物を買わないようにしたい

最近は物を買いすぎて困っている。生活に困るほど買い漁っているとか、置き場がなくて困っているわけではないんだけど、なんというか、物をたくさん買うことへの罪悪感がつのりにつのっている。例えば子供の頃、つぎつぎと新しいゲームソフトを買って親に怒られたような、あの感じ。せっかく買ったのに全然遊ばず(高かったのに)、新しいものが出たらまたすぐ買ってしまうやつ。浪費、無駄遣い、なんでもいい。そういう罪悪感が僕の体の中に充満している。

無駄遣いが一番ひどかったは20代前半で、会社員の頃だった。買っていたのは服、カバン、帽子、靴など。全然履かないまま今もまだ残っているものもある。だいたい10万単位で買いまくっていた。まあそういう時期って、誰しもあるんじゃないか。人それぞれタイミングと対象が違うだけで。

その後買い物はしなくなり、浪費対象は旅行へと向かった。旅行はまあ、そりゃあ普通に金がかかる。しかしそれでも、年に数回の長期休暇にしか日程が組めないわけで、行った先で散財するわけでもなく、旅行ばかりしていた頃は意外とお金が貯まった。お金がかからない旅行をしていたのも大きい。旅行にお金をかけるとそれなりの見返りを求めてしまうもので、トラブルやアクシデントが楽しめなくなる。タダ同然の旅行であれば、不手際さえ楽しい。

定職がなくなり、まさに旅行中心の生活になってからは、物を買うことが格段に減った。その当時は「物より、思い出」を地で行ってた。後には何も残らなかったが、自分にとっては本当に有意義だった。同じ浪費(消費)でも、物を買うより体験に使いたいと思っていた。単純に貧しくなったのと、引越しが多くて物を多く所有できなかったことも大きい。

そうやって物を買う生活は一度終了した。しかし最近になって、物を売るようになった。物にたくさん触れ、物の良さを再認識してしまうことで、とうとう再び物を買う生活に戻ってしまった。今しか買えないものを、投資と言い訳してまで買い、当分は全然売る気がない。今僕の身の回りは、物であふれかえっている。高額商品ではないがそれなりに価値があり、いいものばかり。決して浪費ではないが、それにしても買いすぎている。

やっかいなことに物を買う人の本を読んだことで、勢いを増している。その他にも「断捨離は悪」と言うような人たちをフォローしていたり、彼らは物を買いまくることを全肯定どころか推奨している。自分のかつての価値観と相反した影響を受け、戸惑っている。

「値段で迷うなら買ったほうがいい。安いから買っておこうはやめたほうがいい」というような言葉も出てきた。欲しいと思い始めたらきりがない。問題は、この感情をどう処理するのか。買うのか、買わないのか。最近は「買う」を選びがちだった。昨今の、旅行もできない・体験もできない、物を買うことでしか気持ちを昇華できない状況も、大いに影響している。

ガスコンロがセンサーで弱火になるのを防ぐ裏技

裏技でもなんでもないが、意外と知らない人がいるのではないかと思って。僕も知らなかった。ガスコンロの取説なんて読んだことなかったから。

家庭用のガスコンロには温度感知センサーがついており、250℃を超えると弱火になるとか、290℃を超えると一旦停止するとか、なんかそんな機能があるはずだ。僕は普段、朝食の食パンを焼くのに網を使ってガスコンロで焼いている。結婚祝いに友人からもらった、パンを焼く専用の網です。

しかし困ったことに、毎回ガスコンロの高温感知センサーが反応して止まってしまう。焼いていると火が消える。またコンロを付け直し、消えては付け直しを繰り返さないといけない。非常にめんどうだ。しかし安全を配慮したガスコンロの機能だし、こういうもんだと思って、消えては付けてをはや2年ぐらい繰り返していた。

また、最近はコーヒーの生豆を買って自宅で煎っている。このときもガスコンロを使っているのだけど、同様に温度が上がりすぎて、センサーが火を弱めてしまう。放っておけばまた元の火力に戻るんだけど、火が弱くなったり強くなったりを繰り返していると、うまく豆を煎ることができない。自宅でコーヒー豆を煎るときは、一定の火力で煎るためにセンサーの付いていないカセットコンロを推奨する、という記述を見かけるぐらい。

なんとかならないものか。と思って、初めて検索してみた。ガスコンロ、センサー、止まるなどなど。今まで何も調べずに、ただただ苦労していたのが、検索しただけで一発で解決した。

ここの「高温炒め 3秒押し」を押すだけ。以上!これでセンサーが勝手に弱火に切り替える機能を切ってくれる。高温になりすぎると火を止める機能は残っているから、そんなに心配もない。また、一度高温炒めを使っても毎回リセットされるから、センサーをオフにしたいときだけ「高温炒め 3秒押し」をやればいい。こんな便利な機能があるなんて、全く知らなかった。知らないまま2年間めんどうな思いをしていた。万事解決。今は快適なガスコンロ生活を送っている。コーヒー焙煎のためにカセットコンロを使用する必要はなかった。

なぜ、ダイエットなのか(昨日の続き)

63キロなんて、大して太っていないと思うかもしれない。少なくともBMIでは肥満にあたらない。それでは、なぜダイエットを始めたのか。きっかけは人間ドックだった。肝臓の数値が基準値を超えており、要再検査と出た。それで、市内の内科にその結果を持っていって再検査することにした。ふたたびエコーを受けたり、血液検査を受けたり。

再検査の結果としては、軽度の肝機能障害。うっすらと脂肪肝らしきものが見られる。原因として、おそらく帰国してからこの2年で急に5キロも太ったせいかもしれない、ということだった。食生活など、生活習慣の変化による急激な肥満。それがこの肝臓の数値に影響しているのではないか、という診断結果だった。

医者からは、3,4ヶ月後にまた様子を見ましょうと言われた。このままひどくなっていくと困るから、食事のバランスや運動を増やすなど生活習慣を改善した上、徐々に数値を良くしていきましょうと。それでダイエットをすることになった。

以前の体型に戻すのであれば、僕は単純に昼食をなくすことを提案した。前は食べていなかったし、少なくとも僕にとっては食べ過ぎであった。しかし奥さんにとって一日三食は当たり前で、食事を減らすのはかえって健康を損なうのではないかという懸念があった。その後僕がビールばかり飲んでいたらすごく怒られた。体質改善する気はあるのか、と言われた。

そのときはだいたい毎日ビールを2本飲んでいた。柿の種などのおつまみも食べていた。昼食を減らすぐらいなら、先にそちらをやめて欲しいというような意味合いだったのだろう。ただそうなると、僕のはけ口がなくなることも奥さんは心配していた。僕はおととしから禁煙をしており、来月で丸2年になるけれどいまだにタバコの夢を見る。そこでお酒まで辞めろと言っていいものか悩んでいたらしい。抑制しすぎることで、ストレスでかえって体を悪くしないか。

でも僕がそんなことを一切気にせずに、お酒ばかり飲んでいたから頭にきたらしい。「そんな一方的に言われても」と僕は言い返して、散々言い合いをした。結果、体質改善をするならやはり昼食は抜く、お酒はこれまでより控える(今は週の半分ぐらいしか飲んでいない)、運動はなるべく時間をとる、という形に落ち着いた。昨日書いた日記の通り、運動する時間は全然取れない。だから今は、比較的穏当な食事制限だけを行っている。

とりあえず一ヶ月で3.4キロ落ちた。今のペースでこのまま2ヶ月、3ヶ月と体重が減り続けるとは考えにくい。先月は落ちやすかった部分だけ落ちたのだろう。今後は極端な暴飲暴食を避け、今ぐらいの体重を維持できればいいのかなと思う。次回の検査で、多少なりとも体質も改善していれば、奥さんの心配のタネも一つ消えるなーと期待している。僕自身が体型を気にしているとか、体重を気にしているとか、体調が悪いとかそういうことはない。

1ヶ月ダイエットをしていました

今月の頭からダイエットをしている。ちょうど1ヶ月で、3.4kg体重が減った。具体的にやったことは、まず昼飯を抜いた。結婚前の数年は昼飯をほとんど食べていなかった。結婚してから食べるようになり、やはりなくていいかなと思っていた。この1ヶ月間で、昼飯を食べたのは週1日の休日と、それ以外に2度ほど。ちょうど一週間分ぐらいだろうか。

他にやったことは、AppleWatchのムーブ目標を600kcalに変えたこと。これまでは300kcalで、ほぼ毎日達成していた。倍の600kcalにすると、ほぼ毎日目標達成しなくなった。目標だけ変えてもあまり意味がなかった。邁進しないという意味はあったかもしれない。

体重は、今ちょうど60kgある。自分のベスト体重、というか一番過ごしやすかった体重は53kgで、まだ7kgほど重い。今から6年前、2015年の頃の体重は48kgで軽すぎた。周りからもガリガリと言われていた。自分はガリガリ憧れがあったから嬉しかったが、あまり健康的ではなかった。朝も昼も夜もほとんど食べない。食事はサンドイッチかパスタか、インスタントラーメン。もしくはクッキー、ビール。外国にいたからなんだけど。

6年前は48kg、2年前に測ったときが58kg、今月頭の時点でも63.4kg。10kg、5kgとみるみる太った。一番重いときで65kgあったと思う。6年前は肉体労働だったから、筋肉も落ちた。太った原因は運動不足と食事。ほぼそれだけ。だからその2点を解消しようと、この1ヶ月取り組んだ。

運動不足の解消は無理だった。以前は自転車移動の距離が長く、必然的に移動せざるを得なかったが、今はその時間を家で過ごすことに使っている。夜7時から8時の間に食事を始め、食後に落ち着いたり後片付けをしていれば9時になる。あっという間。10時半には風呂を掃除して沸かし、11時に猫の餌をやり、奥さんが風呂に入る。奥さんは1時間で出るから、12時から1時の間に僕が入る。僕は30分ぐらいであがる。すると寝るのは1時半から2時。

僕が自由に使える時間は、食後の後片付けの後の1時間半と、奥さんが風呂に入っている間の1時間。1日で唯一自由に使える2時間半を、僕はどうやって過ごしていたっけ?食事の延長でドラマや映画を見ていることも多い。酒を飲んでいることも多い。iPhoneを眺めていたら一瞬で終わる。日記を書いたり本を読むこともある。買い物に行くこともある(近所のスーパーは12時までやってる)。掃除機をかけたり、コーヒー豆を煎ったりしていることもある。

ここに運動は入れたくない。例えば1時間運動するとなると、自由に過ごせる時間はさらに短くなる。運動は僕にとって退屈で苦痛で時間を食う作業だから、何かのついででないと本当に嫌になる。朝とか本当に嫌だ。僕は猫に起こされるため、夜に熟睡できる日がほとんどない。一週間に1日もない。だから、朝起きてジョギングとかしていたら気が狂う。

そういうわけで、実質食事制限(昼飯抜き)だけでこの1ヶ月に3.4kg減らした。昼を食べないことは全然苦痛ではないから、このまま維持していこうと思う。でも運動しないとこれ以上は減らないだろうなという気もする。

にしな:ヘビースモーク

この歌はSpotifyのCMで知った。Spotifyはポッドキャストを聞くのが中心になり、今は課金していないからCMが入る。この歌が何度もリピートされて流れていた。CMではサビしか流れておらず、何度も聞いているうちに全編聴きたくなって聴いてみた。ミュージックステーションに出ていたらしく、それで知った人も多いかもしれない。

イントロからして、懐かしい感じ。タバコの歌というのもいい。学生の自主制作映画みたいなビデオも合っている。初期に上げられているアコースティック版よりも、こちらはかなり洗練されている。曲全体が歌の雰囲気をしっかり強調している。Coccoとかyuiとかあの系統のにおいがする。

こっちのほうが好きな人もいるのかもしれない。曲調がガラッと変わって明るい。個人的にはあまりインパクトがなかった。弾き語りなら、ワンルームのほうが良いと感じた。

こっちはなんというか、往年のベタベタ青春ソングという感じ。というか尾崎豊。だいたいうまくいかない片思いソングとか失恋ソングは共感を呼びやすい。弾き語りが曲に合っている。感情の乗る声、発声のしかたがよい。歌いたいやつ。

たとえば、はてなで

自分は横のつながりがない方だったから、こういう連帯感とかコミュニティの感じ、もっと言えば一つのシーンに乗っかっている感覚が薄かった。それでもブログ全盛期だった時期には利用していたし、そういったシーン全体の盛り上がりを横目で眺めていた。

だいたい黎明期、ARTIFACTとかアキバblogとか、「ブログと言えばライブドアかMovableTypeっしょ」という時期から始め、はてなを利用し始めたのはもう少し後。2010年代に入り、やっぱりphaさんとか山崎はるなさんのはみだしの名文を読んで、「こういうのいいな」と思った。

あの人とか、誰だっけ、ブロガーじゃないけれど玉置沙由里(MG)さんとかどうなったんだろ。僕の記憶だとタイに行ってからネット上で消息を絶った。

横のつながりも少しだけできた。それは全然第一線で活躍している有名ブロガーみたいなのではなく、同じぐらいの熱量でネットとかブログという文化に浸かっていた連中。誰と仲良くなりたいとか、会いたいといった願望は基本的になかったから、近くだったり機会があれば接点を持つ、という程度の仲だった。

例えば id:xKxAxKxid:kireinasekaiid:bibibi-sasa-1205id:akatokoyrid:mayonakanonamiid:quelle-onid:aniram-czechid:GOUNN69、このあたりの人とは直接会って話したことがある。他にもいたかも知れないが、頻繁にではない。大体の人は一回会ったことがあるだけ。このなかで、今も現役でブログを書いている人は、なんと誰もいない。たまに思い出したかのように更新されることはあるけれど、過去のような更新頻度で書いている人は一人もいない。めっきり、パッタリ、終わった。今となってはブログという形式そのものが廃れきってしまっている。若い人からすれば、全く馴染みがないだろう。

かつてブログで、はてなで知り合った人の中には、今もTwitterでつながっていたり、たまに反応したりすることもある。しかし僕らはベースとしてブログで、はてなで知り合った連中だから、そのベースであったブログが崩れてしまうと、なかなかやりとりは起きない。今はお互いがそれぞれの道を歩んでおり、共有できる話題を失った。

僕のような泡沫ブロガーは息が短かった分、離れるのも早かったのだと思う。何者にもなれなかった僕らは、アルファブロガーの面々に比べ「書くことがなくなった」という状態に陥るのも早かった。ネット上では「あの頃を一緒に過ごした彼らは今どこにいるんだろう?」という関係性の喪失が連綿と続いている。かつて2chのコテハンだった同士、ニコ動で生主だった人たち、mixi、ネットゲーム、Twitter、Tumblrを去っていった人たち、そしてブログ、もといはてな。

ブログシーンが廃れたのと、さらに書き手の高齢化が今の状態に至る大きな要因なのかな。最近でこそ自分は開き直って、どうでもいいことを書く頻度が上がった。けれど人に勧める気にはならない。書こうぜ、なんて今はとても。ただまあ当時のように、時間をかけてしっかり中身を考えて、更新頻度高く書こうと思わなければ、意外とどうでもいいことを書ける。それを書いたからと言って、意味はない。かつてのように、何かが起こるかもしれない予感もない。

記号的かっこいいものへの無条件な憧れ

例えばギターとかバイクとか、わかりやすくてベタだと思う記号的なかっこいいもの。まず形からしてかっこいい。これらに対して無条件に憧れを抱いてしまうところある。少年の、ヒーローに対する憧れも似たようなものだろう。ギターを所有したことはないけれど、バイクは乗っていた。運転が下手だった。教習所へ通っていたとき、教官から「バイクはカッコが命」と言われた。やはりバイクとはそういうものなのだろう。

僕が乗っていたバイクはあまりかっこいいものではなかった。安くて手軽なやつ。バイクのかっこよさにも種類があり、僕が若い頃流行っていたのはビッグスクーターだった。フュージョンとかフォルツァとか、当時めちゃくちゃ走っていたのに、今はほとんど見かけなくなった。SRとかクラブマン、エストレアのような、単気筒でレトロな見た目のものも流行っていた。今も時々見かける。ゼファーとかZRXとかバリオスとかスーパーフォアみたいなのは、周りで乗っている人はいなかった。

僕が乗っていたバイクはかっこいいものではなかったから、バイクにはどちらかというと、移動手段という利便性を求めていたところがある。他に、バイクに乗っている友人が多かったため、乗っていればツーリングに参加できるということもあった。数えるほどしか行ったことないが。バイク乗りの友人がいたのと、近所の人に誘われたのがきっかけで中型二輪免許を取った。僕の場合それがなければ、ただ「記号的かっこいいものへの無条件な憧れ」だけではバイクには乗らなかっただろう。でもそういうのが行動原理になることだって、大いにあるんじゃないか。

記号的かっこいいものへの無条件な憧れ。他にどんな例があるだろう。髪型とか服装は最たるものだ。ダンス、スケート、DJ、ピアノ、サックス、レコード、コーヒー、タバコ、お酒、ドラッグ、車、サーフィン、バックパッカー、写真、小説、自分が思いつくのはそんなもんか。他にもいろいろあると思う。こういうのを、かっこいいと思って手を出していたらなかなか恥ずかしい面もある。先ほどのバイクの話じゃないが「いや、僕は別にかっこいいと思ってカッコつけるためにやってるわけじゃないですけどね…」と言い訳したくなる。なんというか、やはりカッコつけている事自体がダサいから。

かっこいいかどうかは、客観的な結果であってほしい。入り口である動機が「かっこいいから」と言っている人はどう見てもかっこ悪いじゃないか。かっこ悪いからこそ、かっこいい状態を目指すのだ。間違っていない。結局は動機が何であれ、その先に到達した人はみんなかっこいい。ギターがかっこよくて始めました。と言う人がうまく弾けていたらやはりかっこいい。下手だとあんまり。中途半端だとかっこよくないんだ。上辺だけの人とか、うまくいかず対象をころころ変える人とか。

だいたいなんでそういうものをかっこいいと思うのだろう?思う人と思わない人がいる。ボクサーかっこいいとかプロレスラーかっこいいとか、思わない人もいる。バイクやギターだって、別にかっこいいと思わない人はいる。中2の頃はかっこいいと思ったけど、さすがに今は…という感想もある。年齢だけでなく、時代によっても違う。今の時代だったら何がかっこいいんだろう。フリースタイルラップとかなの?それもちょっと前か。わからない。時代の波についていけない。

とにかくまあ、かっこいいものというのはあまり普遍的なものではないらしい。時代だったり文化圏だったり層によって、憧れの対象やかっこいいとされるものが変わる。また「人にかっこよく思われたい」と「自分がかっこいいと思う」のも違う。人に思われたいなら流行りものだったり、かっこよく思われたい人に合わせて対象を変えることになる。主体性はない。自分がかっこいいと思うものを追いかけるだけなら、人はあまり関係ない。それでもある程度誰もがかっこいいと思っている分野に偏ってしまい、逆にかっこ悪いと思われている分野が好きだったら公言できないこともある。美術やアートの視点でAVやストリップを見ている人もいると思うが、そう公言するのはなかなか勇気がいりそうだ。