2023.4.10

邦キチ映子さんで、また池ちゃん回が話題になっていた。

Season10/3本目 映画を早送りで観る人たち(前編) / 邦画プレゼン女子高生 邦キチ! 映子さん - 服部昇大 | COMIC OGYAAA!! (コミックオギャー)|おもしろい、がうまれるところ

タイパとか、新書「映画を早送りで観る人たち」の話題だった。その手の話題は聞いたことはあったけど、中身はよくわかっていなかった。ハンチョウも同じテーマを扱っていた。

1日外出録ハンチョウ - 福本伸行/萩原天晴/上原求/新井和也 / 第124話 歩花 | コミックDAYS

この手の話題を検索してみると、けっこういろんなところで取り扱われていた。新書が出たのが去年の4月だから、新しい話題でもないのだろう。岡田斗司夫とか、落合陽一も話題にしていた。共感強制力だって。

タイパ、タイパなータイパとか言ってる人本当にいるのかな、ネットではときどき見かけた。ビジネス書などは、確かにいらないページ多すぎる。要約で理解できるならそれでいいかもしれない。小説とか物語はちょっと違うと思うけど。

それにしても落合陽一とか東浩紀を久々に見た。落合陽一はもともとあまり知らなかったけど、茶道とか仏像の木彫りやってて立ち位置変わっている気がする。東浩紀はいろいろ考えを進めてるんだなー。シンギュラリティとかあったなー懐かしい響き。その延長で、宮台真司の動画を見た。

宮台真司は刺されていて注目されたけど、近年また活動していたってことを全然知らなかった。TikTok動画で知った。YouTubeでも活発に活動しているようだ。宮台真司のNISAに対する見解もおもしろかった。日本が勧める、本質なき投資教育。

ヒトコトへの回答㊹:何者問題

このブログではGoogleフォームからご意見などを頂いております。それをときどき拾って回答してたりします。

94通目:何者問題

はじめまして。 「何者かになりたい」ってなんぞやと探していたらここに辿り着きました。 30歳を目前に学友と集まったのですが、私はどうやら彼らの言う「何者か」になれる(?)らしく、彼らはもうなれないと嘆くのです。訳がわからない。 有名人でもプロでもなくSNSも興味がなければ仕事も今や辞めてしまって、他人との差異はやりたい放題生きてることでしょうか。しかしそれもレールに「乗れない身体」だからと開き直っている些細な事ばかりな上、経済的には身を削る一方です。
ふと「でもいつだってできることだよ」と返した時の「何者にもなれなかった俺には無理なんだよ」と言ったあんなに頼もしかった友人の顔が忘れられません。病気を差し引いても私に対して彼は充分に立派な働くお父さんです。何が不満なのか。彼はその健康な体と社会人として培った信頼、金銭を持ってしていつでももっと大きなパイに噛み付ける。
どうしたら自分の足元は意外と道があると気づいてもらえるのだろう。外れても大丈夫とわかってもらえるのだろう。様々なサイトに記載された単純な上昇志向や憧れでは足りない何かを求めているのかとウンウン唸っていた最中、散々例を挙げ検証した上で「わからん」と投げ捨てたこのエントリーに救われました。

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若いうちに身につけるといい、人前で話すスキル

数年前に、研修で人前で話すスキルを習ったことがある。これが実際、けっこう人生で役に立つなーと関心した。と言うのも僕は、子供の頃から人前で話すことはずっと苦手で、なんなら憎悪していて、なるべくそういう機会を避けてきた。だからこんな研修も本当は受けたくなかったし、やってる間もずっと憂鬱だった。でも内容はとても有用で、もっと早くに学んでいれば、いろんな場面で役に立ったのに、と思うところもあった。今は人前で話す機会はないけれど、苦手意識は薄くなった(今もやりたくはないけど)。

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ヒトコトへの回答㊸:加齢に伴う体調の変化

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92通目:加齢に伴う体調の変化

30代以降の体の変化、不調などがあれば教えてください。

30代以降っていうと、正直あまりない。31歳頃が人生で一番痩せていて、体力もあった。もちろん老けていってはいるが、加齢に伴う衰えと言うよりは、生活習慣の影響のほうが大きい。痩せていて体力があった31歳頃は、毎日ほどよい肉体労働をしていた。

男性は女性に比べて、ホルモンバランス的な著しい変化がない。内臓が違うから、生物としての仕組みが根本的に違う。体調という意味で言えば、十代の頃はアンバランスで困っていた。30代以降の変化は、むしろ落ち着いてきたと言える。とはいえ、病気やケガなどもしていないから、なってみれば前より大変かもしれない。

これまでのヒトコト、回答をまとめました。

Lightroom 3 がついに使えなくなった

2010年か11年頃に買った Lightroom 3 をずっと使っていた。LightroomとはAdobe社のRAW現像ソフトで、RAWで写真を撮る人にはお馴染みの商品。Adobe製品は海賊版の流通に耐えかねていつ頃からかサブスクになり、月額課金制となった。いや、本当は全然そんな理由ではなく、時代の趨勢。Adobeがサブスク化することによって10万していたPhotoshop、Illustratorが月額2千円ばかりで手が出るようになったのだから、みんなにとって万々歳なのだろう。これもブロードバンドと大容量ストレージ時代の賜物。

僕は買い切りのLightroom 3をずっと使っていた。10年以上。Lightroom 4 も買ったけど何故かずっと3を使い続けていた。LightroomはRAW現像ソフトで一番評判がよく、買って使ってみて案の定使いやすかった。しかし10年も前の代物で、mac OS Venture にアップグレードしたらデータを読み込まなくなった。保証はずっと前に切れている。サポートも何もかもが終了している。いまだに買い切りのAdobe製品を使っているのは、OSのアップグレードを拒み続けている層ぐらいだろう。

それでも最近のmac OS Monterey まではかろうじて動いていた。Ventureにした途端、データの読み込みエラーが起こり、無用の長物と化してしまった。

さて、どうしたものか。念の為、再インストールしてみた。ダメだった。エラーメッセージをGoogle検索してみたら、同じ状態に嘆いている人がいた。

LR3.6 Mac new import error | Lightroom Queen Forums

わかるよ、君のその気持ちは。しかし何も解決はしない。手段としては、OSをダウングレードするか、Lightroom 3をあきらめるかの二択。ダウングレードしたところで、これからもMacを使っていくのなら必然的に壁にぶち当たることになる。現実的ではない。Lightroom 3 をあきらめるしかない。

今後もRAW現像を続けるには、Adobeサブスクを使うか別のソフトを使うことになる。僕は別に写真のプロでお金を稼いでいるわけではないから、サブスク課金はなかなかハードルが高い。RAW現像もできればフリーソフトがいいなーと思っていくつか試してみたが、まあそんなに使い勝手がよくない。

一応Mac標準の写真アプリでも、RAW現像はできる。しばらくそれかな…。僕の中でLightroomの時代が終わった。

2023.3.29

ムームーというアプリが話題ということで、入れてみた。

本当に話題なのだろうか。ムームーとは、中国テンセント出身の創業者 李華 が経営するオンライン証券会社の、世界の株情報アプリ。

今のところ銘柄スクリーニングや値動きのウォッチ、海外ニュース翻訳などの情報中心だけど、そのうち銘柄の購入もできるようになるのだろうか。少し前にアメリカで流行ったロビンフッド的なサービスに、今後なるのかもしれない。

ロビンフッドに熱狂するアメリカ──株取引ブームに見える過去の共通点 | coindesk JAPAN | コインデスク・ジャパン

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考え方が変わるのは悪くない

「考え方が変わるのは悪くない」が枕詞になるとすれば、続く言葉は「でもコロコロ変わると信用できない」。

若い頃は、一貫性が大事だと思っていた。初志貫徹、道を曲げない、言葉を曲げない。一度決めたことは貫き通す。意見を変えるという行為は、裏切りに近い。Twitterなどでも有名人は過去ログを掘り返され「昔と言ってることが違う」と揚げ足を取られることがある。政治家などは特に多い。日和見主義だとか、流行かぶれだとか、自分の意志がないとか主義思想がないとか言われる。実際にそういうこともあるだろう。

特に世の中の流れが変わると、正義の中身も変わる。前に良かったことはダメになり、ダメだったことが善になる。世の時流に乗っかってしまうと、自然と自分の意見も変わってくる。考えもなしに乗っかっているだけの人は、ただの流行追いミーハーだと批判され、実際そのとおりなんだろう。逆に、世の中の流れが変わろうとも自分の意見を曲げない人がいて、例えば今日においても中絶反対派の人は少なくない。彼らは教義に忠実で、世の中の流れになど惑わされない。そういう態度がいいか悪いかっていうと、判断できない。

ロッキー4は、「自分は変えられない」と言ってリングで散るアポロと、「誰でも変われるのです」と言って観客を味方にしたロッキーを対照的に描いていた。ロッキーも「俺はファイターだ」と言って戦うことに固執し、一時はアポロの態度を受け入れていた。しかし結果として、戦うことで変われることを示すことになった。復讐のためではなく、答えを出すために戦うことを選んだ。ロッキー1からして、勝つためではなく自分を変えるためにリングに立つことを選んだと言える。

今だから話せること」。若い自分に、今だから話せることは、「変わる」ことを否定しなくていいこと。変わろうとして変わっていくこともあれば、意図せず変わってしまうこともある。必然的に変わることもある。「変わらないことが正義」ではない。「あいつは変わった」などと批判しなくていい。より大切なのは、立ち位置を把握することではないか。ロードマップを描けること。何故変わったのか、どこからどう変化したのか、何がきっかけなのか、その経緯経過が把握できていれば、説明することも難しくない。日和見ではなくなる。

自分は若い頃、保守愛国だった。伝統も天皇も尊重していた。今は違うかと言えば、少し違う。日本というルーツのアイデンティティは、今もなくはない。けれどあまり外に向けて主張するものではなくなった。海外にいるとき、事あるごとに「日本人だから」と答えていた。「日本人はこうだ」というような、自分と日本人像を重ねていた。それは日本人のイメージアップをしたかったからかもしれないが、結果的には自分を失くす行為だったように思う。枠組みに則った行動には、自分の意志が感じられない。今思うことは、日本人の評判なんてどうでもいい。自分がどうあるか。

「日本人だから」ではなく、「自分がなぜそうしたいか」に自覚的になりたかった。誰かの意見に賛同するのはいいと思うけど、流れに乗って盲目的に従うなら、そこには自分がいない。主義思想は、仮想敵に対抗するために固めるのではなく、自分の意見を持ちたいと思った。日本人はもはや共同体ではない。ルーツのアイデンティティに固執することは、滑稽にすら思える。日本人は結果的に日本人なだけであって、「日本人はこうすべき」といった思想や行動を制限する枠組みではない。

僕が若い頃には、ネトウヨという言葉はなかった。クソリベという言葉もなかった。徒党を組んで一直線に祭りを盛り上げるだけの行為は、新興宗教となんら変わりない、感情に訴えるだけの煽動。これまでにも多く見てきた。中身は何でもよくて、お祭りに騒ぎたいだけの人たち。そういう人たちから、いかに冷静に距離を置くか。理想は感情で、現実が理屈だとすれば、どちらかに偏らないように、両方を大切にしましょう。

特別お題「今だから話せること

2023.3.25

エルピスを最後まで見た。演技はすごく良かったし、特に眞栄田ゴードンおもしろいなーと思って見ていた。長澤まさみは近年「マスカレードホテル」「シンウルトラマン」と見たけど、それらより当然良かった。職業倫理を描いたフィクションとして、物語もおもしろかったと思う。最初はまっすぐ一本道かと思いきや、途中で道を外れて、どういう展開で進んでいくのか予想できなかった。最後まで見て振り返ると、起承転結もしっかりしていた。これはなんというか、シーズン1の10話で完結するからできた展開なのかな。

ただエンタメとしては見れたけど、現実のことを考えると薄ら寒い。あまり現実にある問題に訴えかけるようなものではないかな。リアリティは全く感じない。マスコミ、警察、政治家など、実際にそれらの仕事をやっている人がこのドラマを見たら「いやいやいやw」ってなるんじゃないかな。それぐらいエンタメとして現実のパロディ化というか、戯画化がされていると思う。まだ映画「インサイダー」とかの方がおもしろかったんじゃないか。かなり昔に見たから覚えてないけど。日本の作品でも、数あるドキュメンタリーの方がしっかりしている。まあそれはリアルなんだから当然か。

今作はあくまで職業を扱うエンタメのフィクションだから、刑事ドラマや探偵モノに近い。コナンを現実だと思って真面目に、真剣に見る人はいない。んなわけないやろ、ってことに誰も突っ込まない。ドラマのテーマとしても、事件云々より職業倫理が中心だった。自分が胸を張って、自信を持って仕事をしたい、というような話だから、仕事をしている人にはまんべんなく見やすい。理想というか夢というかファンタジー的に見れる。

ただ当のマスコミがこのドラマやるのってどうなん?自虐の露悪趣味?ってことは以前に書いた。フィクションとして戯画化することが、現実の矮小化にしか見えない。マスコミのみなさんにはどうか現実でがんばってください。

聞きかじった太陽光発電の話

太陽光発電については、かなり前に知った情報の印象が強かった。製造コストが高いとか、発電効率が悪いとか、廃棄する際の環境負荷が高いとか。しかし最近はそうでもないらしい。

廃棄ですが、国内で既に全自動のリサイクルプラントが数か所稼働していて、数万枚の処理実績もあります。回収したパネルは100%近くアルミやガラスなどとして再利用されます。不純物が少なく再利用できるので、太陽光パネルはむしろリサイクルの優等生です。考えてみれば、ガラスとアルミとシリコンと樹脂といった少ない種類で構成されている物なので、リサイクルが容易なのは想像がつくと思います。
蓄電池に関しては、まだ経済的には回収は少し難しいです。電気自動車を購入して、毎日数十kmの通勤をするなら元は取れます。ただし災害などでの長期間の停電などには最も有効な対策になります。そうそう蓄電池を入れなくても、普通の太陽光発電でも日中は停電しても1500Wまでの電気が使えるので、結構役に立ちます。
最後に最大のプラス要素は、地球温暖化の防止策としては、既に実用化されていて安全性が高く、個人レベルで導入できるうえに、コストパフォーマンスの最も低い方法の一つだと言う事です。あなたの家、もしくはこれから建てようとする家が、ある程度の日当たりがあるようでしたら、付ける事をぜひお勧めします。

パネル廃棄に関しての問題は解決されると思います。現在は再生率95%の装置が発表され、リサイクルに関連する法も施工されますので、技術的・法的にも徐々に解決されると思います。

最近の太陽光発電は、どうやらけっこういい線いってるみたいだ。さらに、これから家を建てるにあたって、自治体によっては太陽光発電の設置義務がついたりしている。また、大手ハウスメーカーにて、新築の太陽光パネルと蓄電池の設置が、最近はほぼ標準仕様となっている話も聞いた。

いとうせいこうの、電気にまつわる本の話をラジオで聞いて、興味深かった。読んでみたい。

ヒトコトへの回答㊷:エルピスに感じた歪さ

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91通目:エルピスに感じた歪さ

エルピスを観た感想が知りたいです。

エルピスは2話しか見ていないんだけど、今日その2話を見ているときに、変な感じがした。タイトルにあるように、いびつだなーと思う部分があった。ドラマ自体はシンプルなストーリーで、テレビ局に勤めるキャスターとアシスタントが冤罪事件を調査し、真相を暴こうとする話。

違和感を覚えたのは、2話の中の回想シーンだった。長澤まさみ演じる役が、若きニュースキャスター時代に報道したニュースを思い返している。その内容とは、東北地震直後の「福島第一原発は直ちに問題はない」というシーンと、2020東京オリンピックを喜ぶシーン。これは現実にあった報道内容を、番組内でオマージュというかアレンジしている。

このドラマでは、長澤まさみ演じる役が、過去に自身が加担していた偏向報道に嫌気が差し、局でなんとか正しい報道?ジャーナリズム?を取り戻そうと奮闘するような話の流れ?になっている。最後まで見ていないからわからないが。

少なくともこの回想シーンからは、福島第一原発が問題ないと報道していたのに、実際はその後大変なことになった、東京オリンピックについて華々しく報道していたが、現実は真っ黒で汚職にまみれ後に逮捕者まで出た、それをあたかも問題ないように報道していた、それらの偏向報道に自分が加担したことを、長澤まさみの役が悔やんでいる、そう読み取れる。

この2話の回想シーンで僕が感じた違和感は、このドラマは何がしたいの?という違和感だった。現実にあったニュースが、あたかも偏向報道であったかのようにドラマ内で演出する。それを思い出す長澤まさみは、嫌な顔をする。間違った報道をしていた過去の自分を塗り替えたいと思う。そういうシーンだったと思う。この演出を、現実にこういった報道を行っていた、言うならば偏向報道を行っていた当事者であるテレビ局が、ドラマのワンシーンとして描く意味はなんなのか。

もしテレビ局が、自分たちが行っていた原発なり東京オリンピックの偏向報道を反省し、見直し、今後はジャーナリズムに徹するという決意があるならば、こういった娯楽作のワンシーン演出として描かないだろう。メディアが本気で偏向報道に問題意識を持ち、省みる気があるならば、公に間違いを認め、謝罪会見でも開き、責任者は責任をとって経営陣を総入れ替えなどし、今後はジャーナリズムに徹する決意表明でもして、局を立て直すのが筋だと思う。

しかし実際にやっているのは、フィクションのドラマの中で、キャスターが悔いているワンシーンを描くだけ。局員が、メディアが反省するという姿さえも、ドラマという商品の中で消費物として描いている。テレビ局は、このシーンを描くことが商業的にプラスだと判断して、GOを出した。

つまり、テレビ局は偏向報道を反省するつもりなど全く無く、反省する姿さえも売り物、金儲けの手段にしてしまっている。なぜわざわざこんなことをするのか?それが、今、視聴者に求められている、つまり商業的にプラスになると判断した結果だろう。ドラマはフィクションであり、エンタメ作品である。有名な俳優を起用し、視聴者を喜ばせることが目的で、このドラマは報道でもジャーナリズムでもドキュメンタリーでもない。架空の娯楽である。お金のために、自社の過去の失敗、間違いを正す架空の物語を商品として売り出す様子を、このドラマで見せている。

僕にはこのドラマが、「ジャーナリズムを取り戻せ!」という主張さえ、金儲けの道具にします!それぐらい商業主義に走ってます!というテレビ局のアピールに見えた。そんなことに、なんの意味があるのか?この「自己否定を売り物にしてますアピール」が、僕がイビツと感じ、破綻していると思った部分だった。自虐なのか?

ロシアでは、プーチンに暗殺されようともジャーナリズムに徹するジャーナリストの姿がたくさん報じられてきた。暗殺されることがいいことだとは思わないが、ロシアのジャーナリストがジャーナリズムに殉じている一方で、日本のメディアは自らジャーナリズムを、その間違い、失敗を認めつつもパロディーにして売り出している。めちゃくちゃ歪んでいる。行き過ぎた商業主義に、狂気すら感じる。

僕はこのエルピスの歪さを感じたとき、太宰治のいびつさを思い出した。太宰治の後期は、原稿料を家に入れずに飲み歩いてばかりいた。奥さんと子供が貧困に苦しんでいる中、太宰治はその姿がつらいと言いいながら不倫をしたり、飲み歩いたりして散財していた。そして、その様子を小説に書いていた。「桜桃」などが有名だ。これって一体どういうこと?と、読んだ当時僕は思っていた。わけがわからない。

太宰治は家にお金を入れ、家族をまともに養えば、つらい思いをしなくて済む。不倫も散財もしない。でもそれでは小説が書けなかったのだろうか?生活が破綻している。挙句の果てに太宰治は、不倫相手と心中した。遺書には

「美知様(奥さん) お前を誰よりも愛してゐました 」

と遺している。わけがわからん。これを受け取った奥さんは、どんな気持ちだっただろう。わざわざ自分の家庭を犠牲にして苦悩し、それをネタに小説を書く太宰治の姿は、芸術家にはよくある姿かもしれない。かたやエルピスは、劇中でテレビ局を批判しており、局がそれを採用してエンタメとして商品にすることで、自己批判さえも金儲けの道具にする自分たち、をアピールしている。企業がそんな狂ったピエロみたいなことをして、一体何の意味があるのだろうか。

これまでのヒトコト、回答をまとめました。

美しさに魅了されるとは

どういうことなのだろうか。よくわかっていない。

今日あるポスターを見かけた。写っているその人は、端的に言って美人だと思った。けれど明らかに整形していた。僕はその人のことを高校生ぐらいから知っていたが、今もあまり変わっていない。それは普通に考えると異常なことだ。20年以上の歳月が、その人に関してはなかったことにされている。僕よりも年上で、今は40代半ばらしい。とてもそうは見えない。せいぜい30代ぐらいにしか。

アンチエイジングについて、以前ポッドキャストか何かで聞いたことがあって、25歳ぐらいまでなら若返ることができる、それより前には技術的に不可能というようなことを言っていた。ポスターで見たその人も、単に整形というよりアンチエンジングを施したというところなのだろうか。なぜ若さに、美しさにそこまでこだわるのだろう。年相応ではいけないのだろうか。

以前にテラスハウスという番組で、出演期間中に整形した人がいた。整形やアンチエイジングがいいとか悪いとかっていう話ではない。他の出演者の人が、その整形した人の美しさに魅了されていた。美しさが人工的なものであるということは、その人たちにとってあまり重要ではなかった。

美しさを追い求めるにあたり、手段を問わない人たち。そうなろうとする人と、そういう人に魅了される人。そういえば昔、「永遠に美しく」という映画があった。ブルース・ウィリスやメリル・ストリープが出ていた。美しさに文字通り魂を売る話だった。

そうまでして取り憑かれる美しさとは、一体何なのか。美しさに魅了されるとは、どういうことなのか。何かこう、雰囲気だけではないロジカルな説明が読みたい。美しさに魅了されることと、性的に惹かれることはまた別のような気がする。例えば美術とか、音楽、もっと言えば数式とかにも、その美しさに魅了されることがある。

ちょっと調べてみた程度では、哲学の話や構造的、統計的な認知の話ばかり出てきた。なぜ、なんのために、魅了されるとはどういうことか、よくわからない。そのよくわからなさで言えば、信仰に近い。崇め奉ることも同じぐらいよくわからない。信仰も美も、当事者主観の理屈がなかったとしても、客観的に説明できないものだろうか。

美しさを基準に物事の善し悪しが判断されることは珍しくない。でもその美しさが何なのかはわかっていない。

2023.3.16

日記のタイトルはなくてもいいんじゃないかと思えてきた。日付だけでいい。タイトルがあると内容が予測できてしまって読まない、ということがよくある。タイトルの時点でフィルターがかかるから、何書いてあるか全然予想できない日付だけのほうが意外と読む。

でも後から書いた内容を見返すときに、タイトルがついていないと不便だったりする。日付だけのタイトルだと、いつどこに何書いたか見つけにくい。ましてや日付がタイトルの日記を見返すことがあるのか。だいたいこれと言って書くことがないから仕方なくい日付をタイトルにして、ダラダラ記述している。

TRANSIT、東インド・バングラデシュ号を買った。東インドにもバングラにも行ったことがなく、これから行く予定もないが、この号はずっと買おうと思っていた。東インドのコルカタ(前はカルカッタ)は、バックパッカー紀行文によく出てくる。パラゴンっていう日本人宿が有名だったそう。ドキュメンタリー映画で見たソナガチも確かコルカタだった。

コルカタもダッカも、どこを撮っても絵になるような写真ばかりだった。TRANSITは半分ぐらい写真を見るために買っている。

本屋の旅行本棚で、わたしの旅ブックスというシリーズを見かけた。紀行文が多いのかな、ハードルが低そうだった。気軽に読みたい。こういうの。

気がつくと、いまだに旅行のことばかり追いかけているな。それもこれからどこに行きたいとかではなく、かつての旅行に懐かしさをおぼえている。あれはあれで、いい時代だった。今は今でよくて、それぞれの時期にいいこととわるいことがあった。ときどき「今が一番楽しい」とか言う人いるけれど、よほど過去が不遇だったのか、肌感覚のある今しか考えられなくて過去がきれいサッパリ忘れてしまってるのか、なんなのか。僕もかなり昔のことは忘れてしまっているけれど、そのときどきなりの良さがあった。過ぎてしまえば良かったと思えてくることもある。

人は飲み歩きや風俗で借金を作るらしい

これを読んで。

仕事もしていて実家暮らしで、なぜ150万の借金を作るのかと思ったら、ストレス発散のための飲み歩きと風俗だった。そういえば前働いていたところの先輩は、借金は知らないけれど給料をキャバクラで使い果たしていた。

これまで借金と言えば学生ローンかバイクのローンぐらいで、それ以外は親にも金を借りたことがない。カードも一括のみでローン払いしたことない。大学を出てから実家を出て、お金に余裕があったわけではないけど、借金はなかったなー。だから人がどういう経緯で借金を作るのか、やむにやまれぬ事情以外では想像つかなかった。

ストレス解消も一概に責めることはできないが、昔から「飲む打つ買う」は悪徳のように言われてきた。これらに手を染めると経済観念が狂いやすいのか、借金に陥りやすい気がする。飲み歩きも風俗も、飲む、買う、に含まれるだろう。

僕は外で飲むことがほとんどなく、外食さえあまりしない。風俗も数えるほどしか利用したことがない。どちらもハマればバカ高い。ギャンブルは言うまでもなく、一瞬で溶ける。競馬、パチンコ、麻雀、何にしても一日費やせば手元に残らない。このあたりにハマってしまうと、借金まで行かなくても貯金は厳しいのではないか。このあたりを避けても、車だったりファン活動、ファッションといった趣味で使い果たす人もいる。そういう人生は満喫していて楽しいと思うけど、自分は通ってこなかった。強いて言えば、写真や旅行にはある程度費やしてきて、あとには何も残らなかった趣味だと言える。借金するほどではなかった。貯金もまあ、急に困らない程度にはあった。

ギャンブルはともかく、飲み歩きや風俗で借金するほどハマるというのは、よほど孤独だったのかと思う。一人でいられないから、お金を払ってでも人といる時間を過ごすのか。僕は「飲みの場が好き」という感覚がないから、基本家で一人で飲んでいる。そういう孤独耐性が強いというか、人と一緒にいなくても孤独を紛らわせることは、現代では特に難しくなくなった。どうしてもリアルがいい、生がいい、という人はコロナ中もキツそうだった。

飲み歩きや風俗みたいに、金のかかる手段で孤独を紛らわせるから借金に至ったのだろう。例えば、ソロではなくチームでやるスポーツのサークルとか、読書会のようなグループワークのあるイベントなどであれば、それほど金はかからないと思う。参加者同士のコミュニケーションが活発であれば、それが週末だけだったとしても、孤独に陥ることもない。でもそういうので宗教やネズミ講にハマって借金作る人もいるのか。見極めが難しいな。そのあたりはまた、経済観念が正常に働いているかどうかになってくる。

孤独耐性か経済観念か、どちらかが備わっていれば借金には至らない、気がする。どちらも鍛えるのは難しいが、究極を言えば人望をなくして一人にならざるを得ない時期もあるし、借金できなくなれば困窮生活を強いられる。どちらも鍛えることができるように思う。でも過大なストレスがかかっていたり、やむにやまれぬ事情を抱えていると、それも難しい。もしくは過大な欲求を抱えていると、健全なコミュニケーション、コミュニティでは到底解消できない。

自分はそれらにどうやって向き合ってきたのだろう。自分は金が無いという自意識が強かったため、何をするにもいかに金を使わないで済ますかしか考えてこなかった。要するにケチだった。だから結果的に経済観念が働いて、借金に至らなかっただけかもしれない。

ケチがかっこ悪いというか、みすぼらしいという価値観がある。その上でさらに人から良く見られたい心理が働き、散財するケースがある。またはケチっていることで心も貧しくなり、気が滅入る人も多い。そういう人は、欲しい物を買うことで満たされる、贅沢したり散財することで晴れやかな気持ちになる。僕もどっちもあるっちゃあるし、ないちゃあない。なくても平気でいられる状態を作り、保てれば散財することは減る。

40代だ

気づけば若い頃から聞いていたトム・ヨークもチバユウスケも、ぱっと見爺さんになった。歳も取るわけです。

加齢について、今までも何度か触れてきた。つい最近にも触れた。

だいたい似たような、ちょっと違うことを書く。歳を取ることの特徴のひとつとして、同じことを何度も繰り返してしまうのがある。それは前にやったことを忘れているから。加齢による健忘と言うのか。

今日が誕生日というわけではない。気づけば40を越えていた。あれ、自分今いくつだっけ?と思うことも増え、自分の年齢も覚えていられなくなった。ずっと最近まで、まだ39歳だと思っていたが、40を迎えたときにはちゃんとそれを自覚していた。単にその時のことを忘れていただけだった。二重三重構造で記憶の思い違い、年齢の勘違いがある。これも全て加齢による衰えだと雑にまとめてしまっていいものだろうか。

そうやって最近改めて自分が40を越えていたことを自覚したわけで、年齢なんかただの記号だと日頃のたまいつつも、それなりに思うことがある。まず一つ、去年に父が亡くなった。71歳だった。父の年齢を基準に考えれば、人生の折り返し点なるものは、とおに過ぎている。ましてやこれから先、変化のない日常を過ごしていくことになると、体感時間は加速度的に過ぎていく。気づいたら僕も70歳かもしれない。

父が亡くなるまでは、祖父が亡くなった年齢を一つの目安にしていた。父方の祖父が89歳、母方の祖父は93歳で亡くなった。しかし実の父がそれから20年も早く亡くなり、あてにならなくなった。もともとあてになるもんでもない。事故や天災にでも巻き込まれたら明日にでも死ぬ。ただまあ目安と考えるなら、残された時間は30年となる。この30年はそれなりに短い。

これからはただ衰えるに任すだけで、特に向上するわけでもない肉体と精神を背負っての30年となる。その時間を過ごす心持ちが、あまり期待できない。楽しかった時間は、もう過ぎたのではないか。あるいは生きる喜び、みたいなことはこれからも見いだせるのだろうか。そういうことを考える。

同時に、これまで本当にそんな楽しかっただろうか。若さがあった頃は、体力、勢いに乗って、今ならもうできないことをやっていた。例えば先日日記に書いたバックパッカーなんかは典型だと言える。今からでもできなくはないが、若い頃やっていたのとは質が違うものとなる。

若さゆえの苦しみもあった。自分は意外と、年をとってからの方が楽になったと思うこともある。結局どちらとも言えない。加齢への不安だったり、気持ちの落ち込みは20代にも30代にもあり、同じ不安を巡り巡っているだけで、本質的にはあまり意味がないと言える。若い頃が人生のピークだったと思う人も、それから解放されれば、これからの時間も意外と有意義に過ごせるかもしれない。

身体の不調は顕著になった。女性は30代から、男性は40代からと言うらしい。目に見えて体調が悪いというわけではないけれど、健康診断の数値などが改善しなくなった。ここ数年はコロナだったおかげで運動量が減り、体力も落ちた。意識的に維持管理をしないと、簡単に身体に響くような気がする。

これは長生きしたいとか、早く死んでもいいとかそういうこととは少し別の話だと思う。生き死には別として、日々を快適に過ごしたければ、少しでも体調は整っていたほうがいい。体調の良し悪しは、寿命うんぬんよりも毎日の気分に影響する。気分が悪いと、性格も悪くなる。すると余計に物事がうまくいかなくなる。健康で体力があれば、なんとかなるような気がする。若い頃は放っておいてもその状態だった人が、加齢による衰えで人格が変わってしまったとしたら、体調を維持管理することでまたある程度元に戻れるかもしれない。

僕はどちらかというと、若い頃のほうが不安定だった。体力や機能が衰えたとしても、今のほうが安定はしている。

残された時間を生きるにあたっての、ささやかな娯楽は何だろうかと思い浮かべてみた。一つはテクノロジーの発展で、今までになかった技術が開発され、世の中が変わっていく様子を見るのはおもしろい。今までだと、自分の生きている間ではインターネットやスマートフォンが大きく世の中を変えた。些細なことも、配車アプリなんかは日本でも海外でもめちゃくちゃ便利で、昔では考えられなかった。今だとChatGPTやMidjourneyのようなAI技術、仮想通貨といったもの、もしくはまだ知らない何かが未来をどのように変えていくのか。今の段階で想像もできない未来を体験するのは、これから先を生きる楽しみの一つである。

技術だけでなく、それに伴う文化の移り変わりも見たい。人々の意識だったり、それに影響を与えた、もしくはそれらを反映した芸術を見るのも心躍る。過去からの変化を系譜を追ってたどり、変化のきっかけや要因となったことを探りたい。時代の転換は、こまごまとしたことなら短いスパンで起こっている。僕が高校生ぐらいまでは、テレビの時代だった。インターネット以降にそうでなくなり、動画配信、YouTube、ニコニコ動画が起こっては消え、TikTokも映像文化に位置づけられる。新しいものを見る喜びは、生物の進化の源泉であるように思う。自分はいつまでフォローできるだろう。昔は良かったなどと、言うつもりはない。