手紙が来た。

日本からだ。先日書いた、件の彼女からである。

手紙を書くとは言われていたが、まさか本当にこんなに早く来るとは。女性は男性に比べ、現代においても紙の手紙を書く習慣が残っていると言う。紙に手書きをするほうが、気持ちが込もるからだそうだ。今まで紙の手紙なんて数えるほどしかもらったことないが、これは来た。来るものだった。僕は思わず涙ぐんでしまった。なんだろう、この味わい深さ。まんまとしてやられた。

落ち着いて書き綴った手紙には、想いが宿る。僕のことを気遣いながら、本人のつらさも受け取れる。同時に、何書いたらいいかわからない感じや、若干の照れも見て取れる。僕を励まそうとする思い。つらいだけでなく、滅多にない今の状況を楽しもうとしている姿勢。この人は強いなあ。僕はこの人のこういう強さにも惹かれたんだ。

skypeなどで彼女と話すとき、僕はいつもどおりの口調で近況報告をする。明るく、おどけて、遠く離れたこの地で起こる、身の回りの珍事を楽しく紹介している。ときどきは悲観にくれながらも、トラブルを楽しんでいる空気すら醸し出している。「会いたい」「寂しい」とは言わない。そんなことは言わなくとも大前提にある感情で、わかりきっている。そのうえで僕は今ここにいるのだから。

しかし、ときどき居ても立ってもいられないことがある。そばにいたくて、触れられなくて、悲しくて、今すぐ飛行機に飛び乗ってしまいたくなる。なんで今こんなところにいるんだろう。一体何をやっているのだろう。泣き出しそうになる。

そういう感情は、自分の根底でずっと流れている。それがふと弱ったときに顔を出してしまう。この気持ちは伝えられない。伝えてしまうと、容易に相手に伝染してしまう。だってこれは、自分だけの感情ではないから。相手だって同じ感情を持っている。同じ感情を持っているが、お互いが相手を気遣い、表に出ないよう励まし合っている。もしこれが相手に伝わってしまったら、相手が抑えていた同じ感情も誘発してしまう。そんなことをしてもお互いがつらいだけ、苦しいだけだ。

さて、どうだろうか。そうでもないような気がしてきた。なんたって、彼女は強い人だ。僕の弱音に飲まれることなどなく、僕が弱音を吐こうものなら尚の事励ましてくれるに違いない。僕だってそうだ。彼女の悲しみやつらさが表に出たとして、同調してしまうことは多少あるけれど、きっと僕は楽しく前向きに彼女を励ます。どちらかが、どうしても限界だというときには日本に帰ってくればいい。そしてそうならずとも、僕らはきっとうまくやっていける。

来年の夏に、会いに来てくれることをずっと楽しみにしています。再来年には僕が一時帰国するよ。一年に一度しか会えないような状況なんて、並々ならぬことだ。普通のカップルだったら別れるだろう。でも僕らはそんなもんじゃない。僕らはほら、本物だろう?僕には乗り越える意思があり、あなたにはそれだけの強さがある。ただそれでも、本当に限界が来そうになったら遠慮なく伝えてほしい。迷わずあなたのもとへ帰ります。

気持ちの切り替えが下手で時間を無駄にしている

やらないといけないことがいくつかある。非常にめんどくさくて、全然手を付けてない。早く終わることからやろうと思い、今やっと洗濯を終えたところだ。洗濯さえ2日間ほったらかしていた。多分、気持ちを切り替えて眼の前のやるべきことを順にこなしていけば、そんなに時間がかかるものでもないはずだ。どこかで手詰まりになり、一時的に止まってしまうことはあるものの、そのときにはまた他の手付かずの業務に入り、手元にあるできることから順番に進めて物事を全体的に徐々に進めていくのが順当なのだろう。しかし、めんどくさい。やってられない。そうやって手付かずのままほったらかしている。

  • 作業計画
  • それ以前の問題
  • 早くやれよ
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スマホの通知をオフにしている理由

スマートフォンの通知は心臓に悪い。3ヶ月ほど前、親からLINE通話がかかってきた。普段メッセージでしかやりとりしていないのに、何事かと思って出た。親はもう高齢であり、何かあったのでは…出てみると、今夜食事に行く時間がどうたらという既に3回ほど確認している内容の再確認だった。

「そんなくだらないことで電話してくるな」

とつい声を荒げてしまった。心臓に悪いと。同じことを何度も確認するのは高齢だから仕方ないとは言え、自分が安心したいためだけに人を巻き添えにするのは全くの自分本位であり、相手に悪いと思わないのかと。

しかし、責任の一端は僕にもあった。通話のコールを受ける前から既に、LINEで確認のメッセージが来ていたのだ。僕はそれを無視していたわけではなく、見ていなかった。なぜなら通知をオフにしているから。iPhone上の通知は、通話以外全てオフにしている。赤バッジもオフ。

「緊急の要件があるときはコールしてきて」と普段から言っていたのが仇になった。自分が安心したいだけというどうでもいい要件も緊急だと判断され、結局わずらわされる。急に電話がかかってきたら心配するからやめてと親には言っておいた。

  • 通知怖い…
  • テレビ世代の情報収集
  • 情報取得の姿勢の違い
  • ただ干渉が苦手なだけです…
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人を知ること、その先に

人をよく知ることの先には何が待っているだろうか。相互理解だろうか。良好な関係性だろうか。もしくは争いだったり、弱点ともなれば奪い合いだろうか。それとも共闘によるシナジー効果だろうか(前の職場に口癖のようにシナジー効果と言う人がいた)。

ここから先は僕の事例。僕が人のことだったり、何か物事を知ろうとするとき、その先に求めるのは世の中を見据える新たな視野だった。学問を身につければ、世の中の一部を専門的な視点から深く掘り下げることができる。どこまでも深く、際限ない。横を見渡しても広い。分野に限りはない。隣りにいる人は、また自分とは違った視点から世の中を見つめている。海の向こうでは全く違う視点で世界が語られている。そのような別の視点を知りたい。あらゆる視点を。それらを統合して、まんべんなくこの世の中を眺めてみたい。一体どういう仕組みでこの世の中は成り立っているのだろうか。

人のことを知りたいときは、その人がどういう視点を持っているのか知りたい。あわよくばそれを自分の中に噛み砕いて理解したい。そうやって新たな視点を身につけたい。他人に備わっている視点は、感覚的にはわからない。その仕組みを知る必要がある。その視点はどういった経路をたどり、どのようにして構成されているのか。ありとあらゆるパターンの解析が必要になってくる。それらを全て知って初めてインプットすることができる。こういうとき、この人だったらこう考える。一つの人格が自分の中に出来上がる。それらは知識であり、学問である。

人に興味がわかないときは、その多くが既にそのパターンを知っているとき。でなければ自分に必要のないパターンだったりするとき。物事をこんなふうに捉えられたらおもしろいなーと思ったときに、人に興味がわき、その人のことを知りたいと思う。彼は彼女は、何をどう考え、どう感じ、どういった答えをだすのかが知りたい。

よくしゃべる俺

先日飲みに行ったとき、7時間ぶっ続けで喋っていた。相手の人はさぞ疲れただろう。ごめんなさい。そして僕はよく喋る人間、話好きだと思われている。無理もない。ただ実際のところはどうだろうか。

  • 話好き?
  • 聞き上手?
  • 話し上手?
  • 人気者ってなんだ
  • もしかしてすごいのかも?
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自己評価を重視しがち

「人からこう言われてるよ」みたいなことをよく聞く。僕の場合だと「気味悪がられている」パターンが多い。ここ2ヶ月の間で5、6人から「ヤバイ人だと思ってました」「めっちゃ怖い人だと思ってました」と自供された。自分がなんで怖がられるのか理解できなくて、おもしろがっていろいろ聞いた。誰とも目を合わせないとか、口を開かないとか、目つきが悪いのが原因だとか。眉間にシワを寄せる癖がある。これは意識しないと直らん。でも意識して直す程のことでもないなーと思い、ずっとそのままだった。

果たして人は、人からの評価を気にするのだろうか。全く気にしないと言えば嘘になる。「人からこう言われてるよ」という話はおもしろい。別の人の視点で自分がどう見えているのかという話は新鮮に聞こえる。しかし、その程度だ。おもしろがる程度。それを深刻に考えたり参考にしたりはしない。他人の意見はあくまで他人の意見であり、あまり意識しない。人からどう見られているかなんて、基本的にはどうでもいい。好かれていようが嫌われていようが、怖がられていようが気味悪がられていようが、自分には関係ないと思ってしまう。

それでは何を重視するかというと、自己評価になる。他人の評価よりも、自分がどう思うか。自分で納得できるか。自分で自分をジャッジする。それ以外はあまり、なんとも思えない。他者評価が重要な場合はたくさんある。仕事だったり、他者との関係性で成り立っている事柄は、自己評価よりも他者評価が重要になる。あくまで関係性の上では、という話だけど。つまり、他者との関係性をどれほど重視するのかが、他者評価を重視する基準となる。

他者からの評価が上がれば、他者との関係性を改善できる。一方、他者からの評価を気にせず、自己評価を気にすることに何か意味があるのか。自己評価とは何も良い評価ばかりではない。悪い評価も自己評価にあたる。だから、自己評価にこだわることで必ずしも自信が持てるわけではない。むしろ自己評価を徹底することで自信を失うことのほうが多いだろう。

自己評価を行うことの意味は、自分で自分に問いかけることではないだろうか。それで何が起こるか。自己問答を繰り返すことにより、自分の価値観や考え方、嗜好性がクリアになる。判断基準、軸が明らかになる。自分の軸がはっきりしてくると、他の意見に惑わされにくくなる。自己問答を繰り返す過程で、自分を知ることになる。そうなってくると、他者の意見はあくまで他者の意見でしかなくなる。そして「自分には関係ない」と思えてくる。

他者の意見に惑わされやすい人は、自己評価が足りないんじゃないだろうか。他者との関係性なんて、そんなに重要なのだろうか。だとしても、それはそれで切り分ければいいのではないかと思う。おそらく誰もが持っていると思う、他者と対峙するとき用の自己。そのままの自己、RAWなやつは、なかなか他者にぶつけられない。だから自分で処理すればいい。他者と対峙するにあたっては、他者と対峙するとき用の自分を磨き、ぶつければいいんじゃないだろうか。それはある意味、自分ではない。そんなものは、褒められたりけなされたところで何も響かない。

ただ現実として、そういう作られた作品のおもしろさは限定的であり、エンタテインメント性に特化している。自分が本当に見たい他者は、やはり受け入れがたいRAWなものだったりする。

自分から話しかける

自分から話しかけることが多い。話したことがない人に対して、一度自分から話しかけると、打ち解けるというほどではないにしても、それまでよそよそしかった人もまた向こうから話しかけてきたり、気軽に会話が進むようになる。相手と仲良くなりたいとか、何か特別に話がしたいとかいうわけでもなく、ただなんとなく「声かけたほうがいいんだろうな」と思ったら話しかける。話しかけないほうが不自然だと思って。たまに興味を持っているとか仲良くなりたいとか誤解されることもある。全然そんなことはない。興味を持つのはその後、話の中身に入ってから。

意外とやらない人が多いように感じるのは、多くの人が話しかける相手を選んでいるからだろう。僕自身はほとんど話しかけられない。選ばれない。でもおそらく、僕だって無意識に相手を選んでいる。いわゆるコミュニケーション強者は本当に誰に対しても話しかけている。いつでも、毎回。僕はそれができない。気分で話しかけたり、全然応じなかったり、そのときどきで落差が激しい。僕が基本的に話しかけられず、話しかける側なのはこういう態度にムラがあるからだろう。本当によく色んな人から「話しかけづらい」と言われる。そりゃあそうか。

ということはやはり、僕にだって話しかけやすい相手がいるということになる。人から話しかけられやすい人は、話しかけやすい雰囲気を出しているのだろう。僕自身も話しかけやすい人に対して声をかけているのだろうか。けっこうまばらに声をかけている気がする。自分が話しかけない対象といえば、話しかけなくてもいい相手になる。つまり、なかば義務感のようなもので話しかけているのか。声をかけたいわけじゃない。何を言うでもない。ずっと黙っていたっていい。けれど何も言わないのは不自然だなと思ったときに、相手が誰彼構わず声をかけている。

たまに、話しかけられるのを待ってる人がいるという話を聞く。その心理は全く理解できない。待つぐらいだったら自分から話しかければいいのに、なぜ、何を待つのだろう。待つぐらいだったら特に話す必要もないのではないか。待つ人生だったのだろうか。

女性の顔に何を見るか

「男性の方が女性を外見で判断することが多く、女性は相手の中身で判断する」とよく言われる。実際どうなのか知らないが、男女にかかわらず誰しも好意を寄せる顔面のボーダーラインというのが存在するだろう。他人のデータはないんで、今回も僕自身の事を話す。僕は女性の外見で何を判断するか。

僕の場合、相手の歪んだ顔にそそられるかどうかだった。歪んだ顔とは、笑顔だったり苦悶の表情だったり、つまりは表情だ。歪んだ顔を見たいと思う対象にそそられる。これはもう端的に言ってしまうとセックスのときの顔になる。顔を見る。電気とか消してはいけない。

たとえ美人であっても、表情を見たいと思わないタイプであればそそられない。巷の男性であればAVなど見慣れていると思うが、美人でもそそられない例を数多く見てきたんじゃないだろうか。逆もまた然り。決して美人に類する顔ではないにしても、表情にそそられる例を見てきたと思う。

単に表情が豊かだとかそういう話ではない。僕の場合はわざとらしさを見かけると一気に冷めてしまう。僕自身も演技ができない人間だ。だから、表情が如何に自然に変化するかどうかを見がち。あとは一見するだけではわからない情感の深みとかだろうか。そういうのを総合的に読み取ろうとする。

こういう話はもちろん、付き合うとか結婚するとかとは全然別になる。顔が好きだと言われたらセックスパートナーとしか見られていないと思っていい。でも顔が好きじゃないと言われたって、そういう対象に見られないとは限らない。失礼な話だが、顔を見なければいいだけ。これは男女かかわらず同じではないだろうか。顔が好きだからってずっと顔ばかり見ているわけじゃない。ちら見する程度。僕自身はあまりに無表情で怖いと言われたことがあった。

そういわけで、顔で人を判断するときには、一体何を判断するのかという割と最悪な話でした。僕の場合は表情の変化を見たいかどうか。トランプが選挙戦を争っていたとき「ヒラリーでは抜けない」という名言が飛び出した。

悪く言ってしまいがち

自責の念に駆られている。物事を悪く言うのは善くない。人のことも悪く言ってはいけない。聞いているほうは不快であり、言っている人の印象も悪い。言及したり批判することが大切なときもあるが、否定的な意見を言うだけでは誰も得しない。改善案を提示したりポジティヴな側面に注目したり、おもしろおかしい話をしたほうが建設的だ。つい昨日も言ってしまったばかりで、ずっと悔やんでいる。取り繕いたいと考えていたが、そういう行動も含め全てが見苦しいだけ。粛々と心の中で悔やんでいる。いや、今これ書いているんだけど。これは弁解とかではなく反省と改善を目論んでのこと。

  • 自己否定を言い訳にしない
  • 感情的にならない
  • 余計なお世話
  • 幼稚な発想を捨てる
  • 外国人あるある
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恥ずかしさについて

日本文化は恥の文化だと言う。世間体が最重要視されるようになったのはいつからだろう。しかし外国においても「メンツ」が大事だというのは同じで、「恥」の基準が違うだけなんじゃないかと思う。アメリカは「プライド」の文化で、韓国は「恨」だっけ。そんなに大きな違いを見いだせない。

僕自身は恥とかメンツとかをあまり大事にしてこなかった。これは僕だけでなく、僕の生まれ育った家、特に父親がそうだった。人の目線を気にしない。顔色を気にしない。世間体を気にしない。恥ずかしいことを平気でやる。食事のマナーなんか最悪だ。僕自身もそういうところを受け継いでいる。前に勤めていた職場ではたびたび「社会人としてあるまじき」とか「社会人として失格」みたいなことを言われた。社会人ごっこやりたくないなーと思いながらも、その場のルールに則らないと退場になることは理解できたから、なんとか取り繕っていた。冷静に考えてマワシがかっこ悪いと思っても、デニムで土俵には上がれない。その後マワシを取って退場した。

恥ずかしいと言われることはたくさんある。例えば僕は車の免許がなくなった。車に乗れないこともよく恥ずかしいと言われた。東京圏の人は車いらないと言う人も多いけれど、それ以外の地域では大抵車に乗れて当たり前のようなところがある。そういうのにあまり関心が持てない。歩けばいいやとか、自転車でいいやと思ってしまう。

僕ぐらいの年齢だと車だけでなく家や家具だったり所帯を構えたりすることで世間体を取り繕うことも多い。賃貸が恥だと思う感性もあるようだ。僕自身は実家で論外だが、テント暮らしで構わない。物はなるべく持ちたくない。家具なんてもってのほか。移動が大変だから箱男でいい。結婚とか子供とかは本当に遠い世界の出来事で、想像したことがない。

それ以前に、30越えて無職で実家ぐらしとか、金が無いとか、そういう今の現状を恥だと思う人は多いだろう。世間的に見ればクズだし、かっこ悪い。さすがに僕もかっこいいとは思っていないから、無職で実家ぐらしで金ないことを誇ったりはしない。訊かれたら答える。するとまあ、引かれたりフォローされたりする。先日もビジネスに興味がないという話をしていて「なんでですか?」と訊かれたから「ビジネスしんどいじゃないですか」と答えた。「まあ、そりゃそうなんですけど…」と呆れられた。彼らはそれをやるのが当たり前だと考えている。当たり前にやるのが人間だと。

こういう人間観はどこから来てるのかなーと思ったら、アーレントの『人間の条件』みたいなあーいう感じなんだろう。「人として一人前」みたいな古き良き人間の定義。それで言うと僕は「労働する動物」でさえない。消費活動があまり好きじゃないから。では一体なんと呼べるだろう。「自生する草」あたり?水と太陽光のような、わずかな天の恵みでなんとか生をつないで、枯れたら消えるだけ。

それを恥だとは思わない。フリーライダー。自立すべきと思っていた時期もあったが、自立っていうのは究極的にはありえない。会社員だって会社に飼われているようなもんだ。自営業者だって顧客との関係ありきで成り立っている。彼らの場合は等価交換、もしくは付加価値を提供しているかもしれないが、人は結局のところ自分だけで成り立っていない。付加価値を提供して社会参加したいか、したくないかだけの違い。そういうのはやりたい人だけが好きにやればいい。

僕の場合は一方的に享受することが多く、誰にも何も与えていないから社会的に見るとお荷物でしかない。近代国家を形成する市民たり得てない。義務を全うしていない。「それで何が悪いの?」と開き直ったりはしないが、「恥ずかしくないの?」と訊かれたら「気にしない」と答えてしまうだろう。社会参加に興味が持てない。一方的に享受できなかったら野垂れ死ぬだけで、今生きている状況に対してそれ以上のことを求めない。自堕落、と言われてしまえばそうです。

恥ずかしいと思うことはなんだろう。さすがに全裸で走り回ったりするのは恥ずかしい。あの感覚は何かと言うと、変な目で見られるからだ。銭湯だったら恥ずかしくない。誰もいなければ、誰も変な目で見なければ恥ずかしさはない。人の目を気にしないとは言え、さすがに大勢からジロジロ怪訝な目で見られたり、具体的な害を被ったりすれば気になる。日常でそういうことはあまりない。不特定多数の人が、特定の個人に対して真っ当な人間かどうかを気にする機会も少ない。多少変な目で見られることは慣れているから、気づかないか、もしくはなんとも思わない。

結局恥ずかしいと思うかどうかについては、世間一般の視線に敏感かどうかと、自分が「こうあるべき」みたいな基準が明確かどうかの二つに絞れる。そして僕にはその二つが欠けているというだけの話でした。世間が自分をどう見るかに興味を持てなくて、自分自身への厳しさもない。そういう連中が平気でホームレスをやるのだ。ちまたにも溢れかえっており、別に恥ずかしくはない。

「誤解」について思ったこと

誤解によるストレスに煩わされるだけの人生だった。言ったことは伝わらないし、正確に認識されない。どっから出てきたのか不明の意見と混ぜ合わせて拡大解釈される。「そうじゃない」と重ねて説明しようとするが、もう相手の頭の中にできあがってしまった新しい物語は独り歩きしている。こうなったらもうお終いだ。何を言っても通じない。耳を貸さない。そうやって誤った解釈は伝搬の過程で幾度もの改変を生じ、オリジナルとは似ても似つかない代物になる。誤解とは、逃れることの不可能な伝言ゲームの醍醐味なのだろう。よく「一次情報に頼れ」と言われるのはこの伝言ゲームを起こさないためだ。

誰しもがそういった誤解にさらされているだろう。「わかった」「理解した」「そうじゃない」、言葉の伝わらなさ、内容の伝わらなさは自分にとってずっと苦悩の種だったように思う。これまで発してきた言葉はすべて誤解を解くためだけの釈明、弁明ようであり、発しなかった言葉は誤解を招く見立てがついていたため口から出なかった言葉だった。

僕自身はなんとか誤解を避けようと、正確に話すことに努めていた。自分の意見や考えから1ミリもずれがないように、誤解の余地を削り取るように言葉を付け加え、長ったらしい計算式とその答えを提示しようと努力していた。しかし、あまり意味はなかった。なぜならその式は読まれなかったから。「その意見については既にここで潰している」は通じなかった。もう相手の頭の中では別の物語が進行中だったから。「絶対こうに違いない!」「そうじゃないって最初に言ってる」「でもそう読み取れる」などと言った不毛な会話を何度繰り返してきただろうか。伝達というのは根本的に機能しないんだなーと思いながらも、いかに正確性を上げるかばかり考えていた。

で、今回読んだ本が「ゲンロン0 観光客の哲学」。この本で書かれている「観光客の哲学ってなんだ?」という主題には今回触れない。この本には「誤配」という言葉が出てきた。郵便物を誤った住所に届けてしまう誤配だ。届けるはずの住所に荷物が届かず、別の住所に届くはずのない荷物が届く。そういう誤配によって、本来起こり得なかったことが起こるとかそういう話。例えばTwitterのように、本来届けるつもりのない相手に偶然読まれることによって、拡散されるはずのなかったメッセージが何万人にも読まれ様々な解釈を生んだりすること。SNSはそういう誤配が起こりやすい装置となっている。

意見、言葉、表現はいかに強烈なメッセージがあろうとも、拡がれば拡がるほどオリジナルの手を離れる。そこには千種万様の視点があり、見方があり、解釈がある。思いもよらない方向からボールを投げつけられたり、感謝されたり同意されたりするかもしれない。しかし、そこから「オリジナルが何を言いたかったか」なんて主張することはもう不可能で、真意を伝えることにこだわり続けるのは無意味だとさえ言える。だったらどうすればいいのか。誤解されることを恐れるのであれば、何も言わないでいるしかない。では、なぜ誤解されることを恐れるのだろう?一つはいわれのない非難を浴びるから。もう一つは、コミュニケーション不全であること、他者への伝達がうまくいかない世界で生きることへの不安が生じるから。

でも誤解というのは必然なんだと思った。僕はずっと正解を求めて生きてきたけれど、誤解もまた正解の一つなのだろう。少なくとも相手にとってはそうだ。ときには被害をまぬがれるためや、関係を維持するため釈明に精を出さないといけないこともある。ただ、もし誤解そのものが正解の一つで、必然であるとしたら。我々の生はこれまでもこれからも、誤解の上で成り立っているんじゃないか。だったら誤解は受け入れてしかるべきなのではないか。誤解を避けようとか、誤解を正そうなんて思わなくてもいいんじゃないか。自分の言葉を誰がどう捉え、どう感じ、どう応えるかなんてコントロールできるわけがない。他人から見える自分は見る人によって違い、ましてや自分が思う自分ではない。はじめから誤解されているんだ。

何も発しない平穏な暮らしだって悪くない。でも多分それは暇でしょうがないだろう。分かり合える者同士、誤解の少ない閉じた空間で過ごすのも快適かもしれない。でもそれだけではやはりどこかで飽きが生じる。誤解こそが一つの正解であることを受け入れ、もっと誤解して誤解されて、手広く言葉を発していったほうが退屈しないですむと思う。どのように評価されようと、それは彼らの評価であって自分の評価ではない。人は互いに誤解し合う生き物で、誤解もそう悪くはない。

痛みに慣れているのか

歯医者に行って、気になっている部分を伝えたら「どのくらい痛みますか?」と聞かれた。そこで「痛みは無いです」と答えたら、マスクの向こうでやや困惑された。どうやら歯医者に駆け込む人は痛みを伴っていることが多いらしい。痛くなってから歯医者へ行くよりも、予防とクリーニングを兼ねて月一ぐらいで通ったほうがいいですよ。余裕があれば。僕は2年ぶりぐらいに行った。

歯の治療は、子供の頃から麻酔無しでやってもらうことが多かった。麻酔を打ってもらうとその後が不便で、「痛いですよ」と言われてもそんなもんだろうと思っていた。痛いのは当たり前。もしかしたら痛みに慣れているのかもしれない。痛みを感じないとか、痛みに強いというわけではない。むしろ敏感な方じゃないだろうか。ただ慣れているだけ。

注射が苦手だという人がいるけれど、それは多分慣れていないからだと思う。注射が痛いことには変わりないが、慣れるとただ痛いだけで、特別視しなくなる。入院なんかしてしょっちゅう注射打つことになれば、その都度気にしていられなくなる。「殴られるのが嫌ならボクサーなんかやるな」ってどっかのセリフにあった。彼らは殴られることに慣れているから、他の人に比べて動揺しないだろう。

痛みに慣れるっていうのは、そんないいことでもない。痛みのシグナルは受け取っているのにもかかわらず、それ相応の反応をしなくなっているということだから、ある種の機能不全に陥っている。受け取った痛みをしっかりと認識して、反応を示すことが健全な証だ。じゃあなんで慣れるのかというと、慣れたほうが楽だったから。

取り除けない痛みなら、逃れられない痛みならば、慣れるしかない。入院患者もボクサーも、いちいち痛みに反応していてはやっていけない。そのようにして痛みに身を任せてきた結果が今なのかもしれない。痛みに反応しては自分を見失っている人を見ると「慣れてないんだな」と思う。慣れていないと怒りだったり悲しみだったり恐怖だったり、何らかの感情が湧く。慣れているとただ「いてー」としか思わない。

煩わされるのが嫌で、慣れるように心がけてきた。おかけで感情にはなんらかの歪が生じている。慣れようとしてこなかった人は、活き活きとした感情を発露している。しかし痛みが永続的であるならば、慣れてしまわないと気が狂っていただろう。そうやって気が狂った人も見てきた。どちらが正解とも言えず、生き方の違いだと思う。

自意識過剰ってなんなの?

先日若林の本を読んでいて、何度も出てきた言葉が「自意識過剰」だった。「自意識過剰」という言葉が流行ったのは少し前の時代だと思うが、それがどういう意味なのかはいまだによくわかっていない。自意識過剰って何なんだろう?自意識が過剰って、じゃあ自意識ってなんだ。自意識、自我のことだろうか?自我が過剰っていうのはよくわからない。

調べてみたら、自分自身について意識することが自意識だそうだ。自分自身を意識するってどういうことだろう。自分のことを考えるのとは違うのか?どうも意識するっていうのは思考ではなく感覚を指すようだ。「あの人を意識している」とか言うように、感覚的に気になっていることが意識すること。そして「自分を気にする」ことが自意識で、自分を過剰に意識しているのが自意識過剰らしい。

このあたり正直なところまだ全然ピンとこなくて、自分を意識するということがどういう状態なのかわからない。ましてや過剰に意識するとは。そんなことを言ってたら話が進まないから、一般的に言われる自意識過剰とはどいう状態を指すのか調べてみると、「他人からどう見えるか、過剰に気にする」「他人に良く見られたい願望が強すぎて、過剰に努力したり自分を偽ったりする」そういうのを自意識過剰と呼ぶらしい。

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自分への質問

ときどき読んでいるブログがネットで見つけた質問に答えていたので、真似してやってみたくなった。

Q1.アナタが1日で一番好きな時間は何ですか??

寝ている時間、夢も見ていないとき。

Q2.アナタが生きてるなぁ~とおもう時は?

痛みを感じているときに生きている実感を持つ

Q3.今の自分で好きなところを1つあげてください

自分に正直なところ。唯一それぐらい

Q4.自分を誉めてあげてください

まだ生きてるねーよく生きてるねー

Q5.一番大切にしているものは何ですか??

思い出とか、思考とか

Q6.落ちこんだ時はどうしてますか??

とことん落ち込む。それ以外のことはできない

Q7.落ちこんだ時はどうやって立ち直りますか??

立ち直れない。けれど冷静に考えるようにしている

Q8.ものがうまく行ったときどうやって喜びますか??

誰かれ構わず人に吹聴しまくる

Q9.泣いた後の気持ちは??

うわー泣いてるわーかっこわりー

Q10.幸せと思える瞬間をおしえてください

安眠が約束された瞬間。実はそんなにないから

Q11.本音で話せる友達はどのくらいいますか??

だいたい誰にでも本音で話す。友達に限らず

Q12.親友って??

そういう名前の括りがあるだけで、中身はないと思う。カテゴリ縛り

Q13.家族って?

生活をともにする人じゃないかなー。ファミリー

Q14.自分らしくって?

演技しないってこと?あんまりそういうことは考えなくなった

Q15.友達って??

知り合いでいいと思っている

Q16.学校いっててよかったこと(会社も)

そういう世界を知れたこと。今は行ってないです。

Q17.パソコンしててよかったこと

世の中の基礎教養を一つ手にしたこと

Q18.自分をしかってみてください(なければなしでも)

いつもいつもめんどくせえ

Q19.いつもよくしてくれている人に感謝の言葉を(なければいいです)

楽しい時間をありがとう。

Q20.ありがとうっておもえるときって?

ぼーっとしてないときは、意識的に思うようにしている

Q21.時間ができました、いまいきたい所は?

ベトナム再訪。ホーチミンはあれからどう変わったのか

Q22.今ほしいものは?

その気になれる具体的な目標とか

Q23.1日時間ができました、何をしますか?

映画見る。ぐらいしかない

Q24.今始めたい日常生活のことはありますか?

ランニング足袋のジョギング。雨シーズン前に

Q25.ものを忘れられるときって?

ふとした瞬間に無意識でいられるとき

Q26.どういうときにがんばれる??

がんばれない。強いて言えば怒り狂って殺意が充満しているとき

Q27.生きている間にしておきたいことは?

もうないかなあ。大体やったから

Q28.家にこれがないと困るというものは?

ガス、電気、水道。屋根と電波もほしい

Q29.自分に必要なものって??

ないと思う。なくて生きてるんだから

Q30.自分に優しくしてあげてますか??

冷静に見ている。それが厳しくないとも言える

Q31.周りの人に優しくできてますか?

周りの人はあまり見ていない。むしろ誰もいない

Q32.小学校の思いでは?

犬が乱入してきた。不審者が侵入してきた。韓国人の女の子が好きだった

Q33.中学校での思いでは?

全てがろくでもない学校だった。中学だけは二度と行きたくない

Q34.高校での思いでは??

寝てマンガ読んでた思い出しかない。愛着もない

Q35.大学、専門、会社での思いでは?

大学も馴染めなかった。会社は世代の違いを感じるところだった

Q36.尊敬してる人っていますか?そのひとは?

たくさんいる。かっこいい人

Q37.ライバルって??いますか??そのひとは??

土俵で闘っていない

Q38.1年後の自分を想像してください、どう変わってますか?

人間は変わらないと思っている

Q39.自分の落ちつく場所は?

静かに寝られる場所じゃないかなー

Q40.晴れと、曇り、雨、どの日が好きですか??

晴れだけど、晴れた夜が好きです。

Q41.小さい頃の夢覚えてますか??それは?

夢はなかった。単純に強い人に憧れていた

Q42.小さい頃どんなことして遊んでました??

ひたすらゲームしていた。今考えると異常なほど

Q42.旅をしたことあります?よかったですか?

旅行という意味ならしているけれど、旅ってなんだろ。目的のない旅は楽しめない

Q43.自分の得意なことは?

割り切ること?得意なんかなー気のせいかもしれない

Q44.自分の苦手なことは??

我慢すること。続けること。幼稚園児みたいだな

Q45.好きな食べ物は何ですか?

食べ物は特に、なんでもいい

Q46.近頃迷惑したことは?

でかい声、うるさい音

Q47.ちかごろうれしかったことは?

研修の一つが滞りなく終了した。楽しめた

Q48.どんなおじいちゃん、おばあちゃんになりたいですか?

そういうの全然思い浮かばない

Q49.つぎうまれるときは、何になりたいですか?

なんだろ、すぐ枯れる植物で。

Q50.ちかごろ大変だったことは??

今いろんなレポートを書かないといけなくて大変

最近の二週間、毎日朝から夕方まで研修に通っていた。内容はともかく、二週間程度で人と打ち解けたりはしないなーと改めて感じた。人は人のことなんて興味がなく、もし誰かと仲良くなりたければ自分から近づいていかないといけなくて、でも自分だってそんなに人と仲良くなりたいなどと思わないから、あってないような関係性と存在だけが一瞬通り過ぎて忘れ去られてしまうだけに終わった。

もしかしたら、人から優しくボールを投げかけられていたのかもしれない。昔のことだって、思い返せばそういうことが多々あった。僕はボールをキャッチして投げ返すどころか、ボールを避けてその場から立ち去っていた。今回もそのようなことがあったのかなかったのか、今はまだわからない。もしかしたら後で気づくかもしれない。今回は研修でバタバタしていたし、目の前のことに精一杯で、他のことまで気が回らない。人の親切とかに気づけない。

そういう余裕のない状態、振り回されている状況はあまり好ましくない。流れに飲まれているだけで、生きた心地がしない。ちゃんと認識したいし、把握したいし、考えて、意思決定をしたい。視座を確保したいと思う。そしてそれはあとになってからでは遅い。終わってから振り返ったって、何も解決しない。その場その場でしっかりと腰を据え、物事を考え対応できるようにしたいものだ。人の好意や親切には報いたいと思う。

答えを探している話

答えを形作りたい。こうです、これです、でました、という答え。手段ではなく、探していたのは答えだった。過程に興味はなく、その先にある結果を導く手段ならなんだっていい。

プロセスが答えだっていう人もいるのだろう。自分はそうではなかったというだけの話。その先にあるのは全体なのだろう。全てがその先に結びついている。把握したい。思い返せば一度人に話したことがあった。うまく言い表せなかった。全てを内包するもの。その手段もなにもかも。

だから、夢とかやりたいこととか自己実現を語る人に何一つ同調できなかった。ずっと違和感を覚えていた。そうじゃないし、自分はそういうのどうだっていいんだよなあって。全てのプロセスは答えに結びついているが、形を表すには一本では足りない。形に直接結びついていないこともある。知らないことが多すぎて、線がつながっていないところは疑問として残る。真っ直ぐ先に進む人もいれば、全体を見渡す人もいる。一方向に進めば点しか見えないが、一方向にも進んでおらず何も見えない。形作るには、何もかもが足りていない。

宗教や哲学に惹かれるのは、全体が見えているからだろう。その全体も一方向からの視点でしかない。普遍性、何にでも当てはまるもの、広く深く、一般論ではなく、見えてこないもの含む全て。見えている範囲だってうまくまとまらない。誰でも知っていること。自分で形作ることに意味は見出していない。答えがあればそれでいい。答えを探している。なければ自分で形作るしかない。

答えの断片は散りばめられている。貼り絵をイメージする。見たもの、読んだもの、知っていること、考えたこと、感じたこと、出会った人たち…は、それぞれ一枚の紙片である。パズルのように、どこに何を当てはめるかは決まっていない。それらの紙片をかき集めて、一枚の大きな貼り絵を作る。物事の構造と仕組みを解析するのは、紙片を取り出す作業だ。紙片には様々な色と形と匂いと大きさがあり、なるべくその本質を取り出したい。