昭和のダメ男

うちの父方の祖父が、典型的な昭和のダメ男だった。父の家庭は祖母の生計で成り立っていた。祖父は酒と麻雀、競馬、ギャンブル狂いだった。賭け事はかなり強い。将棋も強い。仕事はしていたのかわからない。かなり年がいってからは個人タクシーをやっていた。その前は何をしていたのだろう。

祖父はプロ野球の選手を目指していたそうだ。祖父いわく、身長が足りなくて入団できなかった。父も叔父もその話を疑っていたが、一度球場に連れて行ってもらったとき、後輩だというプロ野球選手に会わせてもらう機会があって、初めて祖父を尊敬したそうな。祖父は若い頃、野球一筋で生きてきた。そして夢破れ、落ちぶれた。理由は知らないが徴兵もされなかった。戦後の動乱の中を祖母に養われ、昭和のダメ男として生きた。

こういった話は珍しくない。特に昭和初期のドラマや小説では日常風景としてダメ男の話が出てくる。時代が時代だから、彼らは揃いも揃って既婚者だ。妻が夫を養っている。妻が稼いだお金を酒や博打に使うヒモのような暮らし。他にもそういった例を聞いたことがあったなーと思ったら、ライオンの生態だった。メスが中心に狩りをするとか。他にもあった。東南アジアの家庭だ。夫は昼間からブラブラしており、妻が家計を支える。もしかするとそのような家庭風景は、特別歪んだ関係性ではなく、原始的な日常風景の一つの形なのかもしれない。

現代日本にもそういった家庭は存在するだろうが、あまり受け入れられない。現代であれば、そもそも婚姻が自由だ。離婚だってできる。お互いが望まない限り、そういう夫婦関係は成り立たない。そして望んでそういう関係を続けるのは稀だろう。祖母だって現代に生まれていれば離婚していたはずだ。

僕の父だって、現代に生まれていれば結婚などしていないと言っていた。自由気ままに好き勝手生きていたと。父は祖父のような放蕩生活を送っていたわけではないが、返還前の沖縄にいたり、地上げ屋をしていたり、古物商をしていたりとなかなか怪しい。ギャンブル好きと勝負強さは祖父から引き継いでいる。

さて、僕自身はというと、酒は弱い、ギャンブルも弱い、運動神経も悪い、あまり父方の素養を受け継いでいないかのように思う。しかし、仕事も収入も安定しないという点では同じだ。働きたくない。欲もない。お金もいらない。こういう因子は競争に向いていない。もう残さなくていい。幸いなことに、現代では生涯未婚率も5人に一人を叩き出しており、結婚を除外する生き方も一般的になってきた。

話はそれたが、この話題で何を言いたかったかというと、現代において昭和のダメ男みたいな生態は、かなり蔑んで見られるだろう。当時もそうだったかもしれないが、それでも当時はわりと普通にいたんじゃないか。つまり昭和のダメ男みたいな人は当たり前に存在するってことです。珍しくない。

「そういうトコだぞ〜」はヤメロ

このフレーズ、木村祐一がよく使ってた気がする。ライムスター宇多丸もよく使っており、ネット上でも散見する。ネタ的に使われているこの「そういうトコだぞ〜」がすごく嫌いです。聞いただけで腹が立つ。使うのは自由ですが、可能であれば使わないでほしい。今日は「そういうトコだぞ〜」のムカつきポイントを解説します。

  • 「そういうトコ」って「どういうトコ?」
  • 自分で考えさせて気づかせる?性格悪い!
  • 被害者ヅラが気に食わねえ
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プレゼン上手い人が信用できない

休みだ。疲れた。体力がないの三拍子。地震なんかもあったが一週間ぶりにぼーっとしている。そんなわけで、サボっていた日記を書こうと思う。何書こうか。最近やっていたことは、プレゼンの講習に通っていた。プレゼンうまくなりたいとかではなく、必要があって通わさせられた。そこで改めて気づいたのは、僕はプレゼン上手い人が苦手だということ。

プレゼンとか、言うなれば雰囲気芸人である。以前に池上彰の解説について触れたことがあった。彼は難しいことを噛み砕いて、誰にでもわかりやすく解説することで有名だ。しかし僕は彼の話している内容を聞いて、そこにある「抜け」がどうしても気になる。

  • 池上彰が嫌いなわけじゃありません
  • プレゼン技術は見世物
  • 上辺を見るか、中身を見るか
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なんでみんな挨拶好きなんだろう?

本当にこれ、子供のころからずっと疑問に思っていて、いまだに解消されない。挨拶好きな人に対して挨拶すればコミュニケーションが円滑にいくっていう理屈はわかるんだけど、そもそもなんで挨拶好きなの?

僕は挨拶不要論者で、「挨拶するのが常識」みたいな前提は全くよくわからない。挨拶されても全然うれしくなくて、めんどくさい。会話の切り口として挨拶を行い、そこから必要な話をするならわかるが、挨拶だけ交わしてどうすんの?また、挨拶したい人がしたい相手にすればいいのに「誰に対してもするのが当然」っていう風潮はなんだろう。

ただの挨拶っていうのは、形式だとしか思えない。中身がない。形式を重要視する人たちが、形式のためだけに行っているものであり、中身を重視する人にとってはただの無駄なやりとりでしかないと思っている。挨拶ができない人とか、挨拶が下手な人のことも何とも思わない。挨拶されなくて不快に思うようなこともなければ、挨拶されて喜ぶようなこともない。いつまでたってもどうでもいいただの無駄なやりとりとしか思えない。

ただ、そういう無駄なやりとりを重視する人にとって、無駄な挨拶が有効であることは知っているから、仕方なく無駄な挨拶をやっている。挨拶ごときで人を信用したりしないし、好意を持ったりもしない。そういう単純な思考は逆に危険だと思う。人を騙す人や、猟奇殺人者ほどそういうコミュニケーション技術を巧みに操るものだ。挨拶ごときの形式を一喜一憂するのではなく、もっと本質を重視した方がいいんじゃないか。

特に自分から挨拶してこないやつが「挨拶もない」などとのたまい怒っているのはまともな神経じゃないと思う。目上だからとか年上だからとか、まさしく形式が大好きなんだろうなと思ってしまう。世の中を生きる上で、挨拶がないことを不利にしているのはこういう輩なんだろう。僕にとっての挨拶とは、挨拶好きな人を欺く手段でしかない。そういうの本当にめんどくさいし、やりたくない。なんでそんなに形式が好きなんだろう?

意思確認を徹底すること

Netflixのドラマ「13の理由」の製作陣が伝えたかったことを特集した番組があり、その中で言われていたことの一つが「意思確認の徹底」だった。何の意思確認かというと、性交渉だ。このドラマ自体がレイプを取り扱っており、曖昧なままで、自分の勝手な思い込みで性交渉に至るのはレイプにつながるという話だった。ちゃんと相手の意思を確認するのがお互いの尊重のために重要だと。

こういう発想って割りとないがしろにされている気がする。どちらかというと空気を読むとか、わざわざ確認するのは野暮だとか、相手に了解を取るのは責任逃れの自己保身だとか思われがちだ。「13の理由」みたいなレイプは極端な例だが、行為に至る前にお互いの合意をあえて確認するなんてことは、避けられる傾向にあるように思う。そういうムードだったとか、OKのサインだとか、添善食わぬはなんとやらで、暗黙の了解に頼っている。

僕自身は相手の気持なんてわからないという前提があるから、基本的に意思確認をしてしまい、場が白けることも稀にあるんだけどそれはそれでよかったと思う。流れやノリ、酔った勢い、その場の空気だけで行為に至ってどちらかが後悔するぐらいなら、初めから無い方がいい。自分の場合は娯楽だったり、コミュニケーションの延長という意味合いが強いため、それ自体をお互いが楽しめないならやる意味ないと思っている。なるべく自分本位ではありたくない。

だから意思表示であったり、意思確認を徹底した方が気が楽だ。誤解がなくて済む。どちらかが後悔することは、事前に避けられたほうがいいに決まっている。それを空気を読むとか察するとか、曖昧な状態で逃げるのはお互いにとってよくない。曖昧な言葉で濁しても、相手には伝わらないことが多い。流れとか空気とかノリとか関係ない。嫌なものは嫌だと、どのタイミングであれはっきり伝えたほうがいい。自分をないがしろにする相手を尊重する義理などない。

「断れない」「はっきり言いたくない」っていう人もいるだろう。自ら意思表示ができなくとも、意思確認されたら正直に答えたほうが自分のためになる。だから明確な意思確認は事前にあったほうがいいんじゃないかと思う。それを興ざめだとか言うなら、初めからそういう状況を作らないほうがいい。相手を尊重しない人間がそういう隙につけいる機会を狙っている。

「失われた世代」の労働観と消費観

世代論がよく話題になっていた。世代論のもともとの根拠は人口動態だ。「生まれた年が、その人の人生を左右する」というものだと考えていい。団塊なら入試が大変とか、丙午なら楽だとか。その先はどこまで真面目にとらえていいのかわからないが、生き方や価値観にまで影響を与えると見られている。世代論は日本だけでなくアメリカにもベビーブーマー、ビート・ジェネレーションのようなものがある。デジタルネイティブやミレニアルも世代論だと言っていいだろう。

世代 - Wikipedia

  • 〜世代
  • 無気力世代の労働観
  • 生きていればそれでいい
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恐怖心を克服するということ

起業家セミナーというのがあって、参加者は全員が自分の起業プランを話さなければいけないという場だった。その内容を聞いて無職の自分がとてもじゃないけど参加しようとは思わなかったが、ふと自分ならそういった場で何を話すだろうかと考えてみた。でも起業とは全く縁がない。だから全然別の話を思いついた。

  • カナダに見た理想郷
  • 他者と自分を隔てるもの
  • 恐怖心と向き合う方法
  • ボーダレスな制度
  • 制度がなくとも実現する
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人を褒める技術について

人を褒めるというのは、簡単でわかりやすい処世術だと思う。会社員になったとき、ようやくそれを少しだけ学んだ。人を褒めるには、ある程度技術が必要だ。それは「いかに自然に、的確に褒めるか」という技術になる。露骨なお世辞や、下心丸出しのベタ褒めは不快な印象しか与えない。また内容が間違っていたり、褒めたことになっていない失敗例も数多くある。

日常生活や職業生活において、ある程度良好な人間関係を築く必要があるなら(誰でもそうだと思うが)、この褒める技術を学んで損はないだろう。自然に学ぶ人も多いと思うが、僕みたいな人間は普段他人を見ていないため、意識的に行わないとできない。ただ褒めるだけということが、上手くいけば意外なほど好感に繋がる。男女ともに効果的だ。

  • 素直な気持ちを発露する
  • 無意識下にある印象を拾う
  • 褒め言葉のストックを作る
  • いざ、言葉にする
  • 上級編:的確に褒めるには
  • 継続的に褒めるには
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トランプのエルサレム首都認定から、パレスチナ問題を考える

先日トランプ大統領の発言が話題になった。

トランプ米大統領、エルサレムをイスラエルの首都と承認 - BBCニュース

トランプが「エルサレム首都」認めれば中東は火薬庫に逆戻り | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

Hamas: US decision on Jerusalem is a war declaration | Palestine News | Al Jazeera

エルサレムが首都と認定されることは何が問題なのか。パレスチナ問題について学校で習ったことやニュース記事を読んでも

  • パレスチナ人が住んでいた土地にユダヤ人がイスラエルを建国した
  • ユダヤ人は旧約聖書の時代から自分たちの土地だったと言い張っている
  • エルサレムはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地

この程度のことしかわからない。イスラエル建国までの経緯や中東戦争の実態については、この3行では言い表せないややこしいことがまだまだいっぱい詰まっている。それについて疑問を持った人や、復習したい人もいるかもしれない。

僕はここ数年パレスチナ問題に注目していたため、数年前ちょうどその入り口にいた。この数年間に知ったことが、もしかすると他の人の入り口として役に立つかもしれない。そう思って僕たち素人向けの、簡単な情報ソースを紹介する。

  • 映画でわかるパレスチナ問題「パラダイス・ナウ」
  • 新書でさらっと復習「世界史の中のパレスチナ問題」
  • 小説で気持ちを知ろう「太陽の男たち/ハイファに戻って」
  • その他
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童貞 is dead

僕らにとって永遠のテーマ、のはずだった童貞。ある人にとっては昔過ぎて忘れてしまった童貞感。またある人にとっては事実上永遠のテーマになり続け、そしてまたある人にとっては喪失感として、心の何処かに残り続ける。しかしいつの日からか、そんな童貞感、もしくは童貞観という概念そのものが失われたような気がする。現代において童貞は、そもそもコンプレックスではなくなったのではないか。そのような疑念が確信へと変わりつつある。

  • フラット化したオタク
  • フラット化する前のオタク
  • 恥ずかしかった童貞
  • フラット化する童貞
  • 消失する童貞文化
  • 童貞 is dead
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コンテンツ産業の行く末はどうなるのか

先日マンガ家の人が「今の消費者はコンテンツにお金を払う感覚がない」と言っていて、コンテンツ産業のビジネスモデルについて思いを馳せていた。僕自身はただの消費者だから作り手のことはわからないけれど、とあるWeb媒体のマンガで「続きは有料」という形式にしたら「続きが無料で読めないから★一つ」といった評価が付くそうだ。怒りの気持ちもわからんではないが、これら本来予期していない形の評価はコンテンツの生産者と消費者の間にある意識の齟齬と、システムのアンマッチから来ているのだろう。

作り手は苦労して生み出したコンテンツにお金を払うのが当たり前だと考えている。一方、消費者はコンテンツをタダで消費できて当たり前だと考えている。そして作り手側の評価システムは純粋に作品の評価を望んでいるにもかかわらず、供給の仕組みそのものが評価に反映されている。これら作り手と受け手の間にある意識の齟齬はどのようにして生まれ、またどういう形で溝を埋めるのが適切なのだろうか。

  • デジタルからネットワークへ
  • 音楽・映像コンテンツの出した答え
  • 海賊版への勝利
  • KindleUnlimitedは答えになるか
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ブサイクで貧乏な人と付き合う理由

利得で結びついた人間関係は弱く、初めからなかったようにぷっつりと切れる。例えば女性と男性が結婚するとしよう。男性を選ぶ基準が「顔がいいから」だとしたら、加齢などにより顔がよくなくなると相手への興味は失われる。「経済力があるから」だとしたら、無一文になった途端別れを切り出される。そういうのは人間関係とは言わない。ビジネス上のパートナーシップと同じで、事業提携の契約のようなものだ。ビジネスは利益を上げることが至上の目的だから、ビジネス上の契約関係がお互いの利益に見合わなければ、簡単に切れる仕組みになっている。むしろ簡単に切れなければ問題なのだ。利益にならない関係をいつまでも続けたりすることはビジネスそのものの存亡に関わる。だから状況に応じて次々に相手を変えていく。同じ会社同士が良い関係を長年維持しているのは、仲がいいからではなく、お互いにとってたまたま都合が良かったからだ。

  • ビジネスライクな人付き合い
  • 一緒にいて楽しい友人と、そうでない友人
  • 合理的な恋人関係
  • 人間関係なんて築けるの?
  • ブサイクは本物の関係の元に生まれた誇りかもしれない
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ウェディングドレスと戦争

少し前にこういうtogetterを見た。

togetter.com

男性が結婚式に対して後ろ向きなのは、衣装のせいではないかという話。まとめられたリプライには「鎧兜なら出たい」といったコメントもあった。僕自身はこの意見に賛同しかねる。何も僕が結婚式やりたくないとかそういう話ではなく、そもそもそんな仮定は成り立たないわけで。

それはともかく、他人の結婚式ならぬ披露宴に行って、呼ばれただけの立場なのに泣いている女の子や、自分も結婚式挙げたいとか、結婚式好きの女性をよく見かける。男性にも稀にいるが、女性が圧倒的に多い。あれ一体なんなんだろう、自分には全く理解できないんだけど、他人の趣味をとやかく言うつもりはない。多分あーやって人に注目されることや、物語の主人公めいたお姫様憧れみたいなのが根強い人もいるのだろう。

さて、ウェディングドレスやお姫様に憧れる女性が一定数いるとして、我々男性はなんだろうと考える。皆が皆そうだとは言わないが、有りがちな意見として出てきたのが先ほどの、鎧兜、甲冑、戦闘服である。軍人の男性は結婚式を挙げる際、一般的なタキシードではなく儀礼服という軍服を着る習慣がある。自衛隊も同じだ。あの服装は僕から見てもかっこいい。

でもなんか違う。儀礼服はかっこいいと思う反面、我々男性が憧れるのはやはり結婚式のような茶番ではない。では一体なんなのか。女の子がウェディングドレスで結婚式に憧れることと対比して、男の子が戦闘服で出陣するのに憧れるのは、やはり戦(いくさ)なのだ。つまり戦争である。

こう言うと野蛮だとか思われるかもしれないが、ある程度それが本質だと思う。もちろん戦争に全く興味ない人もいるだろうし、刀や銃といった武器や迷彩服のような軍服をかっこいいと思いつつも、戦争は悪で存在自体を忌み嫌っている人も多い。自分がいざ戦争に行くとなったら誰もが嫌がる。

岡田斗司夫が語っていたが、映画監督のスピルバーグはものすごい反戦主義者なのに、プライベートライアンみたいな戦闘シーンをすごく上手く撮る。また、宮﨑駿も根っからの反戦主義者なのに武器や兵器、戦闘シーンを描かせれば凄まじい。そこには戦争を否定しながら、ある一面では戦争を美しく肯定的に描きたい衝動があり、矛盾が存在すると。そしてそれは、彼らだけに限らず多くの男性にあるんじゃないかと言う。

男性が憧れるのは、誰もから注目されるお姫様のような存在ではなく、戦場に立つ英雄なのではないか。大義あるヒーローである。敵を倒す存在だ。そして誰もがヒーローになれる可能性があると感じるのは、男性にとって一世一代ハレの舞台は、結婚式場ではなく戦場にある。

戦争は悪と言いながらも、戦争映画、マンガやゲーム、ドラマ、時代劇やアクション映画、ファンタジーものからSFまで、戦闘やヒーローを題材にした作品には子供から大人まで根強い需要がある。これらの作品に心躍らされ、熱い展開に燃えあがるのは、心の何処かにあるヒーロー憧れの証左と言えるのではないだろうか。刀や甲冑といった武具を集めたり、サバゲーやったり兵器や戦術についての知識をつけたりするのも、戦場に対する憧れを心に抱いてのことじゃないだろうか。

多分男性だったら半分ぐらいわかってくれるだろうし、女性は理解できない人のほうが多いかもしれない。男女の違いは身体的な構造とそれを成すホルモンバランスの違いであり、感情にも影響を与える。個人の人格を作る要素はそれ以外にもたくさんあるため一概に言うことはできないんだけど、女性の「結婚式とウェディングドレス憧れ」と、男性の「戦場と武器憧れ」が対比できるなら

「結婚式とウェディングドレスに憧れる女性」に対して男性が思うこと=「戦場と武器に憧れる男性」に対する女性の気持ち

この等式は成立するんじゃないか。もしパートナーがいて、ヒーロー物や銃などの趣味が理解できなければ、その人のウェディングドレスに対する理解もそんな感じだと思っていいと思う。僕にパートナーはいませんが。

自分のことなんてどうでもよくないですか?

自分と他人との関係とか、自分を主体にすることがあまりおもしろく感じられなくなった。そういうことをおもしろがって考えていた時期はあったのだろうか。多分幼少期や若い頃は「自分とはなんぞや」みたいなことだったり、他人と関係を築いたり上手くいかなかったり、自分を主体にした他人との比較みたいなことを考えていたのかもしれない。そして段々とそういうことに飽きてくる。自分とか、他人とか、どうでもよくなる。

  • 自分でも他人でもない「何か」
  • 対象との向き合い方
  • 悩むことに疲れたら
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