転売ヤーが問題になっているけれど

最近PS5が発表され、予約の受付も開始された。11月発売だそうだ。それに向けて、転売ヤー対策に躍起になっているかと思います。ニンテンドースイッチのときも、転売ヤーが問題視されていた。転売ヤーが買い占め、高額な釣り上げ転売が相次ぎ、公正な値段で消費者の手元に届かないといった問題。

よくわからないんだけど、これって転売ヤーから買わなければいいだけではないの?転売ヤーは自分が使うわけでもないのに定価でたくさんの品を手に入れ、高額な値付けをしてメルカリ等で売りさばく。でも買い手がつかなければ転売ヤーは大損する。損すれば転売なんて行為は続けられなくなる。

なぜ高額な商品をわざわざ転売ヤーから買うのか?食料品のような生活必需品ならまだしも、ゲームなんて市場に出回るまで待てばいいだろう。大金はたいて転売ヤーを育てる行為をやめれば、転売ヤーは在庫をかかえていずれ定価もしくはそれ以下で売り払わなくてはいけなくなるし、それまで待てばいいだけではないのか?

転売ヤー対策が難しいと言われているけれど、買わない対策はダメなのかな?転売ヤーが成立するには高額で買う人の存在があって、彼らはなぜわざわざ転売ヤーから高額商品を買うのだろう。転売ヤーを育てたいのかな?

転売ヤーからは買わない、定価以上では買わない、では済まない話なのかな。必要なもんでもないでしょう。

追記。こういう匿名ダイアリーがあった。

売れてから買うから、転売ヤーにリスクはないそうだ。ただまあ、高値で買う人がいなければ成り立たないのは同じで、転売ヤーをなくしたければ転売ヤーから買わないければいい。定価以下で市場に出回るのをただひたすら待ちましょう。

また、この内容が正しければ、転売ヤーを潰したければ転売ヤーから買いまくってキャンセルしまくれば(支払いしない・返金を確保していれば)、リスク無しと思われてた転売ヤーは損しまくって自滅するんじゃないかな。転売ヤーが購入してからでもキャンセルするうまい方法はあると思うので、よく考えましょう。まあわざわざそんな労力をかけてまで転売ヤー潰しをやる人がいるとは思えないけど。

お彼岸って何の日?

お彼岸については何も知らない。彼岸があの世を指すこととか、春分秋分の日であるとか、その日に墓参りに行くことぐらい。彼岸花はこの季節に咲くのだろうか。この手のことを僕は人生で一度も気にかけたことがなかった。よってお彼岸の思い出もない。一度Wikipediaを覗いてみよう。

浄土思想でいう「極楽浄土」(阿弥陀如来が治める浄土の一種、西方浄土)は西方にあり、1年の内で2度、昼と夜との長さが同じになる春分と秋分は、太陽が真東から昇り、真西に沈むので、西方に沈む太陽を礼拝し、遙か彼方の極楽浄土に思いをはせたのが彼岸の始まりである。昼夜・東西が平行になるお彼岸の時期には、「あの世」へのゲートが開くといわれてきた。現在ではこのように仏教行事として説明される場合が多い。それがやがて、祖先供養の行事へと趣旨が変わって定着した。"

そうなのか。春分秋分の日だと真西に日が沈むから、真西にある極楽浄土へのゲートが開き、先祖の供養になると…?そしてWikipediaによればインドにも中国にも彼岸はなく、日本独自のものらしいです。つまり習慣ですね。806年に初めての彼岸会が行われたらしいです。

彼岸 - Wikipedia

僕は自分が仏教徒であるつもりはない。坊さんに親しみもない。また、仏教がもともと経典になかった先祖供養とどのように折り合いをつけて、こんにちに至っているのかも知らない。仏教は大衆に乞われてか、本来あるはずのなかった役割を担うようになったのだろう。

今後自分が葬式を挙げる際には、例に倣って仏式で挙げる。それは自分のためというより親戚のためにそうするだけで、自分は多分この先も「彼岸がどうの」と言うことはないだろう。これまで何もしてこなかったように、今後も何もしないと思う。僕の葬式についても、誰かが必要だと思ったら必要な形でやってくれたらいい。

行事や習慣は、人が必要だと思うから成り立つだけであって、例えば僕が不要だと思えば僕にとってはなくていい。感情をコントロールするために形式がある。自分がそういう形式を必要だと思う日は来るだろうか?形式は、人をまとめるために有効かもしれない。形式により、人同士の連帯と、協調が生まれる。

そういうのに頼らず、自分の感情をコントロールする手段や強さがあれば一番いいのだろうけど。

コロナ禍に入って半年経ちました

8月が終わり、3,4,5,6,7,8で6ヶ月、コロナ禍に入ってから半年が経った。コロナ禍は第二波の感染拡大もあり、累計感染者数は2457万人、最近では毎日25万人近くの人に感染が広がっている。累計死者数は83万人を数えている。

日本だけを見ても、現在の状況は緊急事態宣言が出ていた頃より、マスクが品切れになっていた頃より、トイレットペーパーがなくなった頃よりも悪い。あの頃は街に人が全然いなかった。バスも電車もガラガラだった。みんな家から出なかった。しかし今はもう街に人がたくさんいる。バスも電車も以前と変わらない様子で、外国人観光客だけが姿を消した。飲食店にも人がたくさんいる。マスクをしなくなった人もたくさんいる。しかし、感染者数は3月4月より今のほうが多い。

僕自身も仕事を再開した。感染症対策も拡がり、アルコール消毒やマスク、換気を徹底して、同時に接触する人数が多くならないような形で、営業を再開している。ドイツやイギリスのように政府が保障してくれない以上、死の危険が伴うとしても、日本国民は経済活動を再開せざるを得ない。

最近、知人の一人からこんな言葉を聞いた。

「コロナって本当に気をつけないといけないのかな?」

耳を疑った。この言葉には、(ダイジョブっしょ)という反語が含まれている。ああ、そういう意識の人いるんだな、と思った。でもこの人は、2月の段階で人一倍コロナに怯えていた。隣で少し咳をするだけで、全身をビクつかせていた。そして3月以降は全く会うことがなかった。つい最近再会して、「コロナって本当に気をつけないといけないのかな?」という言葉を口にしたから驚いたのだ。あれだけ心配していたのに、そして今のほうが当時より状況が悪くなっているというのに、この人はなぜ急にこんな態度を変えたのだろう?

最近では四条烏丸のマクドナルドや、大丸の地下フロアといった、京都に住んでいれば多くの人が行き来する四条烏丸エリアでも続いて感染者が出た。京都は3月の段階で15人感染者が出て騒いでいたが、最近は30人近くになることも珍しくない。40人を超えたこともあった。身の危険を感じるなら当時より今だと思うんだけど、知人はそうではないらしい。

知人は今、結構な頻度で仕事帰りにバーへ出向いたり、人と会って食事したりしている。3月4月だったら考えられなかった。ではなぜ今安心しているのか。なぜいま危機感が薄れ、無防備になっているのか。現実には、コロナはおさまっていない。それはデータだけ見てもわかる。

身の周りでは、今もなるべく人との接触を避け、外食を控え、感染予防を徹底している人が少なくない。しかし中には知人のように(ダイジョブっしょ)という心持ちでコロナ禍以前の生活を取り戻した人もいる。

「コロナなんて大したことない」という態度をずっと貫いている人もいる。そういう人は元から主義主張が一貫している。でも知人はそうではない。世間が自粛ムードのときは人一倍怖がり、今のように緩やかにおさまってくると人一倍(ダイジョブっしょ)という態度を取り戻す。

そうか、知人はコロナなんて見ていなかったんだ。コロナの感染者数、再生産数、感染したときの症状、致死率、後遺症、そういうことは元から気にしていなかったんだ。知人が見ていたのは、世間の空気だったんだ。知人が今コロナを心配しなくなったのは、世間がそういうムードになったからだ。ムードに乗っかり、感染予防を重視しなくなった。

もともと"自粛"という言葉に違和感があった。僕自身は感染予防のために外出を控えたり、人と会うことを控えたりしているが、それが自粛だという意識はない。世間の目を憚って自粛しているわけではない。だから"自粛"に怒っている人のことがよくわからなかった。彼らは本当は外出したいのに、人と会いたいのに、世間の目を憚って我慢して自粛していただけらしい。

そういう人はやはり、データよりも、周辺の事実よりも、感染症予防よりも、世間の空気がマターなのだろうか?だから「コロナって本当に気をつけないといけないのかな?」(ダイジョブっしょ)なんていう態度で今日も過ごすのだろうか?

裏表のある人は何なのだろう

自分に裏表がないのかというと、ないつもりではいるが、あるのかもしれない。ある、ないというより、本心を隠すことが苦手だ。よく「顔に出ている」と言われるし、思っていることを包み隠さずはっきり口にするほう、本音が表に出すぎる方だ。だから裏表はやっぱりないんじゃないかな。そんなこと言っても、誰にでも全く同じ態度が取れるわけではない。裏表があるかと言えば多少はあることになるが、どちらかというと場に応じた役割を演じているだけに過ぎない。

よく裏表があると言われる人は、裏表が激しい人のことを指す。表の顔と、裏で言っていることのギャップが激しい人。さらに「裏表が激しい」という言葉は、大体において相手を非難するときに使われる。表でおとなしい人が、裏では激しかったり、表では従順な人が、裏では文句たらたらだったり。表向きはめちゃくちゃ嫌な人なのに、裏で実はめっちゃいい人のことを「裏表が激しい」とは言わない。

裏表が激しい人と、ときどき知り合う。普段の感情表現が乏しい人が、裏で爆発している。例えば自分の知っている人で、面と向かって話せば落ち着いているのに、LINE上でめちゃくちゃ辛辣な人がいた。彼はLINEグループで、すごくどうでもいいことに対して激怒していた。その話題にグループのメンバーは誰もついていってなかった。最初見たときは、同一人物なのかどうかを疑ったぐらい、普段と態度が違っていて驚いた。なんなんだろう一体。

その人はとにかく、普段は温厚なのにLINE上ではめちゃくちゃキレてばかりいる人だった。頭がおかしいんじゃないかとさえ思ったほど。面と向かって話すと、やんわりと返ってくる。なんなのだろうこのギャップは。意味がわからない。とにかく裏表が激しい人は、裏に激情を抱えており、それが普段表に出てこないという特徴がある。

さらに彼は、ある女性にLINEで猛アタックしていた。その女性から他の人へ相談があったらしい。これも表立ってやればいい話なのに、なぜかLINEという裏で爆発している。なぜ面と向かってアプローチしないのだろう。というか、面と向かってやってはいけないようなことを裏でやるなよ、と思う。それは裏でもダメだろ。なぜ裏なら許されると思っているのだろうか。

人目につかないところであれば、何言ってもやってもいいと思っているのか。一人で勝手に言ったりやったりしている分には構わないと思う。しかし、誰かに向けてやりとりをしたり、攻撃したりアプローチするのは、裏も表も変わらない。なぜ表では控え目で、裏で爆発してしまうのだろう。一体どういう心理なのだろうか。

ある人は、普段会うと気さくな兄ちゃんなのにfacebook上でいつも悪態をついている。世間の風潮に対してだったり、今日身の回りで起こった出来事に対して、的はずれな文句を書いては翌日消している。何がしたいのだろう。そして彼もまた、女性に対してとてつもないセクハラLINEを送る。いわゆるクソLINEだ。彼の場合面と向かって女性にアプローチすることも多いが、LINEでは普段と違ってセクハラ全開になる。こういうことをやめれば女性とも上手くいきそうなのに、なぜLINEで暴走してしまうのだろう。

傾向として、怒りにしろセクハラにしろ、感情の暴発が見て取れる。表では感情を上手く出せていなかったり、制御したりしているのか、その分裏、すなわちSNSやLINEで爆発している。しかしそのSNSやLINEは、裏と言っても表で繋がりのある人ばかりが見る場所であり、実名であり、知っている人が誰もいない匿名掲示板ではないのだ。だから何でそこで暴れまわっているのか理解できない。人としての評判を気にするなら、裏でもそういうことはやらないでおくべきだろう。気にしないのなら、表でも同じ態度をとればいい。なぜ、裏表でこうもギャップが激しいのか。

よく「ハンドルを持たせると性格が変わる」と言われる人たちがいる。裏で暴れまわる人はもしかすると、SNSやLINEというツールを使うと感情の制御が効かなくなるのかもしれない。そういうツールが車で言うハンドル、アクセルの役割を果たしてしまっている可能性はある。とても危うい。彼らはSNSやメッセージアプリから距離を置くべきだ。周りに迷惑を掛けるという理由もあるが、それより自らの人間関係の構築を、そういう裏の顔が阻害してしまっている。

誰でも感情が昂ぶるときがあり、ヘイトや欲望を胸に抱くことはある。けれどそれを人にぶつけたりはしない。少なくとも身元が割れる形で行うことは控える。裏であろうと表であろうと、公然と人をけなしたり性欲をぶつけていれば、自らの社会的立場が追いやられる危険性がある。それが表では制御できていても、裏になった途端爆発してしまうのは、多分本人も自覚があるはずだ。どうしても感情を抑えきれないのであれば、せめてもっと慎重になったほうがいいのではないか。感情の出し方を学ぶとか。

上記の例はいずれも男性で、裏表の激しい女性とは付き合いがないため、あまり知らない。

無意識にハラスメントやってるけど、「生きづらい」はちょっと違うような

これを読んでいた。ハラスメントの問題が社会で持ち上がるようになってから、自らの男性的な暴力性に気づいて落ち込んでいる人たちの話。「加害者性に苦しむ男性たち」という副題がついている。

1980年代生まれの自分は、ジェンダー意識の移り変わり、それにまつわる社会常識の変容について、ここ10年は特に大きかったように感じる。常識が変わり、意識が変わり、自らの過去の行動や、過去の社会常識に囚われた現在の考え方など、反省することも多い。男性として、女性を一方的に傷つけたり、尊厳を蔑ろにしていたこともあるだろう。

職場ではないが「それセクハラですよ」みたいに言われることもあった。如何にゲスな言動で相手を引かせるかがおもしろい、という昭和後期から平成にかけての文化圏で育ってしまったため、現代の価値観へ切り替えるのがなかなか難しい。「あの頃はめちゃくちゃやりましたよ」というような武勇伝を語ることがかっこいいと思われていた時代もあった。

80年代に生まれてから植え付けられた根強い意識、古い常識はそう簡単にアップデートできない。気づかないうちに「今やるとアウト」なこと言ったりしでかしている。意識はしている。努力しているつもり。だけどそんなにうまくいってない。

ただ、記事にあるような「男性の加害者性による生きづらさ」なんて表現は大げさだと思った。なんだよ生きづらさって。被害者のほうがよほど生きづらいだろ。ここで言われていることは、例えば生まれつきの殺人狂が、殺人衝動を抱えたまま市井にまぎれて、誰も傷つけずに暮らす自信がなくて生きづらい、と言ってるようなもんだ。そんなもんはお前だけの問題で、一人で勝手に悩んでろという話。

というか、大いに悩んだほうがいい。自分の中に加害性があるなら、それにどう対処するか。しっかり悩み抜いて、失敗しないように気をつけたほうがいい。だからそれを「生きづらさ」なんて呼ぶのは間違っているというか、甘えているというか。本人がどういうつもりなのかは知らないが、「生きづらさ」などと言われてしまうと、それはまるで解消されて然るべき社会的抑圧のようにとらえてしまう。そうじゃないだろう。加害性に悩むことは、自分自身の問題だ。

例えば戦国時代に武勇で名を馳せた武将が、現代にタイムスリップしてきて「現代では人を殺して名を上げることができないから生きづらい」などと言われたら知るかボケと思うだろう。なんとか時代に適応してください、としか言えない。それも自分一人で勝手に頑張れと。「生きづらい」じゃねーだろ。今の世の中とどう関わっていくか、自分自身や世の中と向き合って、よく考えたほうがいい。

人の意見を参考にするのはいいと思う。加害性を抱える自分が、現代社会にどう適応すればいいのか。学ぶことで見えてくることもあると思う。それは自分の「生きづらさ」なんてものを解消するために行うことではなく、現代社会の一員として、被害者を出さないことを目的として行ってもらいたいものです。

こんな人いるの?こっちは論外だなー。

余談:ジェンダー意識の改善に伴い、「男性にリードしてほしい」といった男性に積極性を求める風習も同時に滅びてほしい。リスクがでかすぎる。

コロナ・ギャンブルの時代

世界中で第二波が押し寄せる中、各国では再びロックダウンが行われている。日本社会は目先の経済を重視して、コロナとともに日常生活を営む方向に切り替えたみたいです。Go toキャンペーン然り、ついにそういう方向に舵を切ったかという感じだ。もう感染症対策をすることはあきらめた。withコロナってそういう意味だったのか。

https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2020/07/100-65.php

https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2020/07/2-262.php

今の日本の状態が、初期イギリスの姿勢、現在も続くスウェーデン、ブラジルの方針とどれだけ違うのか。放ったらかし推奨。かつてはそれらの国々のやり方を批判していたが、やっぱり日本はヨーロッパみたいに国民の生活を保障することができないため、それぞれ独自でやってください、注意喚起はするけどね、という方向性に開き直ったという印象。もう緊急事態宣言はやらないだろう。保障がない状態でやられても、誰も聞けないだろう。

国民の方も大方それで納得している。国が保障できないなら自分たちの食い扶持を自分たちで稼ぐしかなく、コロナ以前と同様満員電車に乗り、今日も日夜あくせく皆様働いてらっしゃいます。ご苦労様です。それについて僕は批判的ではなく、仕方ないと思っている。そういう政府を選んだのは僕らなんだから、今の政府のやり方には僕らの意思が反映されている。ただ、今後どうなるのだろうか。

コロナのワクチンはなく、重症化リスク、医療崩壊、あらゆる爆弾を抱えた上での日常となる。withコロナ、コロナ・ギャンブルの時代。感染して回復した人も多くいるが、差別や後遺症といった問題も残る。アメリカやブラジルのように100万人規模の感染拡大、5万10万人規模まで死者が増えるリスクもある。それでも日本は今日明日の生活を選んだ。今日明日の食事がままならないなら、感染症どころではない。日本はイギリスやドイツのように国が給与を保障してくれるわけではないから、仕事を休むわけにはいかない。

でも、コロナを踏んだらサヨウナラ。今僕らはそういう毎日を送っている。慎重な人は、今もなるべく出歩かない。消毒・マスクを欠かさない。人との接触を避け続けている。それは世間の目を気にしただけの"自粛"ではなく、ウイルスから避難するための本物の警戒心によるものだ。今の日本の感染者数の拡がりは、あれだけ必死に自粛をやっていた緊急事態宣言前よりひどい。当時より感染症対策が進んでいるにもかかわらず。

「大丈夫でしょー、周囲でかかった人いないし、人口中の割合でいうと確率めっちゃ低いから自分はかからない」と思っている人も多いと思う。初めからそうだった人もいれば、世間の空気に流されやすく、3月4月頃は自粛していた人が、最近は楽観的という人もいる。そのあたりはリスク管理の意識、性格によるところが大きい。情報格差も大きい。もちろん危機意識が高くとも仕事を休めない、って人だっている。

コロナ・ギャンブルの時代をどう生きるか。大当たりしたら真っ逆さま。仕事もウイルスからも、自分の身を守るってくれるのは自分だけですね!

コンテンツはその気があるうちに貪り食うのが吉

いつどのタイミングでも抵抗なく食べれるコンテンツというのが、意外とない。ドラマや映画が喉を通らない季節もある。Netflixに加入した当初はドラマを見まくっていたが、今は手を出す気にもならない。映画はときどき見ている方。毎日見ていた頃もあったから、その日々に比べれば見ていない方。漫画アニメは比較的いつでも消化できる方。ただ一気に消化してしまうため、見たいコンテンツがなくなってしまう。

少し前までは、全く本を読む気分ではなかった。最近は毎日読んでいる。読んでも読んでも買ってしまうため、ストックが一向に減らない。読む本、読みたい本に左右されることもあるけれど、読み出せば続けて他もどんどん読むから、やはり内容よりも気分が大きい。気分大事。その気があるうちにどんどん消費してしまったほうがいい。

映画もドラマも今のところ、季節が巡ってきたら再び消費モードに入ることができる。けれど、そのモードがもう来ないことだってある。視力が悪くなれば、本を読むのは億劫になるだろうし、映像の魅力も半減する。耳が遠くなればラジオや音楽だって遠くなる。コンテンツへのハードルが高くなってしまえば、もういいやって思ってしまうかもしれない。ある特定の対象について、消費モードが永久に失われてしまう可能性もある。身体機能だけでなく、環境が変わったりお金がなくなったり、コンテンツそのものが失われてしまうこともある。

たまに、「老後の楽しみにとっておく」というような言葉を聞く。「アフリカと南米旅行は後の楽しみにとってある」と言っていた人がいた。旅行はコンテンツではないけれど、僕は行けるうちに行っておいたほうがいいと思う。若いうちとは言わない。行きたいと思ったとき、行けるうちに。お金とその気があれば。

楽しみは最後まで来ない可能性がある。例えばシリアは2011年まで、普通に旅行できる国だった。文化遺産もたくさんある。けれど内戦が始まって10年経った。いまだ終わる兆しがない。失われてしまった観光地もたくさんあるだろう。もしシリアに行きたかった人が、2011年以前に「後の楽しみにとっておく」をしていたら、悔やんでも悔やみきれないのではないだろうか。あの頃のシリアはどう足掻いても戻ってこない。

お金も時間も体力も意欲も、現場さえも、今そこにあることが奇跡だっていう可能性はある。やりたいことは、できるうちに。勉強とか仕事とか、お金を稼ぐとか、そういうのに時間と労力を費やすのも、本人がやりたいならそれでいいと思う。僕はそういうの全然好きじゃないからやめた。

やりたかったことはやり尽くして、もうない。自分がやりたいことのために苦労しているなら仕方ないけれど、どうでもいいことのための、ただの苦労からは早く逃げたほうがいいと思う。

やりたいと思ったことをすぐ始めている人は、例え失敗しようとも大体正解。楽しくなくてもいい。その気があるうちに始めて気が済むまで貪り食ってしまう。

恋愛・結婚におけるマッチングの難しさ

去年急に結婚したこともあり、「どうすればいい相手を見つけられるか」といったことをときどき聞かれるようになった。恋愛だったり結婚だったり、相手探しに奔走している人は多いようだ。

いい人がいない

「いい人がいない」という言葉は常套句になっている。いい人とはいったいどういう人なのか。話を聞いている限り、自分の願望を満たし、なおかつ自分に好意を抱いてくれる人が、いい人という意味らしい。自分の願望を満たす人はたくさんいるけれど、既婚だったり自分の方を見てくれない。あるいは自分に好意を持ってくれる人はいるけれど、自分の求める条件を満たしていない。その結果、多くの人の口から「いい人がいない」という常套句が漏れる。

「いい人」、すなわち条件を満たしつつ、なおかつ自分に好意を持ってくれる人を見つけるために取られる手段として、とにかく数を当たるという方法がある。「いい人」という低い確率の当たり判定を、絶対数を増やすことによって実現させる。そのために世のマッチングサービスは、あらゆる形式で発展している。

「いい人」以外の二つの選択肢

しかしそれでも「いい人」に出会えなかった場合、状況を打破するためには、二つの選択を迫られる。一つは、条件を満たす人を自分に振り向かせる。もう一つは、条件を満たさないけれど、自分の方を向いてくれる人で手を打つ。相手が折れるか、自分が折れるか、いずれかを成し遂げることにより、「いい人」以外のところでマッチングが成立する。

まとめると、パターンとして3つに分かれることになる

①お互いの希望に沿う「いい人」に巡り合う
②相手を振り向かせる
③自分が妥協する

一番難しいのは、言うまでもなく①「いい人」に巡り合うことだ。

その人は本当に「いい人」なのか

「いい人」だと思っていても、そうじゃないことだってたくさんある。それを判断するのが恋愛段階だったりするが、わからないまま結婚して判明することもある。自分が相手にとっての「いい人」じゃなかった場合もある。

特に相手探しのマーケットにおいては、マッチングを成立させるために自らの条件を盛る傾向がある。条件で絞ったはずなのに、いざ親しくなってみると全然違ったってことは日常茶飯事だ。

マッチングの条件提示にはカマシ、嘘騙しが数多く存在するため、いくらでも誤魔化せるような表向きの情報はあてにならない。そういう嘘を見抜く手順だったり、ミスマッチを繰り返していると、やがて相手探しそのものに疲弊する。

そういう後々のミスマッチは、「いい人」だと思っていたパターン①だけでなく、他のパターンでも起こりうる。でもそれは後々のことだから、ここではひとまず保留する。

一番簡単なマッチング方法

「いい人」と巡り合うことを待つのに疲れ、別の方向でマッチングを成立させる人は多い。一番簡単にマッチングを成立させることができるのは、パターン③だ。自分が妥協する。言い寄ってくる人がいるなら、自分のさじ加減次第でマッチングは成立する。ただし誰からも好かれない人に、パターン③の手段は取れない。そして実際のところ、③の手段が取れない人は、パターン②の手段も取れない。誰からも好かれない人に、誰かを振り向かせることができるとは到底思えない。

まず、人に好かれるところから

パターン③の手段も取れない人は、まず自分が人に好かれる人間になるところから始めないと、スタートラインにさえ立てない。この段階にいる人は、何から始めたらいいだろうか。正直なところ、他人が自分のどこを好きになってくれるかは、人によるからわからない。まずは見た目とか性格とかお金とかそういうわかりやすい話ではなく、人として何がしかの魅力を備えたほうがいい。

僕がおすすめするのは、好きなことを見つけること。何か夢中に取り組めること、努力が苦にならない対象を見つけること。その筋の第一人者になったりプロになる必要はなく、趣味レベルでいい。上手ければそれだけで魅力的だが、何かを頑張っている姿だったり、夢中な姿というだけでも十分魅力的なものだ。何かを好きな人は、輝いて見える。

あとはその魅力が伝わる場に参加すること。競い合う場、高め合う場、共有する場。そういう場所が自然にマッチングの場となる事例は枚挙にいとまがない。マッチングそのものを第一目標としないほうが成果は出る。マッチングはあくまで副産物として、自分の好きなことを楽しむ方を重視しよう。それだけでも魅力は備わる。

それでもスタートラインに立てない、すなわち人に好かれないようであれば、何か個別の理由があるんじゃないだろうか。誰にでも何かしら、個別の特性がある。何事も程度の問題だから、個別案件はここでひとまずパスして先に進む。

「妥協」で失敗しないために

スタートラインに立ったとして、③自分が妥協する、つまり自分はそれほど好きじゃないけれど、自分に好意を持ってくれる人で手を打つというパターンが、マッチングを成立させるには一番簡単だ。とにかく彼氏・彼女がほしい、結婚したいという人は、自分を好きになってくれる人で手を打つことは珍しくない。相手に対してそこまで願望がなく、相手に言い寄られて手を打つことも、形式としてはパターン③に近い。

問題は、「③自分が妥協する」という手段が取れる人は、既にやっているケースが多いことだ。要するに、妥協できないからこそまだマッチングを待ち続けているのであり、そういう人は妥協したところで失敗を感じたり、相手に不満が出てくる可能性が大いにある。

妥協を選択するにあたっては、ただ妥協するだけではうまくいかない。その選択に対して、自分なりの納得感を持つことが重要だ。例えば、相手は自分の希望条件を満たさないけれど、自分のことをすごく好いてくれるから、日々の満足度は上がる、とか。最初の希望通りではなかったとしても、何か別の条件で上回ることができれば、妥協に納得できる。納得できていれば、後々不満もいだきにくい。

理想の人に振り向いてもらう

条件に妥協ができなくて、どうしても自分の希望に沿う人と付き合いたい、結婚したいという人は、パターン②相手を振り向かせるしかない。言い換えれば、相手に自分で妥協してもらう。何を隠そう、僕自身がとったのもこの手段だ。僕は結婚願望がなかったから、よほど自分がいいと思った相手でなければ、結婚などあり得なかった。

そもそも相手を探していなかったから、婚活的なマッチングサービスを利用したことがない。そういった相手探し市場の外で、僕は相手を見つけたことになる。仕事で例えるなら、新卒なり転職なりの採用マーケット外のところ、スカウトにあたる。スカウトは採用と違い、こちらから相手の希望に合わせていかなければいけない。結果的には、相手を納得させる形でマッチングが成立した。

結婚とかどうでもいいと思っていた僕が、この人とだったら結婚してでも一緒にいたいと思って、なんとか手を尽くしたのが僕のケースにあたる。まあ、もちろんそれ以外にも、前提としてお互い条件が合う部分はあった。

相手の理想に自分を近づける

パターン②「相手を振り向かせる」を成立させるためには、パターン③のようにただ妥協すればいいほど簡単ではない。それでもやる気があればなんとかなる。それでは、何をどうすればいいのか。相手に妥協してもらうんだから、自分が相手の理想に近づけばいい。

相手がどういう人が好きで、どういう条件で相手を探していて、どういう部分は譲れないのか、パートナーに対して何を求めているのか、それをひたすら探り、相手の理想の中で自分に当てはめることができそうな部分を、ひたすら取り込んでいく。自分を少しでも相手の理想に近づけ、相手がパターン③の妥協を選択してくれるまでに持っていく。

これをちゃんとやっている人は、うまくいってるんじゃないだろうか。というのも僕に対して「どうすればいい相手を見つけられるのか」と聞いてくる人は、この観点が全く欠けていることが多い。理想の相手に振り向いてもらおうとするのに、相手の理想に満たないそのままの自分で勝負して無残に散っている。そのままの自分では相手に求められていないことがわかっているのにも関わらず、何故か自分を変えようとしない。これはもう、やる気がないとしか思えない。

相手の理想と根本的に合わないのであれば、その相手はあきらめるしかない。どう頑張っても近づかないのなら、努力する甲斐はない。そのあたりは本当に相手のことが好きかどうかで分かれる部分でもある。そこまでするほどの相手ではない、と感じてあきらめることだってあるだろう。本当に振り向いてほしい相手なら、ただ待つのではなく努力を惜しまないことだ。

あなたは「いい人」なのか?

「どうすればいい相手を見つけられるか」と聞いてくる人には、要求ばかりの人が多い。「〜な人がいい」「〜してほしい」といった、ただ自分に都合のいい相手を求めているだけ。「それでは、あなたは対価として相手に何を与えられるのか?」と訊ねると、答えられないことが多い。また、「あなたを選ぶ相手は、あなたのどこをいいと思って選ぶのか?」と聞いても答えられない。

相手も同じ人間であり、お互いがいいところ悪いところ、許せるところ妥協できないところ、好きなところ嫌いなところ、を検証し合い初めてマッチングが成立するにも関わらず、その事が頭にない。相手も同じ立場だということを理解していないと、自分が選んだとしても相手からは選ばれない。それがわかっていない人は、あまりにも自分の武器を持たない。私と付き合えば、結婚すればこんないいことがあります、私はこんないい人です、何もないから攻め手に欠ける。そして選ばれない。

「いい人がいない」と思う前に、まず自分が「いい人」かどうか疑ったほうがいい。「いい人」でなければ、「いい人」を探すよりもまず自分が選ばれる人になるよう、「いい人」になったほうが早い。目当ての対象がいるなら、項目を絞って「その人にとってのいい人」になると、自分が望む人とのマッチング成功率は上がる。

自分の武器を増やそうとして、いわゆる「自分磨き」に精を出す人はいる。でもその多くは、やり方を間違っている。大事かもしれないが、表面的なことだけを取り繕っていることが多い。それでは根本的に選ばれない自分は変わらない。モテない人がパーマを当てたり服に凝りだしても、決してモテないのと同じ。

人からよく見える自分、ではなく、人に良さを提供できる自分へ、武器を増やしていくのがいいと思います。例えば、簡単なところで、男女関わらず料理とかはいいんじゃないですか。料理ができる自分、ではなく、相手が喜ぶ料理を気軽に提供できる自分になることが肝心です。頼れるあなた、心強いあなた、知識や経験豊富なあなた、優しいあなたを好きになる人は、それが発揮できる現場に必ずいると思います。

クセのある、個性の強い店員苦手話

昔から、いわゆるクセのある、個性の強い店員が苦手だった。そういう店員がいる店にはなるべく行かないようにしている。バーや飲食店、服屋、雑貨屋、コンビニでもそう。関わるのがめんどくさい。僕は店の人に自分のことを覚えられたりするのが嫌だから、そういう接客も全部避けていた。店の人と仲良くなったりしたくない。店員には無機質、無味乾燥であってほしい願望がある。なんなら自動販売機でいい。人間味を求めていないどころか、ないほうがいいとさえ思っている。AI店員最高。物を見なくていいならネット通販でいい。

詳しかったり手際が良かったり、店員の機能として優れているのは大歓迎なんだけど、本人の色であったり意見だったり、個性を出してくると「おまえのそんな話は知らねえよ」と思ってしまう。コミュニケーションを求めていない。そういうの求めている人もいるとは思うけれど、それってもうキャバクラでしょ。個人ありきの接客とか。個性を出すなら店員としてのキャラではなく、商品やサービスで出してほしい。

まあ美容室とか、そういうコミュニケーションありきの業態もある。そういう場でも、なるべくフラットでいてくれるとありがたい。自分もそんなにあれこれ話したい方ではないから、てきとうに話題を見繕ってその場のお茶を濁すのに苦労しなければそれで十分。当たり障りのない存在でいてくれたら助かる。会話のいらない美容室があればどれだけ楽か。客と店員という立場がある以上、何を話しても結局ビジネスでしかない、上辺の付き合いとなる。なくていいだろそれ、と思う方の客です。

そのへんの使い分け、見極めが上手い人は、店員として理想だと思う。求めている人には与えられて、求めていない人にはフラットに対応できるような。しかし、いわゆるクセのある個性が強い店員と言われる人は、我が強いのかそういうことをやらない人が多い。客を選ぶ店に選ばれない客です、はい。自分自身も人間ではなく客に徹したい。金を払う以上のことは何も求めない。

ホーボー(hobo)について

アンダーザシルバーレイクを見ていたら、ホーボーサインなるものが出てきた。ホーボー、久しぶりに聞いた言葉だ。ホーボーとは、19世紀から20世紀初頭のアメリカで貨物車両に無賃乗車をして移動しながら、日雇いや季節労働者として働くホームレスの一種だそうだ。

ホーボーを初めて知ったのは、ジャック・ケルアックの「オン・ザ・ロード」だった。主人公はホーボーに憧れ、子供の頃「大人になったらホーボーになりたい」と親に言ったら怒られたとかそんな記述があった気がする。ホーボーはホームレスの一種なんだけど、一部で憧れの対象として見られている。Wikipediaには「ホームレスのサブカルチャーの一員」と書かれている。どういう意味なんだろう。日本のいわゆるホームレスが、憧れの対象になる話は聞いたことがない。なぜホーボーにはホーボーという特別な名前まで付き、サブカルチャーの一種と言われるのか。

ホーボー - Wikipedia

ホーボーが憧れの対象となる背景については「大陸を自由に移動するその姿勢が、アメリカのフロンティア精神を体現しているから」などといった記述があった。ジャック・ケルアックのオン・ザ・ロードは、アメリカ大陸を何度も横断する話であり、ある意味ホーボーを真似していると言える。ホーボーは無賃乗車だけど、ビートニクは車。ヒッピーカルチャーの元となるビートニク、またその元となったのがホーボーと言える。アメリカにおいてはそういう自由の体現者であったり、フロンティア精神とか移動する人たちが憧れの対象となる伝統があるのかもしれない。ホーボーを題材にした小説や映画もあるそうで、「北国の帝王」という映画は伝説のホーボーがテーマとなっている。

1930年代大不況下のアメリカを舞台に、職を求めて鉄道の無賃乗車で放浪を続ける浮浪者(ホーボー)と無賃乗車犯を追い払う車掌との対決を描く。

北国の帝王 - Wikipedia

このホーボーという存在・概念は、アメリカ文化の中でどれほど浸透しているのだろうか。ホーボーがいなくなったのは、アメリカが車社会になったからと言われている。列車が利用されなくなると、無賃乗車も何もない。アメリカと言えば車社会で、列車が主要な移動手段であった時代なんて、かなり前だ。にもかかわらず、2018年の映画アンダーザシルバーレイクにホーボーという言葉が出てきて、さもみんな知っているかのように使われている。アメリカ人はみんなその源流を知っているのだろうか。ホーボーがいなくなってからも、ホーボーのようなカルチャーはイージーライダーのような移動する者たちに引き継がれていく。自由と移動の体現者。僕がホーボーに惹かれるのは、それが現代で言うところのバックパッカー的だと思えるからで、根無し草への憧れが強い。

ホーボーについて書かれたページ

昔、「あなたの知らない世界」という番組があったと思いますが、逆にあなただけが知っていて他の人がほとんど知らないだろうと思われる世界 (分野・趣味など)はありますか?に対するJunichi Uozumiさんの回答 - Quora

ここではアンダーザシルバーレイクにも出てきたホーボーサインについて詳しい。

Hobo(ホーボー)

ホーボーについての一般的な説明。ホーボーバッグというものがあるんだな。

http://zip2000.server-shared.com/theroad.htm

ジャック・ロンドンを中心にホーボーについての記述。労働するホーボーに対して、働かない人はトランプと言うらしい。

ホーボーに関連する本

読みたい本を載せるだけ。本当は読んでから内容も含めて紹介すべきなんだけど、めっちゃ先になるからとりあえず。

読みたいけれど在庫がない。図書館にもない。ジャック・ロンドンの本でホーボーについて書いてあるのは少ないそうだ。

これはなんだろう、ジャケ買いしたいやつ。これも図書館にない。

とりあえず日本語で読めるものは片っ端からページをめくってみたいというだけ。

エリック・ホッファーはホーボーだったそうだ。

ホーボー映画

昔のアメリカ映画ではしょっちゅう貨物列車に無賃乗車していたそうだ。ジェームス・ディーンなんかが。

先程挙げた北国の帝王は、配信にはない。

明日に処刑を… [DVD]

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  • バーバラ・ハーシー
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マーティン・スコセッシの初期作だって。やはり配信にはない。

アメリカ以外でホーボー的な人たちと言えば、ロマになるのだろうか。迫害のされ方も似ている。ただ働き方、住み方、移動の仕方は全然違う。

今の世の中がどうなろうと知ったこっちゃねえ

そう思う人がいてもなんら不思議ではない。「むしろ今騒いでる奴ら、我慢していたり気を引き締めたり不安を感じている奴らって、平時は幸せだったんだな」と思っている人もいるだろう。「今死ぬのを怖がっているのとか、普段あまりそういうことを考えなくてよかった人なのかな?」って。経済の心配をしている人とか、人生うまくいってたんだろうなって。なんか、熱くなっている人たちを見ると冷めるというか。

日常の大切さを思い知って、以前の日常に戻りたいって思っている人は、多分その日々に幸せを感じていた人たちなのだろう。今よりも前が良かったって言える人は。そうじゃない人からすれば、今は返って生きやすいと思うかもしれない。不安の渦中で、みんなが幸せを感じていないと、疎外感が薄れて返って安心するとか。肩身の狭い思いをしなくていいとか。

世の中を良くするために、って思える人は、多分社会に対して恩を感じている人なんじゃないかと思う。何らかの恩恵を受け、感謝の念があるからだろう。じゃあ逆に、社会から阻害され、搾取され、排斥されてきた人は?そういう人が、社会の崩壊を案じるだろうか。喜ぶだろうか。さんざんな目に遭ってきた以前の社会がどうなろうと、どうでもいい。知ったこっちゃねえと思うんじゃないだろうか。お前らはお前らで勝手にやってろよって。自分を否定し続けてきたこの世の中に対して、怨みこそあっても恩など微塵も感じないだろう。

親との関係に問題を抱える人

多いんだなー。最近聞いた話が、みんな親との関係に問題を抱えている人ばかりで、20歳を過ぎてもずっと引きずっている。Twitterで見た話では、親子関係の不和って40を越えても50を越えてもずっと引きずるもんだとか言ってた。どうやらそういうもんらしい。

これまで他人の家庭について何も知らなかったが、周りにいる人たちの話を聞いたことで、自分の家であったり、親戚関係、親子関係がいかに順調なのか気付かされた。誰の話を聞いても、親戚どこか一軒は必ず揉めていたり疎遠になったりしている。絶縁していたり。自分は両親、祖父母、叔父叔母が全員京都で、近いため交流があるから親戚同士が仲いいのだと思っていた。そうでもないらしい。みんな親兄弟や親族でそんなケンカするもんなんだな。他人の家庭に口を出すもんじゃないが、正直大人気ない。でもそんな人たちが掃いて捨てるほどいる。人間なんてあまり大したことないみたいだ。

それも僕が問題を抱えていないから言えた話で、親族間、特に親との確執に頭を抱えている人は周りにたくさんいる。中でも幼少期における親からの愛情不足が、大人になっても自らを呪いのように縛り付けているケースが多い。それは本人に自覚があるとか、原因に心当たりがあるとかないとか関係なしに、背後霊のようにつきまとう問題のようだ。女性から聞くことが多いが、男性はそんな話を人にしたがらないからだろう。男性で言えば、ハラスメント型の人が典型じゃないかなあ。家族関係とは限らないが、わかりやすく何かしらの問題を抱えている。

親子関係がうまくいっていなかった人の呪いとは、どういう形で現れるのか。人間関係に現れることが多い。一例では恋愛やパートナー、家族関係に現れている。具体的に言うと、実親から得られなかった無償の愛を、パートナーや子供に求めてしまって相手に負担を強いたり、結果的に関係がこじれるパターンである。至極単純だ。相手に過剰な期待を寄せては、得られないと激怒したり悲しんだりする。相手は疲弊して離れていくか、引き込まれて病んでしまう。

彼ら彼女らは実親から十分な愛が与えられず、愛されるための努力をしたのだろう。しかし結果が得られなかった。もしくは愛されていたかもしれないけれど、うまく噛み合わなくて実感できなかった。そして恋愛対象やパートナーに対して同じことを求める。恋愛対象やパートナーに限らないかもしれない。近しい人、愛情が得られそうな人であれば誰からでも求めてしまうのだろうか。愛情飢餓って言葉があったから、そういう状態もあるのだろう。なぜか期待して当然、与えられて当然だと思っている。

このへんって学術的なまとめあるのかな。対策とかも。あまりにも似通った事例が多すぎて、一般化できそうな勢いだ。カウンセリングとかでそういう事例にぶち当たることも多いのだろう。アダルトチルドレンという言葉が昔流行ったが、あれに当てはまるのかな。機能不全の家庭で育った子供に見られる傾向ということで近いような気はするが、その昔何でもかんでもアダルトチルドレンで片付けられていたような気がするから、本当にそうなんだろうかという疑問も残る。

ただ身近な人に限って言えば、日常生活に支障をきたす程度ではない。健康な日々を営み、仕事もある程度うまくこなしている。親密な人間関係を築きにくい、同じ失敗を繰り返すという傾向があるだけ。これはアダルトチルドレン的な傾向があったとしても、カウンセリングや治癒が必要とまで言えないだろう。解決したほうがいい問題ではあるが、解決しないまま結婚なり家庭を築いている人も珍しくはなく、そのまま二次被害を引き起こしたり起こさなかったりしている。プライベートだけでなく仕事上でもあり、よくいるめんどくさい奴、困った人ぐらいにしか認識されていない。

いずれにせよこの手の悩みを抱えている人は多い。問題視も解決もされないまま事が運んでいくことも多いのが現状なのだと思う。この手の人たちは他人への期待が捨てきれなくて、無条件に褒めてほしかったり察してほしかったり認めてほしかったりする。パートナーはあなたの母親じゃないんですよ。そして、そういう人たちがこぞって言うのが、「認めてくれないんだったら、褒めてくれないんだったらパートナーなんていらない」という言葉。じゃあもう一生一人でいろよと思うが、そういう割り切りができれば万事解決。そうではなく、結局は都合のいい相手を強く求め続けている。

一般的に言う解決策は、自信を回復するとかインナーチャイルドを育てて大人にするとか。それをどうやるか具体的には一人ひとりに合わせた手段になるだろうから、一概には言えない。僕の場合は少し違った。僕、というのは、アダルトチルドレンだった自覚はないが、幼い頃に親に過剰な期待をしたこともあった。「なんでわかってくれないんだろう」とか。僕が人への愛情飢餓、過剰な期待から脱却した手段というのは、「あきらめる」ということだった。人をあきらめる。理解をあきらめる。期待を捨てる。

こういう話をするとよく、「あきらめたらもう絶望して生きていけない」と言われる。そこで死んでしまう人も本当にいるかもしれないから、安易には勧めないが、人をあきらめるということは、一人を自覚するということだ。自分が一人であるということ。それは紛れもない事実として眼前にある。しかし、彼ら彼女らはその事実が受け入れられず、存在しないものを期待して、あきらめきれずにいる。それを唯一の希望として生きている。それが感じられないと「寂しい」と言う。しかし現実は寂しいものだ。本人たちは現実の寂しさを実感しておきながらも、受け入れられない。現実逃避に走り、存在しない無償の愛かなんかを追い求め、人に期待して、要求して、関係を壊す。まるで中毒患者のように。

僕は他人(親兄弟を含む自分以外の人間)をあきらめてから、関係性にとらわれない一人の人間としての人生が始まった。だから僕が個人的に示す解決策は、自信を持つとかインナーチャイルドを育てるとかではなく、他人をあきらめる。自分とそれ以外の存在を、切り離して考えるところからスタートする。相手は私ではない。人間は孤独である。人生は一人で過ごすものだ。他人との関係は、たとえ相手が親であってもゼロから築き上げるもので、始めから期待したり、自ら期待に応えて、あたかも存在したかのように取り繕うものではない。寂しさ、絶望のその先にある現実を見据えよう。無償の愛という妄想に浸っていないで早く乗り越えてください。

※この文章が目に届く人のことは何も書いていないので、「私のこと書かれているかも!?」とは思わないでください。

「水曜どうでしょう」を見たことがなかった

最近になって、Netflixに入っている「水曜どうでしょうClassic」を全部見てしまった。テラスハウスは連続で見れなかったが、「水曜どうでしょう」にいたっては見事にはまってしまっている。なんてひどい番組なんだと。Netflixで配信されている回は全部見てしまったが、なにやら追加されていっているようで、昨年12月にはサイコロ1〜6が増えた。もっと追加してほしい。しかし次にいつ増えるのか、むしろ配信期限が切れるのかもわからないため、ついにDVDを買ってしまった。こちらは北海道から送られてくるためまだ手元に届いていない。

  • 「水曜どうでしょう」の何がおもしろいのか
  • 「ほのぼの」ではない
  • 電波少年との違い
  • 番組サイドへの怒り
  • ひたすら無意味なことをやっている
  • 素人感
  • 自分なりのおもしろさ
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テラスハウス的な恋愛に見る違和感

もともと恋愛どうこうは苦手だった。興味がなかったとも言える。テラスハウスを見るようになったきっかけは以前に書いたが、恋愛のことがメインではなかった。

恋愛模様を探るために見ていたわけではないテラスハウスだったが、該当の人物が出ていってからも惰性で見続けていると、やはりテラスハウス的恋愛への違和感が膨れ上がった。テラスハウス的恋愛とは、同じ家に様々な住民が入れ代わり立ち代わり暮らし、その中で恋愛相手を取っ替え引っ替えするというものだ。番組の趣旨そのものは恋愛模様をお届けすることなんだろうけど、実際はそれ以外にも人間関係や職業や生活における様々な喜び、葛藤などを描くことで、端的に言えば人生を映し出すことで番組に深みを出そうとしていた。だから他人の恋愛に興味津々ではない僕にも、この番組に見どころはあった。

しかし、やはりその恋愛模様についてはどうしても違和感が残る。こういうのって、どうなの?という気持ち。こういうの、とは、つまり入れ代わり立ち代わりしていく住民たちが、恋愛対象を取っ替え引っ替えしていくことだ。僕自身はそういう恋愛を節操がないと思う。あまり健全とは思えない。かといって自分が全くそういうことをしないのかと言えば、あながちそうとも言い切れないから、なんとも言えない嫌な気分になる。

番組を見たことがない人でも、番組の趣旨でどういう様相を呈しているか想像がつくだろう。テラスハウスには男3人女3人がひとつ屋根の下で暮らす。住民を仮に男性ABC、女性ABCとしよう。男性Aと女性Aがお互い惹かれ合うか否かという検証を経て、男性Aは女性Aを否と判断し、次の検証対象を女性Bとする。女性Aは居づらくなって出ていき、また別の女性Aと入れ替わる。男性Aは女性Bにアプローチをするが、女性Bは男性Cが気になっており、男性Aの好意を退ける。わかりにくいな。

男性A ⇄ 女性A ☓ →女性A交換
男性A → 女性B ☓
男性C ← 女性B ?

住民の入れ替わりこそあるものの、身近な人間同士で恋愛対象の吟味し、取っ替え引っ替えすることが短期的に繰り返されている。僕が違和感を持つのは、その恋愛対象を取っ替え引っ替えするという部分だ。他人に対する好意や愛情は、そんなに軽々しく芽生えたり失ったりするものなのだろうか?その軽々しさ、薄っぺらさが僕にはわからない。それってつまり、究極は「誰でもいい」という事になりはしないだろうか。その前提として「条件さえ合えば」ということにはなるが、相手そのものはそんなに重要ではないのだろうか?相手という個人、人間は。

お見合いサイトやマッチングアプリとの違いは、きっかけを作る手段でしかない。婚活や結婚に関して、僕はどういうものか理解していないためなんとも言えないからお見合いサイトはともかく、マッチングアプリは多分彼氏彼女を作るために用いられるのだろう。単に性交渉の相手を探すだけならわかりやすい。その点について僕は疑問を持っていない。しかし、恋愛には関心がないため、短期的に繰り返し恋愛対象を検証するという行為がよくわからない。それはマッチングアプリ上でもテラスハウスでも言える。

マッチングアプリやテラスハウスがきっかけだとしても、相手を選ぶにあたっては諸条件だけでなく、相手の人間性や人格を大事にするというのは当然だろう。問題はその次。失敗したらまた別の人に行く。「あれ、大事にしていた相手の人間性や人格はどこいった?」となる。それが短い期間で繰り返されればされるほど対象個人に対する重みや意味合いはどんどん薄れていき「そんなに誰でもいいのか?」と思ってしまう。

一人一人の人間は、人格はそんなに重要でないのだろうか?取っ替え引っ替えするということは、対象の人格、人間性を蔑ろにする行為に当たらないだろうか?そんなことを言っていたら生涯一人しか出会わない運命の相手としか恋愛できない。そう思うかもしれない。僕自身は恋愛したいなどとは思わないからそれでいいと思う。人間一人一人を、その人格を大切にしたい。本当は。もしくは全員を切らずに蔑ろにせずに大切にするというのでもいいと思う。

"オシャレ"かっこ悪い

地元京都のOPAという9階建てのビルには、主に10代女性向けのアパレルブランドが入っている。僕は疎いから全然知らない。そして最上階9階にはタワーレコード、その下8階にはブックオフ、その下7階にはダイソーが入っている。

エレベーターに乗った瞬間「この人はブックオフの客だ」というのがわかる。オタクっぽい人だ。この若い女性向けアパレルブランドがひしめき合うOPAで、オタクっぽい人の行き着く先は8階ブックオフ以外ありえない。まず男性であればタワーレコードかブックオフかダイソーに絞られる。タワーレコードの客もブックオフとは競合しないからなんとなくわかる。楽器好きそうな人。

  • ブックオフゾンビの服装
  • カッコつけることのカッコ悪さ
  • 自己主張の塊
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