無知と病と怠慢と

肉体的、あるいは精神的に病んでしまって全く動くことができず、それが怠慢の結果だと勘違いされ、悔しい思いをする人が大勢いる。私はそういう人の傍にいたことがある。彼らの実態は、外から見ればただの怠慢と何ら変わりないため、よく勘違いされてしまう。

仕事をしないで、衣食住を両親に任せ、自らは外で友人たちと遊び倒したり、家に引き篭もって享楽三昧であったり、何も生産せず、親が稼いだ財で生き、遊び、楽しみを謳歌しているように見える。中には本当にそういう人もいるのだろう。

しかし、例えば、私が傍にいた友人はそうではなかった。彼女は精神科に通院していた。診察室では、二度に一度は涙を流していた。何に泣いていたかというと、自分の病の治る見込みの無さと、医師自身が「わからない」と言葉を放つことに、心底から涙が流れた。病院に行っては、医師と話をし、病状を確かめて薬を処方されるだけ。それはなんの病気であっても同じ事かもしれない。彼女の薬は日に日に強くなっていった。

症状をやわらげる薬。それを使っても治りはしない。やがて、薬に慣れてきてしまうと効かなくなる。やがて、薬はどんどん強くなっていく。そして、彼女の症状自身も悪化していった。それは何が原因か、どういう作用で、どうすれば治るか、全く見当のつかないことであった。医者さえも。

彼女は医療の無力と、日々強くなる薬と、悪化する症状とに、絶望していた。彼女は病気のせいで、怠慢に見られてしまうことがあった。何も知らない人間に、その実情を理解することは不可能であったし、「病気だから」と言葉で語ったところで、その痛苦のうちの1/1000も伝わることはない。私のような身近にいた人間でさえ、目に見える苦しみ以外は何一つわからなかった。

それが一次的に外側から「怠慢」と区別されないことも、悲しいけれど仕方がない。「何も知らないくせに」「おまえなんかに何がわかる」よく耳にする言葉だが、これは逆だ。我々は「知らないくせに、そういう口をきく」のではない。「知らないから、そういう口しかきけない」のだ。

軽はずみな言葉や、分別のない言葉、病気の人に怠慢と言ってしまうようなことなどは、全て、何も知らなくて判断のしようが無いことから来ている。そして、それを知ることは途方もなく難しい。身近にそういう人間がいなくてはいけないし、しかし、その身近にいる人間こそがただ怠慢なだけな人間であったらそれこそ逆効果になってしまい、混同してしまう。知るということは、とても難しい事である。だからそういう風に考えてしまうのも仕方がないと言える(ただ、声たかだかに宣言するには、その言葉に対して責任を持つことぐらいは必要であるが)。

私や彼らを許してくれとは言わない、その無知を嘲ってください。そんな、自ら傷つくようなことなどなさらずに、ただ我々が無知なんです。「こいつらは何も知らないバカだから」と見下してください。すみません。