可能性の悲劇

本当にそこに存在したかどうかはわからないけれど、少なくとも目の前にいた。可能性というのは本人にとって悲劇でしかない。高校で、私のクラスからは京大生が2人出た。隣のクラスからも2人出た。私の塾からも多く出ており、私が習っていた大学生は二人とも京大生であった。だから、私にとって京都大学はそれほど遠い印象を受けなかった。自分が入ることもそう難しくないであろうと考えていた。私の目の前にはイメージとして、エリート街道が広がっていた。
しかしながら、私は勉強することはなく、誰でも入れるような学校へ行き、私の人生はエリートどころか並の喜びを得ることもない、くだらないものであった。もしかすると、高校の時、私の周りにいたような人間と同じ道を進むことがあったのではないか、という可能性が目に見えるだけに(そんな可能性は実際はゼロだったかもしれないが)、私は現実とのギャップに居たたまれない気持ちになる。
今行っている就職活動についても同じである。私と同じ立場から、多くの人間が私の望む方向へと進んでいる。そこに差違は感じられない。が、しかし決定的な何か違いがあるのだろう。あるのか?それすらもわからない。だから、私からすれば、その希望が叶ったであろう可能性を感じてしまう。そしてまた、現実とのギャップに苦しむ。結果がうまくいかなかったなら、可能性は無かった方が幸せなのかもしれない。