ある人と話し込んでいるとき、
彼がよく使う言葉「誰も得しない」。

例えば、宴会などがある。自然に盛り上がればいいけれど、
実はそういう事ってあまりない。
誰かが意図的に盛り上げているから場は盛り上がる。
我々はその恩恵を知ってか知らずか受け
「今日のは楽しかった」「こないだは最悪だった」などと、
まるで客のような無責任な偉そうな意見を吐き捨てる。
もちろん提供はしたものの、受けが悪かった
という場合もあるが大抵はそうではない。
場が盛り上がらなかったのを何かのせいにしている。
それが空気やメンツ、ノリ、諸々、実態は、
エンターテイナーがいなくて誰も盛り上げなかったからか、
そういう場に耐えられなくて初心者がかって出て失敗したか、
とにかく自分から舞台に上がって盛り上げようという発想はない。
私にもない。

世の中にいる攻め手と受け手、SとM、職人と客、
いかなる場に於いてもこの二手に分かれるのではないか。
細かく言うと攻め手補助とかあるけれど、
自分はその立ち位置が好きだったりする。それはいいとして
自ら何かを創り上げ、繰り広げ、絡め合いは、やらないだけで
自然に受け手になる。受け手は享受しかしない。
批評しかしない。都合が悪いと拒む、黙り込む。せこい。
受け手しかいない宴会など最悪の状況。

こういう場に一人でも攻め手がいてくれると助かる。
多少笑えなくても、寒いなりの流れができる。
そういう人に笑いをかぶせる立場が好きだ。それはいい。
しかしながら、我々受け手がなぜそれをやらないか。
攻め手はなぜそこで自らかって出るか。
その違いはなんなのか。いろいろあるだろう。
そういった話を、トップに書いたある人としたら
「誰も得しない」と返ってきた。

つまり、「せっかく宴会に来て、みんなが楽しみに来たのに
その場がつまらないとすごく無駄な時間を過ごす事になって
誰も得しない。だから、自分がかって出て、
自分はたいしてやりたくなくても場を盛り上げ、
それなりに人を喜ばす。」

まさしく攻め手の意見。そんな言葉に対して私は
「めんどくさい」「力量がない」
「そんなことをしても自分は楽しくない」
などと最悪な人の代表みたいな意見を吐いた。
「第一、自分一人が苦労して周りに楽しまれてもむかつく」などと。

この二者の違いは
「人を楽しませることに価値を見いだせるか」
にある。自分が楽しむことよりも優先できるかどうか。
このまま盛り上がらないと「誰も得しない」から、
自分だけ害被ってでも周りを得させる。
でも俺は「自分だけ傷つくぐらいなら盛り上がらなくていい」
と思ってしまう。
もう器のでかさとか言っちゃうとそこでおしまい。

我々は生きてゆく上で、いつか、
「攻め手」でなければならない。見返りを求めず、
場を盛り上げるためだけの道化を演じなければならない。
そんな時にエンタメ精神を持ち合わせていないと大変。
しかし、攻め手受け手のなんやかんやを意識出来ていれば、
自然にそういうタイミングが見えて来て、
そこで自ら進んで行動できれば明日からあなたは人気者。
多少受けなくても場に必要な位置として重宝される。
俺みたいに「おもろいこと言えんのやったら下手に喋んな」
精神の人を見つけたら要注意。最悪だから。
あと、「おもんなーい」という反応を直に受け取らんように。
それさえ糧に、軸にしてしまわんとそこで終了してしまう。

オチが浮かばん。
なんだろうな、結局のところは他人に関心を持てるか
それは好意にも繋がるかもしれんが、他人に対して
自分の欲のはけ口ではない関心を、単純に喜ばせたり
そういった関心を持てるかに尽きるのかも知れない。

そういえばそのバイトの人からも、
「木之下君は全然人のことを見てないね、冷たいなあ」
などと言われてたことを思い出した。

当たり前のことを当たり前のように考察することが私にとっては何らかの意味があるように思えてしかたがない。それはやはり、世の真理であり、誰もが当たり前のように感じているにもかかわらず、私自身にとっては世紀の発見であったりするかも知れないからか。幼児が大人の事情に気づいたときのような。人間の世の中を少しだけ理解できたような気がするのか。この喜びは私のものでしかない。