太宰治と三島由紀夫

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太宰治、ドラッグと精神病院、自殺未遂、心中、極左活動の一方で、弱さ・繊細さと自己を前面に押し出した作品を執筆し続けた。結核の身で文壇に最後の喧嘩を売り、入水自殺で散る。

三島由紀夫、ひ弱の秀才だった学生時代経て、自己を確立していく上で国家に傾倒し、その美意識と力強さから早熟の天才と言わしめた作品を数々世に送り出す。日本を憂い後に割腹。
二者の印象はだいたいそんな感じでしょう。
仮面の告白を初めて読んだ時、脳裏に浮かんだのは人間失格でした。この二者、どうも気になって、関係だとか繋がりを調べました。

三島由紀夫は大学を卒業する直前、太宰治と直接会う。

昭和22年1月、太宰治、亀井勝一郎を囲む集まりに友人に連れられて参加。この時、三島は太宰に対して面と向かって「僕は太宰さんの文学は嫌いなんです」と言い切った。後に三島自身の解説では、これに対して太宰は虚をつかれたような表情をして誰へ言うともなく「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」と答えた、とした。しかし、その場に居合わせた野原一夫によれば、「きらいなら、来なけりゃいいじゃねえか」と吐き捨てるように言って顔をそむけたという。wikipedia

このエピソードと、もう一つ、小説家の休暇という評論で、三島の太宰嫌いは有名とされている。太宰の入水自殺後刊行された、「小説家の休暇」にはこうある。

昭和30年刊『小説家の休暇』:「私が太宰治の文学に対して抱いている嫌悪は、一種猛烈なものだ。第一私はこの人の顔がきらいだ。第二にこの人の田舎者のハイカラ趣味がきらいだ。第三にこの人が、自分に適しない役を演じたのがきらいだ。女と心中したりする小説家は、もう少し厳粛な風貌をしていなければならない。
 私とて、作家にとっては、弱点だけが最大の強みになることぐらい知っている。しかし弱点をそのまま強みへもってゆこうとする操作は、私には自己欺瞞に思われる。どうにもならない自分を信じるということは、あらゆる点で、人間として僭越なことだ。ましてそれを人に押しつけるにいたっては!
 太宰のもっていた性格的欠点は、少なくともその半分が、冷水摩擦や器械体操や規則的な生活で治される筈だった。生活で解決すべきことに芸術を煩わしてはならないのだ。いささか逆説を弄すると、治りたがらない病人などには本当の病人の資格がない。」

しかし、三島の晩年には太宰に対する感情が変化しています。
昭和45年、一橋大学でのティーチ・インではこのように語っています。

三島:私は太宰とますます対照的な方向に向かっているようなわけですけど,おそらくどこか自分の根底に太宰と触れるところがあるからだろうと思う。だからこそ反発するし,だからこそ逆の方に行くのでしょうね。おそらくそうかもしれません。

また村松剛との会合で「お前も太宰と同じだ」と言われた三島は「そうなんだ同じなんだ」と言ったことも有名なエピソードらしい。

これについてフランス文学者の出口裕弘という人が意見を述べています。

「まさにそのとおりだと思う。特に死に方が同じだ」
「だから三島は同時に森田必勝という無垢な若衆を相手に、念者としての理想的な情死を遂げた」

三島由紀夫の太宰治に対する嫌悪は同族嫌悪であり、だからこそ逆を行った、三島自身も晩年にはそのことを意識するようになったというところでしょうか。

参考:太宰治と三島由紀夫を歩く(こちらに詳しく載ってました)