きんきん

振り出しに戻る。

6月も半ばとなってまいりました。梅雨は来たと思ったらよくわからないことになっています。やや晴れたり、雨降ったり、6月も半ばだというのに。生活というのは実に奇妙で、生活、人生、時間、人格、

幼いころから疑問だった、自分という境界について。考えました。自分という区切りはなんなのだろう。世の中で自分とそれ以外とでは、どう区切られているのだろう。個とは、己とは、この意識は自分のものとしてあるが、空中から世界を見下ろしいる感覚。個体の区別、境界を引いているのがなんなのか、ずっと考えていた。手を触って確かめる。己のものである。己という意識はどこから来るか。

エアコンの季節です。名古屋は年較差が激しいらしい。しかし、冬に雪は積もらない。夏はいかがなものか。残念ながら、山は無い。いったいどこでどう夏を過ごそうか。1週間ほどの夏季休暇。計画立てるなら今のうち。どうも、この計画というのが嫌いでその理由はまず第一に、計画立てたはいいものの、当日になるとその気がなくなっていることが多い。とても。第二に、計画通りにならないことが多い。意味あんのかと。第三に、めんどくさい。考えるのも。それゆえに、何事もその瞬間の衝動で行われることになりました。人はみな、予定をたてる。からまず合わない。まずまずです。そう、その衝動こそがまさに我が人間関係を形作っており、一瞬なのであります。つながりなどというものは皆無に等しい。その瞬間は、確かにお互い親しくなる。だけです。怠惰を絵に描いたようなもち。

性的少女の見た夢はー起きると部屋には誰もおらーん知らない誰かの吸殻だけが、灰皿の上に山のよう

昨日は休みでした。夕方近くまで寝ておりました。起きてクリーニング取りに行って、部屋掃除して、パンと野菜ジュースで食事をとり、風呂に入り、服屋に立ち寄り、何も買わず、雑貨屋に立ち寄り、何も買わず、ロフトで洗顔泡を買い、家に帰り、運動をして、音楽を聴き、銃・病原菌・鉄を読み終え、吉野家で牛丼を食い、日本史の話をしていたら朝の5時でした。実に休日。明日も晴れれば暖かい。

「休みの日は何してんにゃ?」と、おとつい聞かれて何も答えられませんでした。掃除洗濯としか。猫語ではありません、関西弁です。「なにしてんのや」→「なにしてんにゃ」そんなわが休日は明日にもございますが、以上のように、特に何事も無く、手元にあるガリバー旅行記か、生命とはなにかを読むだけでクリエイティブセンシティブアクセッシティブなことはなにもなにも。行きたいところはとくになく、やりたいことも特に無く、アル中廃人乞食同様に思考めぐらすことも無いまま、時間は過ぎ去ってゆくのでした。私も20代後半です。

しかしながら、我が人生、我が人生に望むものは、我が人生に求むるものは、我が人生において、遂行しようと試みるものは、かの吉良吉影のパクリである、植物のような静かな生活を望んでいるのであります。浮き沈み無く、毎日を眺める。過ごす。漂う。平穏以外は何も望みません。干渉は避けて通りたいです。傍観者でありたいです。参加したくありません。理想は世捨て人であり、仙人でありますが、そんないいこと望みません。植物がいい。草になりたい。日の光と風と水だけで十分であります。