やりたいことについて

やりたいことがどうとかいう話題がtwitterで流れていたので思い立った。

「やりたい事を仕事に」とか、「やりたい事を見つける」とか、子供の頃なら「将来の夢」とか、僕にはあまりピンとこない。

 

やりたい事とは一体なんだろう。かっこいいと思う物、憧れる物、やっていて楽しい事、みたいなものか?

僕は未だかつて、本気で何かをやりたいなどと思ったことがない。本を書こうとした事は何度もあるが、気持ちがもたない。20ページも書くと、もう何も思い浮かばなくなる。それ以上やりたいかと言えば、気が向いたら、としか言えない。

写真もそうだ。撮ってる時はいい。現像している時もいい。いざ、出来上がった物を見た時の、何の変哲もなさに落ち込む。また、撮ったり現像したりが基本的にめんどくさくて、なかなか手が出ない。

その他諸々、スポーツや趣味についてもそうだ。だれるし、飽きる。やっている時は真剣で、無心で、夢中でやっているが、続かない。結果も出ない。本気でやりたいと思わない。続けたいとも思わない。

 

やりたいこととはなんだろうか。

僕にとっては、そんなものは無いというのが結論だった。そこまで突き詰めたことが無いというのもあるけれど、やりたい事を、ずっと続けたくなるようなことを探したとしても見つからないと思った。遠い昔に。

 

であれば、僕はどうすればいいのか。就職活動の時とかに、そんなことを考えた。その結果としては、突き詰めてやりたいとまではいかなくても、少しでも興味があることを、興味が続くように続けるしかないという風に思った。興味が失せるようになってしまえば、それはやり方が悪かったのか、そこでおしまいだ。それはそれで、いいか悪いかは別として仕方がないだろう。また別のことをするしかない。

 

皆が突き詰めて、やりたいこと、少しでも興味のあることに手を出してしまったら、世の中は回らなくなる。

世の中はスポーツ選手見習いや、ミュージシャン見習い、ダンサー・役者見習い、芸術家見習いばかりになってしまう。かっこいい、憧れの職業というのは、基本的に華やかなだけで、社会に不要な存在だ。

 

世の中に必要なのは、作物を育てたり、工事をしたり、物を運んだり、およそ非文化的な仕事だったりする。文化とは対極にあるからこそ、そこに必然性があると言える。

より高度な、文明的な仕事と言えば、ひたすら考えて決断することを繰り返す仕事となる。そこにはやはり、高度な頭脳と、集中力が必要とされる。

やりたいことは何か、なんて、そんなに突き詰めて考えなくても、初めから知っているんじゃないかな。その中にはどこかに文化や文明と交わる仕事もあったりなかったり。

 

退職してから、僕が今やりたいのは、ユーゴスラビアの成立から解体まで研究すること。カリスマであるチトー政権はどのようにして成り立っていたか。チトー以前はどうだったのか。チトー没後、いかにしてユーゴの体制が崩れることになったのか。そしてあの忌まわしき紛争。

第一次大戦の引き金となったバルカン半島の情勢、オスマントルコ敗退とセルビア、その後ドイツが復活してからクロアチアの勢力が強まり、第二次大戦が終結してからソ連の支配、ソ連崩壊、そして現在まで。

ユーゴスラビアはその間にどのように生まれ、成り立ち、そして成り立たなくなっていったか。映像の世紀や各種映画、歴史の知識で少しは知っているが、詳しくは知らない。

僕らの夢だったユーゴはどんな経過を辿っていったのか。

僕は研究者でも学者でもないから、そんなことは意味も価値もない何の役にも立たないどうでもいいことだったりする。まあ、これは仕事ではない、趣味の話。意味や価値のある領域では、本職の人が本気でやっている。

だから、とりあえず僕は社会には寄与しない存在となる。その前はベトナムについて調べていた。ベトナム史やベトナム戦争の本を読んだが、今その熱は冷めている。

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