面影

遠い昔のことを思い出していた。
遠い昔と言っても、10年も前ではない。それ以上昔のことは、もう覚えていない。記憶が、ごっそりと抜け落ちている。「こういう事実があった」という事は覚えているけれど、実体験としての記憶が無い。それは歴史のように客観的で、知識でしかない。体験としての記憶ではない。

そういった、沈んでしまった記憶ではなく、もっと最近の、せいぜ5、6年前のことを思い出していた。それでも僕にとっては遠い昔のことなんだ。記憶として残っている部分は、このあたりが一番古い。 

思い出したきっかけは、ちょうど交差点を渡ろうとしていた時だった。
横断歩道の反対側から向かってくるその人は、あの人に似ていた。今となってはもう失われてしまったあの人に。
一瞬はそう思ったが、よく見たら似ていなかった。髪型も、顔も。
ただ背格好から、自分で勝手に重ね合わせていただけだった。こんな感じだっただろうと。記憶と、想像で。
眼の前を通り過ぎた人は似ても似つかなかった。あの人は髪を短く刈っていたことさえなかった。

なぜ、目の前の人を、あの人と見間違ったのだろう。誰でも良かったのかもしれない。むしろ、何もないところにさえ、あの人を見出していたかもしれない。ただ、遠い記憶と、懐かしさに浸りたかっただけなのかもしれない。

面影というのは不思議なものだ。人間の記憶の中で、これほど信憑性がなく、これほど影響を受けるものはあるだろうか。面影に受ける影響は、本能に根ざしている。
人を見かけで判断するなと幼い頃から言われるが、面影というのは、それは本能に根ざした反応だから、矯正するのが難しい。

面影。人は、過去の記憶にある顔に影響されてしまう。
過去に、ある優しい人がいれば、似た顔の人も優しい人に見えてしまう。
過去に好きになった人、に似た人がいれば、顔が似ているだけで好きになってしまう。ただ顔が似ているというだけで、性格、中身においては全く根拠が無いにもかかわらず、本能はそういう判断を下す。面影と人格に関連性は無い。にも関わらず、この本能は根強く残っている。

あの人は今も健在だろうか。いや、僕は知っている。そこには分断された時間がある。あの人の時間と、僕の時間は、ある日を境に分断された。再び交差することはない。
その後の人生は、あの人にとっても僕にとっても別世界だ。同じ時間を生きていない。 

妄想が頭をよぎる。もし、あの人と今この時間を過ごしていたとしたら。それこそ、今目の前を通り過ぎた人のような背格好で、僕の隣を一緒に歩いていたかもしれない。
普段、そんなことは考えない。それは、ふとしたきっかけを元に、傷として、痛みとしてフラッシュバックのように呼び起こされる。

頭を抱える。