人生という無駄

我々生ある物にとって、人生という無駄に立ち向かうのが業である。

これがなかなか大変なのだ。我々には切っても切れない感情というものがあり、全ての理性は感情によって吹き飛んでしまう。感情とは、本能とは、いわば奴隷である。隷属である。理性とは、究極は彼の力である。超越である。もう一つの問題が、その頭の足りなさにある。どこまで昇っても到達せず、もはや昇ることさえままならない。我々にはこの2つの障害があるため、どこまでも一歩先へ進めない。DNAの螺旋構造から抜けだせないでいる。ただし、ふと気が抜けた時、どんな恐怖も圧力も抜けたその一瞬だけ、一瞬でも気づく、やすらぎの間に人は気づく。全てに意味は無いのだと。過去、未来、今日、明日、今、この瞬間、遠い場所で大勢の人が生まれ、大勢の人が死ぬ。人だけではない。動植物が、これらはなんだろうか。天然物か、それとも天然物の素材を組み合わせた人工物か、命とは、生命とは、その価値とは。犬は今日も命令に従っている。考えるということなく、決まりきった命令に従っている。誰も教えていない、生まれた頃から決まっていた命令に。僕らとこの犬に違いはあるのだろうか。どこからどこまで?子供の頃に疑問に思ったことがあった。性教育の授業を受けている時、これらを受けて育たなかった人たちはどうやって子供を作ったのだろうと。その答えは犬にある。彼らは誰かから子供の作り方を教わっただろうか。僕らの組織には初めからそのような情報が記載されているんだ。性教育など受けなくても子供を作る。あれは、子供の作り方を教えているのではなく、「繁殖と社会との関わり」を教えているに過ぎない。では、子供の作り方はどこで教わるのか。犬と同じなんだ。初めから知っている。

僕がそれを客観的にとらえたとして、どこまでが客観的だろうか。人類には初めから自らを知るという経験が書き込まれているのかもしれない。人はそれを知り、なおかつそれを超越できず、自らの意思を持てず、彼の意志に抗いきれず、悔しさと藻掻きの中で死んでいくようにできているのかもしれない。自らはどこへ。初めから存在しない個は。

個体は、個別は、境界は果たして存在するのだろうか。自らの内側には存在するかも知れない。情報として。自我という概念、枠組みの中で。しかし、大量に死んだ人たちは一体化するのではないか。同じ被害者として、同じ個体に消化する。区別はなくなる。個体にそれぞれの人生があり、歴史があり、遺伝子があり、その違いとは、差とは。区別の意味とは。目先のことに一生懸命になり、狭い世界を満たすのは、個体として出す正解なのかもしれない。また、指導者としてその領域を指揮し、導くことは、その枠組の中において大切なことなのだろう。その領域が広がれば広がるほど、役割は広く大きなものとなっていく。そこに責任はあるだろうか。個の答えを導くための、役割に過ぎないのだろうか。果たして、彼らは先導者であろうか、職業人であろうか。個体は一体化しているだろうか、それとも個体を整列する仕組みの運営だけに過ぎないだろうか。答えは、出ているか、答えは。一度呼吸を止めてみよう。自らを襲うのは彼の意志だ。抗う自分に対する彼の戒めである。その先に己が存在する。しかしそれは、到達できない仕組みになっている。それも彼は知っている。我々という存在は初めからそのようにできている。花壇に種をまき、肥料をやり、水をやり、日光を当て、出た芽に名前をつけるか?区別ができるか?その違いに意味があるのか?よく育てば、実をつければ、花を咲かせれば、誰がなんのために?僕たちに水をまいているのは誰で、果たしてどこから肥料がやってくるのか。太陽のバランスは、酸素と土は、この大地は用意されている。人として生きるということは、人生をまっとうするということは、果たして誰の人生であるか。自分の人生だと言い切れるだろうか。これまでの選択が、自らの意思決定に基づいたものだと言えるだろうか。そのうちの、1回でも。全ては出来上がっている。サイコロの目であり、風が吹けば吹き飛ばされ、地面が揺れれば持っていかれる。視野に、視点に広いも近いも無い。何もかもが初めから出来上がっており、わずかな誤差を繰り返し、僕らはその誤差を強がるしかないのかもしれない。それこそが自らであると。