人の楽しい姿に惹かれるというのはわかりやすい。明るい人、優しい人、朗らかな人は、人から好印象を集め、人に好かれやすい。人は彼らに理想を求める。彼のように明るく楽しい人生を送りたい、優しく心落ち着けたい、彼らのようになりたいと望む。
では、哀しい姿に惹かれるとはどういうことか。人は彼らに、自らを見る。彼らの哀しみは、自らの哀しみと同じではないかと思う。そして彼らの哀しみを何とかしたいと思う。または、哀しむ彼らであれば、同じく哀しむ自分と分かり合えると感じる。
同じ人に惹かれるということであっても、内容が全く異なる。僕は前者に惹かれることがほとんどない。あってもまあ友人ぐらいだろう。そこまで深く親しくはなれない。後者が圧倒的に多い。ただ、後者というのは基本的に顕在化していないため、多いと言ってもそこまで漕ぎ着けるには時間がかかる。
僕が他人の不幸に魅せられることをはっきりと意識したのは太宰治からだった。彼の本を読んだ多くの青少年は、「この人は僕と同じだ」「この人だったら僕のことをわかってくれる」と思ったはずだ。少なくとも彼に傾倒した人はそのような感情を抱いただろう。
僕に限らず、周囲との隔たりがある人、環境に馴染むのが苦手な人、それについてどこか負い目を感じている人、人と楽しむのが苦手な人、幸せという概念に違和感を覚える人というのは、明るく楽しい姿に憧れを抱くことがあっても、自分はそうではない、自分はそうなれないことを知っている。それよりも同じ疑問を抱えた、似たような問題を持っている、ある一定の方向を見ている人同士、周囲とは違う彼であれば、僕らであれば、もしかすると友だちになれるかもしれないと強く信じる。人間失格にも金閣寺にも同様のエピソードが出てくる。
僕がギリシャやスペイン、イタリアよりもポーランドやユーゴスラビアに惹かれる、タイよりもベトナムに惹かれる理由は、上の点と共通している。明るさと楽しさと太陽と歌と踊りとダンスを抱える国より、紛争、混乱、侵略、難民、寒さ、貧困、独立を知る国のほうが、哀しみを知る人たちのほうが、人の痛みを理解でき、心の動きに対して敏感なのではないかという想像がそこにある。それは現実ではない。僕の想像でしかない。ただ、哀しみを湛えた街というのがそこにはあり、それに触れることで分かり合えることがあるのではないかという願望がそこにある。