英語を学んでみて感じたこと

英語を学んでみて思ったことの一つとして、翻訳作業は機械的な作業ではなく想像力で行うものなんだなーということだった。中高で意訳というものを習ったと思うが、英語にしろなんしにしろ外国語というのは正確に日本語に置き換えることができない。例えば英語では一番最初に"This is a pen."みたいなのを中学で習う。これが正確な英語かどうかは別として、これを日本語に訳すとすると、「これは一つのペンです。」みたいなことになる。果たしてこれは正確な日本語だろうか。違うと言える。何故なら日本語で「一つのペン」なんて表現はしないからだ。「一つのペン」という表現自体は意味として間違っていないが、例えばこれが小説などで"a"が出てくる度に「一つの」などという訳文がついていれば日本語の文書として違和感を感じる。正確ではない。それは日本語のルールとして単数複数を都度確認しない、見たら、考えたらわかるだろう、というルールが前提になっている。違うルールの元で機械的な翻訳を試みたところで、正確な翻訳とはならない。
これが日本語→英語に翻訳する時にも同じことが起こる。英単語の意味だけ覚えていても使えないと言われるのはそういう理由からも来ているのだろう。

例えばこんな間違いをする人はいないと思うが、「この問題について正確な解答がない」などという日本語を英語にしようと思ったとき、この問題が"question"を指すのか"problem"を指すのか、日本語の文章だけを見ていると判断できない。前後の文脈や話の流れなどから「問題」という日本語を見る前にそれが"question"なのか"problem"なのか判断しなければならない。だから実際の翻訳作業というものは、単語単語の機械的な変換作業ではなく、この文章、さらにはこの本全体を日本語で書くとしたらどういう文になるか、という想像の元で行わなければならない。英語にも日本語にも、単語の意味が文章の意味を表さない、違う意味の単語が文章の意味を表す、なんて事例が腐る程ある。イディオムなんかは全部そうだ。

英語などの外国語を学ぶ際には、日本語の対訳としての英語ではなく、英語は英語として、英語文化圏で使える全く別の言語として学ばなければ使い物にならないと感じた。これは特に、自分が何かを言いたい時、英作文の時に顕著に現れる。日本語を思い浮かべてそれに該当する英単語を並べたところで正確な英語にはならない。伝えたい内容のイメージをそのまま英語に変換する、英文や会話の事例、表現の仕方などボキャブラリーの中から引っ張ってきて文章やフレーズごと該当するイメージに当てはめていくことにより、生きた英語表現が生まれるんじゃないか、というようなことを感じた。