仕事上の曖昧な表現について

会社員だった頃、ある取引先の人によく「曖昧な表現を使って逃げ道を作るな」と言われた。僕の働いていた会社はほぼ個人プレイだったため、上司ではなく相手先から言われたのだ。多分、とか、おそらく、とか、僕はよく使っていた。今思えば相談に対してこれらの表現を用いるのがNGなのは当たり前なんだけど、僕は自分の判断に自信がなかったためになかなか断言ができなかった。

なぜ曖昧になるか

曖昧な表現を使うのは自信がないからだ。何故自信が無いかというと、根拠が明解ではないからだ。十分な検討ができていない、的確な答えが出せていない、しかしこれらのことは仕事上において日常茶飯事だったりする。むしろ明解な答えなんて出ることのほうが珍しい。十分な検討を行う余裕はいつもなかった。どうしても曖昧な返事をしてしまう。

なぜ曖昧が問題か

曖昧な返事をすると、当然相手は「曖昧なんだな」と思う。明解な返事をすると「そうなのか」と思う。その違いというのはなんだろうか。僕は相談相手のような仕事をしていたから、向こうはお金を払って相談を持ちかけている。そこで曖昧な返答をした場合、向こうからすれば対価を得られていないと感じる。

断言して間違っていればどうなるか

では、仮に自分の出した答えが間違っていた場合はどうだろうか。曖昧な返事をしていたことで、果たしてそれが逃げ道となるだろうか。ならない。明解に言い切っていたら、それが訴訟問題に発展するだろうか。仕事の内容にもよるが、ほとんどの場合そういうことは起こらない。ということは、曖昧な返答というのは自分にとって損しかない。

断言するとはどういうことか

もちろん全く根拠なしに言い切るのはただの嘘だ。曖昧な返答をしそうなときは、たいていまだ自分の意見が煮詰まっていない。時間的な制約も踏まえ、これ以上内容の吟味ができないところまで来ていれば、例えその答えが確実ではなくとも言い切れるものだ。
相手がまともな人であれば、見ているのはそこだったりする。何も相談相手の意見を全面的に信じて一切合切責任を追わせようとも思っていない。該当する仕事をやり切っているかどうかが判断される。

断言したせいで苦情がきたら

もし、「あなたの言ったとおりやったら大損害が出た。責任を取ってくれ」と言われたとしても、余程のことでない限り判断を下した本人に責任がある。そういう責任転嫁をする相手とは仕事を続けない方がいい。判断を採用したのは本人だ。ただ、自分の判断が間違っていたならば、契約を切られる可能性はある。それは仕方がない。しかしそういった契約解除が、曖昧な表現をしていたところで免れる性質のものでもない。

「自分の意見ですが、」

「これは飽くまで自分の意見ですが」などと言う必要はない。これも自信の無さを現しており、逃げ道と捉えられる。自分の意見でしかないのは当たり前のことだ。そして相談が仕事であれば、そこには自分の意見以外他にない。
運良く正解を見つけられた場合は別だが、ほとんどの場合、客として専門家に相談して返ってきた答えには相手がいくらその道のプロであろうともリスクが有る。リスクがあるからこそリターンもある。まともな相談者であれば、金を払ったからといって100%確実な答えが返ってこないことは知っている。

「そう断言する根拠は?」

通常であれば、相手はその意見の根拠を聞いてくる。調査結果であったりアンケートであったり、数字などの客観的な根拠なしの回答は成り立たない。しかしそういったものはだいたい一つの答えに繋がっていない。客観的なデータを意見に結びつけるのは自らの経験や判断であったりする。だから、意見の根拠となるデータは当然に要求されることが多いが、データはそのまま意見にならないため、そこに自己判断が存在する。「根拠は?」と聞かれて「データがこう言ってます」と言うのは、実は嘘だ。その嘘はつかないといけない。間違っても「経験上」「勘で」「過去はそうだった」などとは言えない。

信頼を勝ち取るために

曖昧な回答をした場合、相手はまず乗ってこないだろう。関係はそこで終わる。契約を交わし、利益を出すには、相手に話に乗ってもらう必要がある。確実ではなくとも客観的な根拠を用意し、そこに合理的な意見を上乗せしないことには、とりあえずの契約もできない。その上で利益を出してようやく信用を得ることになる。運悪く結果が出なかったとしても相談内容が的確であれば、ごく稀に評価が得られるケースもある。曖昧な表現をやめられるように努力をしよう。それはただのハッタリとは違う、自分の剣だ。