割と最低な話

テレビやマンガばかり見ていれば気づかないかもしれないが、世の中の大半は醜い人間で成り立っている。日常生活においては美人が目立つため、どうしても世の中には美人であふれかえっているような印象を受けがちだが、醜い人間についてはその存在さえも意識していないだけだ。それはやはり、見た目の美醜についての話だ。同性間では、特に男性間において美醜を意識することなどあまりない。不細工でも仲がいい。気が合う。しかし相手が異性となると、例え仕事上の付き合いであろうが顔を知らない相手であろうが、同好の士であろうが身構えてしまうのだ。何も相手が美しいから緊張するといった類のものではない。その逆だ。身勝手な話だが、どうか自分に興味を持たないで欲しいと願い、それが実現するような言動をとるのだ。

自分は他人をどうも意識しすぎる傾向があるらしい。それは何も他人からの評判を気にするという、俗にいう他人の顔色を気にするという意味ではなく、他人との距離感を気にする質である。特に、人に好かれることを好まない。それは何も異性に限ったことではなく、好感を抱かれる、親近感を抱かれる、興味を持たれることに対する嫌悪感というのが生来とても強いようだ。普段僕は自由で何も考えていなくてどこに居るかもわからないような印象を与える事が多いから、世の中に対して無関心であるかのように思われているかもしれない。事実そうなんだが、とりわけ自分の周りに関すること、自分に関わってくることに対して異常なまでに執着する事がある。その理由の一つとして、誤解がある。自分に対する誤解。他人の解釈、印象というのは、だいたいが誤解だ。誤解を元に自分を見られると、僕はその実態との不一致にいらだちを覚える。そして大抵が思いもよらない不名誉な待遇を受ける。かと言ってそんなことをいちいち釈明でもしようものならきりがない。誤解に誤解を重ねるだけであれば、これ以上自分に対しての認識を持ってほしくないと考え、距離を置くのだ。人間誰しもが、他人を正確に解釈することはできかねるだろう。しかし自らの興味を勝手に押し付け、深入りした挙句思っていたのと違った、というのはあまりに相手に対して失礼ではないか。そう思いつつも僕自身も他人に対してそのような態度を取ることが多い。僕の場合は失望こそしない。相手の人格や性格、自分の予想が外れたことを別にしても、相手を尊重する気持ちは持っているつもりだ。しかしなるべくそういうことにはならないように、人にあまり関心を抱かないようにしている。
自分が勝手に思い込むのは自由だが、それは自分の中だけにとどめておくのが正解だろう。相手だって人間なんだ。人間に対しては自分と同じ人間扱いをするべきであって、自分の感情の意のまま振り回していいはずがない。相手が思っていた人と違って落胆するのは、それは自分で勝手に盛り上がって落ち込んでいるだけの話で、もちろん相手が悪いことではない。むしろ相手に対して失礼な話だから、それを相手にぶつけるなどもってのほかだ。自分の欲求を紛らわすためだけに他人を扱うというのは、あまりにも大それた一個人の器に見合わない行為なのだ。

世の中の、大半の醜い人間に対して人々が取る態度というのは、取るに足らない存在としての扱いだ。自分の人生には関係ない、ただ道をゆく上でのパーツとして、置物として、人生の脇役として成り立っている。それが皮肉にも、醜い人間によって、自らを差し置いて行われる。これは自分の印象でしか無いが、醜い人間ほど物事の本質ではなく見かけを重視する。これはもしかすると、本人の経験則からくる判断なのかもしれない。
「本質は重要だ」
「本質が注目されるにはまず見かけが重要だ」
「本質を注目させるには見かけ以上に本質が飛び抜けていなければならない」
そうやって醜い人は本質よりも簡易な見かけを重視するようになる。自らという例がありながら、それ故か。例えばあるブサイクな人がいて、この人と友達と思われたくない、と思う。その範囲が広いほど交友関係は狭まるし、当人に魅力がない、自信がない人ほど魅力ある人だけを身の回りに置きたがる。そういう負の連鎖が発生するのだ。

また、醜い人ほど一発逆転満塁ホームランを夢見ている人というのは多い。自らが醜いにも関わらず、金持ちの美人と結婚して人生を見返そうという考えの人だ。彼の脳裏には、ブサイクな嫁と結婚したら今まで容姿で負けっぱなしだった人生の精算が取れない、というような感情があるかもしれない。普通に考えたら有り得ないことなのだが、彼にとっては今更後に引けない最後の希望となっている。美人の嫁を傍らに、「お前もやるねえ」などと言われることでこれまでの人生で受けた醜さ故の負債を全てを帳消しにしようとしている。そんなことは基本、何があっても叶わない。世間では極稀にそういう事例があったとしても、彼らは彼らなりに何か秀でた部分が魅力としてその相手を惹きつけたという結果がある。自らにそれが備わっているか、過去の経験も振り返って考えてみてほしい。無いだろう。しかしながらそういうレアケースを見るに、自分にも必ず同様の結論が待っていると信じて疑わない。そうやって40、50と年を重ねっていった人は数知れないだろう。僕自身は結婚が全てだとか妥協が大切だとかそういうつもりはない。ただ、他人を妬んだり、他人からの評価を恐れて自分を偽ったり、または見返そうなんていう発想を持ったところでそんな見栄の発表会みたいなところに本質的な価値は存在せず、人間関係というものを道具に用いて自分を大きかったり小さく見ても一時の満足感は得られるかもしれないが、後には何も残らない。本当に自分にふさわしい物は、人は、事は、鏡が一番よく知っている。それは小手先の自分磨きなんぞしたところで到底追いつかない。