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部屋へ戻る頃には日も落ち、あたりはもう暗くなっていた。廊下は方向を思い出しながら手探りで帰った。幸い足元につまづくようなことはなく、岩の壁は研磨されており手が傷つくようなこともなかった。

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廊下が真っ暗だっただけに、部屋の出入口からは外の明かりが差し、月や星の光が部屋の中を照らしていた。昼間同様とまではいかないものの、どこに何があるかわかる程度には目も慣れていた。

アンはもう仕事を終え、崖側のソファに座っている。あんなに急いでいたのもこの夜の暗さのせいだろう。明るいうちに残りの作業を処理したに違いない。僕は部屋に入り、イスに座ってリュックに括りつけていた寝袋を外した。僕のハンモックには掛け布団もブランケットもない。このまま寝るとさすがに風邪をひいてしまう。そしてリュックの中からサンダルと、部屋着用のステテコを取り出し、ブーツと靴下、ハーフパンツをその場で脱ぎ、部屋着に着替えた。思えば僕は今日ずっとこんな窮屈な格好をしていたんだ。食事の前に済ませておけばよかった。

僕は寝袋を持ち、自分のハンモックの上に置いてその横に座った。アンはソファの上にただ座っているのかと思ったら、何かを飲んでいるようだ。左手にガラスのコップを持っている。小さくもなけれ大きくもなく、やや厚めの、落ちても割れないようなグラスだ。透明な液体が2/3ほど入っている。それは外の光を反射していた。まるでその場所に星があるかのように。アンはグラスを持ったままソファからこちらを向いた。

「Do you want to drink?
(飲む?)」

彼女はグラスを掲げて言った。僕がグラスを見ていたからだろう。でも僕が見ていたのはグラスだ。星が集まるようなグラスと、それを持った、夜空の光に照らされるだけの、静かな女性の姿だった。黙ってじっとしていれば絵になるのに、彼女自身そんな意識は頭の片隅にも無いというぐらいに自然だった。僕が見たのはなんだったのだ。

「No, thanks. What’s that?
(いや、いいよ。何それ?)」

「This? I'm not sure. Somebody gave it to me, so drink as much as you'd like.
(これ?知らない。誰かがくれた。遠慮しないで。)」

「No no, I mean, what is it?
(いいよ、そうじゃなくて、何なのそれ?)」

「Well, apparently it's made from some kind of fruit, It's really delicious! You should give it a try. Honestly, I like wine better, but i'm running low so this'll have to do.

(そうね、フルーツから作られたみたい。美味しいよ、飲んでみて。本当はワインが好きなんだけど、そんなに持ってないから。)」

アンは飲みかけのグラスを僕の方に向けた。断るほどのことでもないから、僕は立ち上がるとソファまで行ってグラスを受け取り、隣のソファに深々と座った。寝てしまいそうだ。僕はグラスを口に近づけた。匂いは確かにフルーツの甘く酸味のある匂いだ。そのまま中の透明な液体を口にした。それは匂いほど甘くなく、なめらかで、香りと果物の味が舌の上を滑り降り、喉を潤した。僕はもう一口飲んだ。これはいわゆる、飲みやすくてたくさん飲んでしまい酔いつぶれてしまうタイプのお酒だ。

「Pass me the glass.
(グラスかして。)」

僕は彼女にグラスを返した。彼女はソファの下からボトルを取り出し、グラスになみなみと注いで一口飲み、また僕の方にグラスを向けた。僕はそれを手に取り、口に含んだ。全身が脱力していく。このまま目をつむってしまうと寝るだろうな。僕はもう一口飲み、グラスを彼女に返した。早くも顔が紅潮している。僕はお酒に弱い。もう頭の中と、この目の前に広がる星空の区別がつかない。

彼女は何も話さない。さっきの勢いはどこへ行ったのだろう。僕らは互いに違う国から来た、いわば旅行者同士で話題には事欠かないはずだ。かと言って僕自身、もうそんなに話す元気はなかった。彼女も急いで仕事を片付け、疲れているのかもしれない。この夜の静寂の中に溶け込んでいる。僕はそれが、意外にも似合っていると思った。元気でよく喋る人だと思っていたけれど、この落ち着いた姿が普段の、本来の姿なんじゃないかと思うぐらいに違和感が無かった。

僕たちはそのまま何も話さなかった。彼女はずっと外を眺め、時々グラスを口にし、そして時々それを僕に渡した。僕も彼女にならい、時々受けとったグラスを口にし、そして彼女へと返す、それを繰り返した。こうして旅行の1日目は終わった。

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