雪の記憶

先日、地元の京都では記録的な大雪がニュースになっていた。僕は写真でしか見ていないが、もし日本にいたら、京都にいたら自ら写真を撮っていただろう。僕が初めて雪を見たのは、おそらく生まれた年だ。実は、地元の京都市では毎年雪が降る。降り積もる。だから雪自体が僕にとって特別珍しいものではない。

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ここトロントにいて、ブラジルやサウジアラビアから来た留学生は生まれて初めて雪を見たと言っていた。逆にロシアやウクライナから来た人たちは終始「この程度は大したことない」というようなことを言っていた。僕にとってもトロントの雪というのは特別なものではなかった。それよりも寒さが身に沁みた。しかしロシアやウクライナから来た人にとって寒さも特別ではなかった。彼女らはよく「モスクワでは〜」というような経験談を口にしてくれた。モスクワから来ている人が多かった。僕はペテルブルグに行ってみたい。

幼いころ、親戚の家の前で大きな雪だるまを作った記憶がある。もっとも僕一人で作ったわけではなく、いとこや親と一緒になって作り、当時の自分より大きな雪だるまができあがった。確か、実家に帰ってアルバムを探せばその写真も残っている。ちゃんと目や鼻、口なども付けた。何を素材として付けたかは覚えていない。そんな大きな雪だるまを作ったことは後にも先にもない。小さなものであればその後も何度か作った記憶がある。

僕が保育園に通っていたころ、保育園の合宿のようなもので御室という場所にあったスキー場に行ったことがある。それが初めてのスキー場だった。僕はスキーというものは人生で一度もやったことがない。その時、3歳か4歳ぐらいの僕らがやったことといえば、ソリに乗って滑っただけ。僕らはまだ小さかったから一つのソリに4人ぐらい乗って、雪山を滑って降りた。僕は確か一度しか乗らなかった気がする。

その一度が座礁のようなかたちで少し雪の盛り上がった部分にぶつかり、幼かった僕にとってそれはまるで交通事故のような印象を受けた。乗り心地自体はすべり台とは違う、ジェットコースターのような感覚だった。あと僕ら保育園生のお父さんたちがこしらえたカマクラに入った。あれも幼い僕にとって不思議な体験だった。雪で作った家。中は広く、大人4、5人が入れた。テーブルやイスなども持ち込んで、そして暖かかった。

僕にとって雪が幻想的であった記憶というのはそれまでだ。その後僕は成長するに連れて子供の心を失い、雪と言えば寒さ象徴であり、移動の妨げであり、濡れるし、しかも冷たく、現実的な忌避の対象として雪を見るようになっていった。しかし同時に、雪化粧というものの趣を感じるようにもなった。見る対象として雪はいいものだと思う。それはここカナダに来て、また改めて実感するこにとなった。

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