金銭感覚について

僕は、いわゆるケチな人間だ。一言目には金、二言目には金、これは生まれ育った環境にも起因しているかもしれない。僕の生まれた家というのは裕福ではなかった。母親はいつも数千円の服やカバンなどを身につけており、ブランド物などには縁がない。父の金銭感覚は狂っており、服などにこだわりはないものの薄緑のたいして防寒性も高くないコートをよく着ていた。何年も同じものを。一度それがいくらなの知る機会があり、5万円だと言われて驚いた。これが5万円?という驚きだ。その他にも父はギャンブルが好きだから数万程度なら平気でつぎ込む。母があれなのにも関わらず。ただ、金の使い道が違うだけで限度を知っている人だったから、ギャンブルで身を滅ぼすようなことはなかった。

 

家庭以外にも、僕が関西人ということが影響しているかもしれない。大阪人ではないものの、京都は大阪の影響を大いに受けている。テレビ番組等は大阪のものばかり。大阪はかつて商人の街と呼ばれた商業都市だった。歴史に詳しい人ならわかるかもしれないが、大阪は経済感覚と人情が同居する変わった街なのだ。大阪人が口にする「なんぼのもんじゃ!」という言葉は標準語に置き換えると「いくらの方ですか?」になる。人の価値を金銭で測るという習慣が根付いている。

僕はというと、やはり物事の価値と価格を比較する癖がある。この商品にこの価格は妥当であるか否か。それを測る基準は、市場価格は、潜在価値はいくらか、など。だから、高くてもそれ相応の価値があると思えば支払い、安くても価値がなければ買わない。僕が子供の頃によく聞いた言葉があって、これが世間一般でどれだけ浸透している言葉なのかは知らないけれど「安物買いの銭失い」ということわざ?なのか、とりあえずこの言葉をよく聞いた。意味はそのままで、安いからと言って買うのはお金の無駄でしかない。お金を支払うに値するかどうかは、価値と価格のバランスが重要となってくる。

適正だと思えば買うし、割高だと思えば買わない。ただその指標というのは何も市場だけに左右されるものではない。ある人にとって、もしくは自分にとってそれが価値があると思えば、そしてその価格が自らの想定する価値より安ければ、やはり割安なのだ。例えば絵などは典型的な例だ。有名な絵には市場価格が存在するものの、その価値を測ることは非常に難しい。その絵が自らにもたらす効用(経済用語の満足度)というのは人によって違うだろう。このあたり僕が書いているようなことは経済学を少しでもかじった人にとって基本中の基本だったりする。効用最大化とか。価格が価値に見合っているかどうか、など。それは単に実用性の話ではない。満足度という感情に訴えかける基準なのだ。

実際僕自身も高額な買い物をする。例えば旅行なんかはそうだ。旅行好きの人でなければ中東まで行くのに30万近く費やしたりしないだろう。デジカメに50万近く費やすなんて、写真が好きな人でなければ正気の沙汰と思えない。僕のことを、人生を棒に振ってまで数百万使い外国に住んでいるのは頭がおかしいと思う人だっているかもしれない。逆に僕はテレビを見ないから、何インチであろうがメーカーがどこであろうが無価値だったりする。よくある、不動産を買うべきか借りるべきかなどという議論は永久に答えが出ない。それらは単純にコストパフォーマンスでは測れない。君はどう思う?に収束する。

金銭感覚の乏しい人がやりがちなのは、高いものは良い、安いものは悪い、と思ってしまうことだ。新興国の成金がブランドを買い漁るのに似ている。僕はブランド物が良いとか悪いとか思わないけれど、ブランドだけで買うことはあまりやらない。ファン精神というならわからなくもない。しかし本当にそれだけの愛着があるのか。何年も飽きずに使い続けられるかというと、ブランド買いの人はそうではないだろう。長く使えばいいってものでもないが、そこには多くの金銭的な無駄が生じる。ただ実際にはその分野に精通でもしていないと適正価格など知りようがない。そしてそれが悪いという話でもない。いくらであろうとそれで本人が満たされるならば、それが本人にとって一番良い買い物なのだ。

また、価格を気にしない人は世の中にたくさんいる。僕の父もその部類に入るだろう。高かろうが安かろうが気にしない。金を支払うことにたいしてあまり執着というか、関心がない。別にどうでもいいという立場の人だ。そういう人は大抵大金持ちか、又はお金がなくても生きる術を持っていたりする。技術であったりコネであったり、もしくは生きることに対してもそれほどこだわりが無いという場合もある。

僕がなんでこんなことを書いているかというと、最近キューバを訪れ、物価が全然違ったからだ。当たり前だけど、物価が違うと相場も違う。日本の感覚、もしくはカナダの相場感覚でいると、何が安くて何が高いのかわからなくなる。かと言って僕らが地元の金銭感覚を身につけることはできない。そもそもの生活水準、収入の基準が違ったりする。だから、商品が安いのか、高いのか、ボラれているのか、値切り倒したのか、それともいたって普通なのか、地元の人になってみないと判断できない。知識として相場を知ることはできても、その効用まで知ることはできない。つまり総合的に見て、高かろうが安かろうが自分が満足すれば別にそれでいいじゃないかという話。

僕はその、物々交換ではないけれどオークション制のような、買い手がある程度価格の裁量権を持つというのが理想だと思う。サービスなどもそうだ。本当は誰もが割安な買い物をして得したいと思うのだけれど、その態度というのは誠実ではない。「自分はそのものに対してこれだけの対価を支払いたい」と思うのが取引ではないだろうか。売り手は下限でも決めておいて「その金額では提供できない」と言えば取引は成立しないだけ。実際の市場価格、定価というのもそれらが複合的に絡み合って成立しているのだろうけれど。