文章ってけっこう相性

まあ、またブログの話なんだけど、文章の内容が面白いとか観点が面白いとか、発想が、切り口が、テンポが、リズムが、文体が、そういうのって結局相性でしかないんだなと思った。や、もちろん上手い下手、読みやすい読みにくい、というのは確実にある。僕は物書きじゃないからそのあたり何がどうとはっきり言えないけれど、あるのは確か。しかしその上で、所詮相性でしかないんだなとしみじみ実感した。

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相性というのはつまり、ただの好き嫌いだ。例えば僕の書く日記なんかは句読点がやたらと多く、それがどうしても我慢ならないという人もいるだろう。果たしてそれは技術的な話だろうか。「句読点を打つ位置」などは技術的な面だと思うけれど、多いか少ないか、などは単なる書き方のクセでしかないと思う。少し前に「句読点がなくてもスラスラ読める文章というのは上手い文章だ」みたいな記事を見かけたけど、そうなの?そう言われてしまえばどうしようもない。「じゃあ仕方ないね」としか言えない。とりあえず句読点についてここで話したかったわけではないから、それぐらいにしておこう。

と言うのは「このブログ面白い」とかいう話を聞いたり、はてブで人気だったり増田文学と呼ばれたり、些細であれとにかくある一定の評価を受けている文章でありながら、受け付けないということが多々ある。例えば、僕は高校生の時に太宰治にハマっていて、全集は持ってないけれど新潮文庫は全部家にあり金木町は遠いから行ってないけど三鷹には訪れ、太宰治のことだったら大体何でも知っているんじゃないかという感じだった。でも前の都知事だった猪瀬直樹が書いたピカレスク−太宰治伝−が読めなかった。内容どうこうではなく単に文章が受け付けなくて読み進められなかったのだ。まあ村上春樹嫌いの人があれほどいるぐらいだから、そんなのは世間一般においても日常的なことなのだろう。

これが例えば外国の文学だったりするとまた訳者に大きく左右される。僕は原著が読めないから(頑張って読んだとしても日本語のようにうまく染み渡らないから)、翻訳の差異というのを抜きにしてサリンジャーはやはり野崎訳が好きだし、ドストエフスキーなんかも光文社の新訳より新潮のいつ誰が訳したのか知らない古臭い翻訳が好きだったりする。「後生だから」ってどういう意味だよ、とか思いながらも。

ただ、それらは相性でしかない。中身がどうこうと説いているわけではない。だから本当に大切な、肝心な部分をただその文章が合わないというだけで見落とすどころか受け付けないというのは、実はもったないない話だ。形式にとらわらず内容を読み解くことが本当は重要なはずなのに、好き嫌いに囚われて本質に辿りつけないのだから。そういう読み方というのは、所詮娯楽の域を脱し得ない。逆に言えば、書く側として娯楽に徹したければひたすら読みやすくわかりやすく万人受けする文章で書くように努めればいい。

そして、娯楽の域を越えたければそうはいかない。本当に伝えたいことがあるとして「この内容はどうしても、こう書かなければ別物になってしまう」とか「こう表現するより他にない」といった場合、そこからはやはり読み手の努力が必要になってしまう。そうなると必然的に読む層が限られたり、相性に弾かれたりしてしまう。顕著なのは専門書や学術書で、そもそも何言ってるのかわからないしどう読んでも娯楽にはならないものの、素養がなくてもそれなりに頑張って読めば見えてくるものだってある。古典もそうだろう。書く側がわかりやすく書く、ということも重要ではあるんだけれど「サルでも分かる」本は、結局サルに分かることしか書かれていない。どこかで見た言葉を思い出す。

「本当に難しい内容は、難しくしか言い表すことができない」

だから重要だと思う文章については、相性にとらわれず、途中で投げ出したりせずに努力して中身を読み進めてみるのが大事かなと思った次第でした。はい、自戒です。というわけでみなさん、図解なんかに頼らず頑張ってトマ・ピケティ読んでください。

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