女の子を糧にしないと生きていけない

おそらく男性諸君であれば意識的にしろ無意識にしろ、覚えがあるんじゃないだろうか。女の子を糧にしないと生きていけないというのが意外と本音だったりする。それは彼女がいるとかセックスできるとかはとは全然別の話であり、ただ見たり話したり一緒にいたりするだけで人生はバラ色になる。

 

例えば学生であったら、クラスや授業で一緒になる人の中にこの人いいなと思う人がいればそれだけで学校に通うことができる。会社であっても得意先であっても、カフェや本屋、コンビニでさえそうかもしれない。話しかけるとか友達になるとか付き合うとか、そういうのとはまた別の話で、ただいてくれるだけで素晴らしい。そういった対象というのは、やはりどうしても見た目から入る。見た目というのは顔の構造に限らず、声、服装、仕草、態度、表情、行動、雰囲気、癖など、親しくなくても気付くような範囲を全て含む。意外な一面なんかを偶然見てしまったりすると得した気分になる。

会話することになったり仲良くなったり友達になっても、その視点というのは変わらない。目の保養という言葉があるけれど、やはり心動かされる対象というのはそのままで居続ける。むしろ、自分と直接やりとりをしている時はそんなことはあまり意識しない。目の前にいたら目の前のことを考えないといけない。話している内容に集中していたり、場の流れから切り返しのボケやツッコミを図っていたりする。むしろ後から思い出したり客観的な立場にいる時にこそ、愛でる心情が強まる。

バンギャがバンドマンの肉便器になりたがるような憧れとは少し違う。僕たちにとってはその、距離こそが尊い。美術品に手を触れられないように、適度な距離から一方的に親しむことに価値がある。干渉してしまうのはそれはそれ、分けて考える。延長線上にはない。赤子を可愛がっても、その子の親になりたいとは思わないのに似ている。ましてや付き合いたいなどと。対象によっては、見ていたいけれど仲良くはなりたくないという人だっている。そもそも、相手にその心情を告げたりすることはありえない。

僕個人的には、付き合う時は強烈に中身から入るため、やはり全く別物だ。相手の根底にある何かに対して疑問を抱かなければ、そういう踏み込んだことはしない。そういうのが全く無く、ただ見ているだけでいい人から何かを見出そうとしたところで、無い物は無い。それはどちらにせよ持つ者持たざる者、趣味の違い、嗜好の違いでしかない。

そんなことを言いつつも、僕は普段から人を全然見ていない。人がよく気が付くことにいつも全然気づいていない。それも言われて気がついた。それは何も、かわいい女の子に限らず、何も見ていない。街で人を指さしてどうこうなんてこともほとんどない。多分僕は普段から独りで過ごす時間が長過ぎて、その癖か何かでずっと自分の頭の中しか見えていない。どちらかというと空、雲や星座、風景は見ている。あと、誰かと対面している時や話している時は顔や服装が気になり、話を中断して指摘したりてきとうに褒めてみたりすることもある。それは目の前にいる時の話で、普段から見ているというわけではない。

行く先々で、愛でるって言うと気持ち悪いか、目の保養になるってのもいやらしい、好きな人でもない、なんて表現すれば的確かな、とにかく行く先々で慈しむ対象がいたら、どこへ行くのも前向きになれる。退屈な時間も我慢できる。僕はそういう、人生に些細な味わいをもたらしてくれる人々を愛してやまない。人はそれをアイドルと呼んたりするのだろうか。ちなみに僕は今、西 成夫のツイッターが気になっていてしょうがない。